結局、教会にとって都合がよいことが良い事なのだ・・

 題:結局、教会にとって都合がよいことが良い事なのだ・・
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 キリスト教は言う・・、
 「キリスト教会は・・聖霊によって成り立つ・・、
 聖霊を受けて人が、その本来の在り方に至らしめられる」
・・と。
 これはパウロが言ったことである。
 キリスト教を作った人である「パウロ」が言ったが・・、
 そして、今、キリスト教は、そのパウロの路線を進む「
パウロキリスト教」だが・・、
 だから、パウロは、実質、教祖であるのだが・・教祖と
いう言葉は避け、使わない様にしているキリスト教・・、
 しかし、実質的にパウロは教祖の何ものでもない。
 イエスの死後に、その立場を作って、教祖となった。
 標記のパウロの言葉は、はっきり、このパウロの生きた
時代を反映している。
 パウロは、聖霊を持ち出した。
 後に、この様な事もあって、キリスト教は、聖霊を無視
できなくなった。
 キリスト教は、焼き捨てた論理・教義・書籍類が多かっ
たが、都合の悪い書籍は・・何しろ焼き捨てた。
 整合しないもの、都合の悪いもの(当時のキリスト教
職者の判断で、都合が悪いと判断したもの)は、焼いたり
して、膨大な量を捨て去った。愚かなことである。
 ・・が、このパウロの言葉は残った。
 そして、パウロの死後、何百年も経て、キリスト教の公
会議という最高の会議で、すったもんだの挙句に、聖霊
キリスト教の神となった。反対者は異端として放逐された。
 キリスト教の神は、始め・・多神教だった。
 この多神教の時代が、長く続いた。
 一神と言うようになっても、色々な一神が登場した。
 あちこちで、また、時代時代で、一神という神が、各舞
台に登場した。
 例えば、それは、あたかも「山田という一神の神」「佐
藤という一神の神」「鈴木という一神の神」の如くの一神
を自称する神々だった。
 そして、標記のパウロの言葉などからも、キリスト教
聖霊を神とせざるを得ない窮地(きゅうち)に陥(おちい)
った。
 聖霊に、ここまでの役があるなら・・神だろう・・と。
 パウロは、聖霊と言わずに神と言えばよかったのだが、
 例えば、標記の文の聖霊を神に書き換えて見ると・・
キリスト教会は・・神によって成り立つ・・、
 その神を受けて人が、その本来の在り方に至らしめられ
る」・・と、
 まったく丸く収(おさ)まる。
(だから、逆に言えば、神のお出ましは、教会において無
いのだ)
 だがしかし、パウロは「神」と言わずに、「聖霊」と言
った。
 だからまた、新たに聖霊と言う名の神がキリスト教の神
として誕生するということになった。
 そして、標記のパウロの言葉も筋が通る様になった。
 ・・が、しかし、賢明なる方なら、この決定で、他に不
都合が、新たに出来た事をお気づきでしょう。 
 キリスト教は、その様な宗教なのです。
 しかし、標記のパウロの言葉は、キリスト教会の顔をひ
たすら立てたい「パウロの個人的好み」がよく出ている。
 イエスの言葉や、イエスの行動を棄てたパウロは、ここ
でもイエスを無視している。
 そして、パウロの、ズーッとズーット後に出来た三位一
体神を、パウロが知る由(よし)も無いので、三位一体神
が出て来る訳は、ここではない。
 キリスト教は、この様な事例でも分かる様に、時の流れ
の中でも、よりどうしようもない領域に入り込み、より複
雑に、よりシッ茶かメッチャカになって来ている。
 キリスト教は、結局、この様な分かった様で、実は、解
決にもなって無い、そして、解決不可能な領域に入り、そ
して、解決しようするが「まったく分からない空理空論の
世界」に遊び、そして、舞っている。
 可哀想なのが、それを信じなければならないキリスト教
徒の方々・・、複雑怪奇(ふくざつかいき)の中に住み、
心を痛め、その時が続き、心が蝕(むしば)まれて行く。
 理解不可能領域のキリスト教から、早く離れなさい。
 皆が皆、理解不可能領域にいる宗教なのです。
 パウロの・・この教会を持ち上げてくれる論理は、教会
にとって都合が良かった。ただ、それだけなのだ。
 教会にとって、キリスト教は、いつの時代もそうなのだ
が、自分の都合のよい、利のある事しかして来なかった。
 その中で、魔女の教会論理と実行は悲惨極まりなかった。
 教会にとって都合がよいことが・・良い事なのだ。
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