軍師官兵衛がキリスト教を棄教している。NHKは正直に放送をするか?

題:軍師官兵衛キリスト教を棄教している。NHKは正直に放送をするか?
副題:キリスト教に偏するNHKが、軍師官兵衛がキリス
 ト教を棄教しているが、NHKはこの史実を正直に放送
 をするか?・・非常に危惧している。
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 軍師官兵衛が、キリスト教徒であると・・キリスト教
偏するNHKは、日曜大河ドラマで放送しているが・・、
 この軍師官兵衛が、『キリスト教を棄教している』。
 キリスト教に偏するNHKが・・、
 この事実を、史実を、正直に放送するか? 
 非常に疑問だ。また、
 キリスト教に偏するNHKは・・、
 連続テレビ小説花子とアン」で、連日・毎日、キリス
ト教に関わる放送(巧妙なるキリスト教の伝道放送)をし
ている。
 「赤毛のアン」の翻訳者の放送だが、キリスト教が色々
な場面で出てきて、美化して放送している。
 『教会は本があっていい』などのセリフが、いろいろ、
何度も出てきて、そして、何とかかんとか・・と。
 「赤毛のアン」は、キリスト教が『第二のバイブル』と
する本で・・、
 キリスト教に偏するNHKは、この連続テレビ小説以外
にも、語学番組とかと、色々な番組で、長い期間、色々な
形で、この「赤毛のアン」を放送番組として作り、何度も
何度も、手を変え品を変え放送している。
 他に、この様な、最恵国待遇的な扱いをされる事例はな
いという状態。
 この様な「キリスト教の本の様な特別な扱い」を受けて
いるものはない、キリスト教に偏するNHKが、やりそう
な事となっている。
 また、NHKの視聴率の良い番組の日曜日の大河ドラマ
軍師官兵衛」もキリシタン大名だとして、また、番組の
あちこちで、ドラマの筋とは何ら関係が無いのに、キリス
ト教に関する場面を、美しく作って放送しているが、この
番組も「巧妙なるキリスト教の伝道放送」となっている。
 しかし、この官兵衛がキリスト教を『棄教している』。
 キリスト教に偏するNHKは、これを正直に放送するか?
・・が、非常な疑問となっている、今までの流れから、キ
リスト教に偏するNHKは、放送しないのではないか?と、
非常な危惧が感じられている。
 因みに、下記のブログも、黒田官兵衛キリスト教を棄
教していることを伝えている。
 http://netabare1.blog137.fc2.com/blog-entry-3031.html
 題は、『豊臣秀吉九州征伐黒田官兵衛キリスト教
の棄教』となっている。
 また、秀吉の禁教令は、南蛮貿易が大切だと一旦はゆる
めたが・・、
 やはり、スペインやポルトガルの王制の先兵的な立場で
来ているキリスト教宣教師とその組織に、『領土的野心が
ある』ことを、秀吉は分かると、キリスト教禁教令を厳し
くし、また、ルソンのキリスト教総督府へ、日本への領土
的野心を捨てる様に手紙を送っている。
 (追伸):
 上記は2014・6・5に、NHKへ送信している。
 NHKが知っている状態にしている。
 NHKが正直に、史実に基づいて、番組を作り、放送す
るかをこれから確認したいと思います。
 多分、やったとしても、ちょこちょこっと「お茶を濁(
にご)す」程度であろう。安倍首相がオリンピックに行っ
た時の様に・・。
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 [上記URLの内容の抜き書き]:
 NHK大河ドラマ軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵
衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛黒田如水
」のあらすじとネタバレ播磨編「豊臣秀吉の九州親征」で
す。(中略)
 ■豊臣秀吉の九州親征
 豊臣秀吉が九州親征を決定すると、黒田官兵衛は豊臣秀
吉の到着に先だって、各地の豪族に豊臣秀吉の威風を流布
し、「羽柴秀吉に味方すれば、領土は保障される。羽柴秀
吉が到着したら降服を申し出ろ」という怪文書をばらまい
た。
 天正15年(1587年)3月29日、豊臣秀吉豊臣秀長が計
20万の軍勢を引き連れて豊前の小倉(福岡県北九州市小倉)
に到着した。
 小倉に入った豊臣秀吉は、軍を2手に分け、豊臣秀吉は10
万の軍を率いて九州を西側(西街道)から南下し、豊臣秀
長は10万の軍を率いて九州を東側(東海道)から南下を始
める。豊臣軍は九州の西街道と東街道の2手から薩摩(鹿児
島県)の島津義久を目指した。
 軍師・黒田官兵衛は毛利軍と共に豊臣秀長の先鋒隊を務
め、九州を東側(東街道)から薩摩を目指して南下する。
 さて、豊臣秀吉が南進を開始すると、黒田官兵衛が事前
に流した怪文書の効果により、続々と豊臣秀吉の帰順する
者が現れ、北九州は豊臣秀吉の勢力下となり、九州の勢力
図は一気に塗り替えられた。
 対する島津義久は、北九州を放棄し、薩摩(鹿児島県)
大隅(鹿児島県)・日向(宮崎県)の本拠地3国で羽柴秀
吉の軍を迎え撃つ作戦に出た。このため、島津軍は豊後(
大分県)からも撤退した。
 ■黒田官兵衛と高城の戦い
 天正15年(1587年)3月、黒田官兵衛を先鋒とする豊臣
秀長の軍勢は、豊後(大分県)から撤退する島津軍を追撃
する形で日向(宮崎県)へと侵攻した。
 そして、天正15年(1587年)4月6日、豊臣秀長の軍勢
は、日向(宮崎県)にある耳川を渡り、島津家の名将・山
田有信が守る日向の高城(宮崎県児湯郡木城町)を、8万の
軍勢で取り囲んだ。
 さて、日向(宮崎県)の高城は、天正6年(1578年)に
豊後のキリシタン大名大友宗麟の大軍に攻められたこと
があった。
 しかし、高城は日向(宮崎県)でも有数の名城で、高城
の城主・山田有信は少数の兵で大友宗麟の大軍を追い返し
た。
 島津義久は、大友宗麟を追い返した時と同じように、高
城を防衛ラインとし、高城で豊臣秀長の軍を追い返すつも
りであった。
 ところが、豊臣秀長は高城を力攻めにせず、8万の大軍
で高城を取り囲み、高城の周りに砦を築いて兵糧攻めに出
たのである。
 名将・山田有信といえど、8万の大軍に包囲されて兵糧
攻めにされたのでは、なすすべは無かった。
 知らせを受けた薩摩(鹿児島県)に居る島津義久は、山
田有信の窮地を救うため、島津家久島津義弘を従え、主
力部隊2万の兵を引き連れて高城を目指すのであった。
 ■黒田官兵衛と根白坂の戦い
 さて、高城から南方に1里の場所に根白坂という要所が
あり、軍師・黒田官兵衛蜂須賀家政・尾藤知宣・宮部継
潤らを率いて根白坂に陣を敷いていた。
 島津義久は2万の軍勢を率いて高城の援軍に駆けつけたが、
根白坂に黒田官兵衛らが布陣しており、高城にはたどり着
けず、黒田官兵衛らと対峙する。
 島津義久豊臣秀長から高城の明け渡し要請を受けたが、
これを拒否し、天正15年(1587年)4月6日深夜、根白坂
を守る豊臣軍の宮部継潤の陣に奇襲攻撃をかけた。
 しかし、宮部継潤は、柵を築いて奇襲攻撃に備えており、
島津軍は反対に大打撃を受けてしまった。それでも怯むこ
と無く島津軍は、宮部継潤の部隊に突き進み、宮部継潤を
攻め立てた。
 宮部継潤の窮地を知った豊臣秀長は、宮部継潤の援軍に
向かおうとしたが、軍監(軍師)の尾藤知宣が島津軍の策
略を警戒して、豊臣秀長に出陣を中止させた。
 豊臣秀長の援軍中止により、宮部継潤は絶体絶命の危機
に追い詰められてしまう。
 黒田官兵衛は、この窮地を打開するため家臣・村上彦右
衛門に命じて「豊臣秀長が6万の兵を率いて援軍に来る」と
いう嘘の情報を流すと、島津義弘の陣を目がけて突撃した。
 豊臣秀長が援軍に来るという情報によって、宮部継潤の
兵は持ち直した。一方、援軍の噂を知った島津軍は動揺す
る。
 そこへ、黒田官兵衛島津義弘の軍勢に突撃して島津義
弘を撃破する。島津義久は、島津忠隣など多くの武将を失
い、敗走した。(根白坂の戦い)
(中略)
 ■黒田官兵衛と九州国分
 九州を平定した豊臣秀吉は、天正15年(1587年)6月7日
筑前箱崎(福岡県福岡市東区)に入った。豊臣秀吉
箱崎20日間留まり、この間に九州征伐の論功行賞を行っ
ている(九州国分)。
 この論功行賞で、豊臣秀吉豊前(福岡県東部)8郡のう
ち6郡12万石を黒田官兵衛に与え、残り2郡を毛利吉成(毛
勝信)に与えた。
 ただ、黒田官兵衛が与えられた豊前福島県東部)6郡の
うち、妙見岳城と竜王城の2城は黒田官兵衛の領地から除外
された。
 そして、除外された妙見岳城は大友家の一族・田原親賢
(田原紹忍)に与えられ、竜王城は大友家の一族・田原親
盛に与えられた。
 こうして、黒田官兵衛豊前福島県東部)6郡を賜り、
播磨(兵庫県)4万石の弱小大名から、12万石(実質は18
万石とも言われている)の大名にまでのし上がったのであ
る。これは黒田官兵衛が42歳のことであった。
 なお、四国征伐九州征伐での黒田官兵衛の活躍を考え
ると、12万石では褒美が少ない、とされている。これにつ
いては、「羽柴秀吉黒田官兵衛の才能を恐れていたため、
多くの領地を与えなかった」という説もあるが、「12万石
豊臣秀吉の家臣と比べて特別に少ないとわけでは無い」
という説もある。
 ■黒田官兵衛キリスト教の棄教
 天正15年(1587年)6月19日、筑前箱崎(福岡県福岡
市東区)に滞在する羽柴秀吉は、九州征伐の論功行賞の一
方で、突如として宣教師ガスパルコエリョバテレン
放令を突きつけた。バテレン追放令(禁教令)とは、キリ
スト教の布教を禁止する命令である。
 羽柴秀吉織田信長の影響を受けており、キリスト教
友好的で、宣教師ガスパルコエリョらを建築中の大阪城
に招いて、大阪城を案内するなどしていた。
 そして、豊臣秀吉バテレン追放令を発令する前日もポ
ルトガル船に乗って船上パーティーを楽しんでいた。
 しかし、豊臣秀吉は九州の地で突如としてバテレン追放
令(禁教令)を発令した。宣教師ガスパルコエリョらに
とっても、バテレン禁止令は全く予期していない事だった。
 豊臣秀吉バテレン追放令を出した理由には諸説があり、
豊臣秀吉が九州で勢力を拡大するキリスト教を目の当た
りにして恐れた」「キリスト教が日本人を奴隷として貿易
していたため、豊臣秀吉が激怒した」などいう理由が一般
的である。
 黒田官兵衛高山右近の影響を受けて、天正11年(158
3年)ごろに洗礼を受けていた。黒田官兵衛は「シメオン」
という洗礼名を持つ、キリシタン大名であるが、豊臣秀吉
バテレン追放令を発令すると、黒田官兵衛はいち早くキ
リスト教を捨てた。
 しかし、キリシタン大名高山右近は、最後までキリス
ト教を捨てなかったため、豊臣秀吉の怒りを買い、領地没
収のうえ追放されてしまう。(後略)
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   (詳しくは、以下のブログへ)
URL:http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /