すべての人は、自分を・・肯定できる・・、

 題:すべての人は、自分を・・肯定できる・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 五木寛之氏の著、「生きるヒント、愛蔵版、全一巻」の
142頁〜に・・、素晴らしい言葉が続きます。
 「・・(前記事は略)・・男性の場合には、さしたる更
年期はありませんが、窓際族とか定年退職とか社会的活動の
減速期と重なります。
 その時期にようやく人間というものは人生を真剣に想う
ようになって、そこでものすごいショックを受けます。
 程度の差こそあれ、例外なくそこで色んな傷つき方をす
る。・・(中略)・・
 では、どうすればいいかというと、こういう問題を一日
でも早く、もう少年のときから、あるいは子供のときから
真剣に考えたほうがいい、というのがぼくの考え方なんで
す。
 一度もそういうことを想おうともせずに、ふだんそうい
うことが意識の隅にうかびあがってこようとすると、あわ
ててそれに蓋(ふた)をしめてしまう。
 重しをのせて、うかかびあげってこないようにする。
 そして、できるだけ明るくニコニコと楽しく暮らす。
 そういう形でずうっとやってきた人ほど、いつしか重し
がとれて、かめの中から人生の不条理というものがぬっと
顔を出したとき、それに直面したときのショックは大きい
のです。
 人生というのはこういうものらしいなということを少年
時代や少女のころから慣れ親しむという言い方はオカシイ
のですけれども、死ということに想いをめぐらしたり、人
間の有限の生命ということを考えたり、感じたり、そうい
うことをずうっと意識の隅に置きながら、それと共に生き
て来た人のほうが、実は非常にいきいきと平静に、しかも、
幸福に、自分の白秋から幻冬(げんとう)へ移動していけ
るのではないでしょうか。・・(中略)・・
 人間が、それでも生きてゆこうとして、十年生きて子供
のうちに死んだとしても、その十年間というのはすごい貴
重な戦いなのです。
 二十年生きたということはもっとすごいと思います。
 まして三十年生きた、四十年生きた、五十年生きて、い
ま六十歳を迎えたという方は、本当にがんばって生きてき
ただけで、これだけの重さを背負いながら、これだけの不
条理をはね返しながら、いろいろな人生の変転の中でいま
生きているというだけで、ものすごく価値のあるものなん
じゃないでしょうか。
 そういうふうに考えなければならないと思うのです。
 生きているということに、つまり肉体を養うために、あ
るいは心をささえるためにどれだけの根とか根毛が必要だ
ったかを考えてみますと、目に見えないものすごい努力と、
大変なエネルギーで、この生命がかろうじて維持されてい
るということに気づきます。
 人間は(シェイクスビアの言うように)泣きながら生ま
れて来て、重い重い宿命を背負いながら、それをはね返し、
はね返し、生きている。
 これ以上、その人間に何を要求するだろうか。
 失敗した人生もあるであろう。
 平凡な人生もあるであろう。
 成功した人生もあるであろう。
 だけど、どの人間もみんなそのように与えられた生命と
いうものを必死で戦って生きてきたひとりの戦士なのです。
 そう考えてみますと、生きていくということはすごいこ
とだな、どんな生き方をしたかということはせっかちに問
うべきではない、という気持ちにさえなります。
 生存していること、この世の中に存在していること、こ
のことで人間は尊敬されなければならないし、すべての人
は自分を肯定できる。人は己の人生をそのまま肯定しなけ
ればならない。
 余力があれば、世のため、人のためにも働けるにちがい
ない。
 いまはただ、生きて、こうして暮らしていることだけで
も、自分を認めてやろうではないか、と。
 そこから、本当に希望のある、前向きな人生観が生まれ
てくるのではないでしょうか。
 そんなふうに今、ぼくは人生というものを受けとめてい
るところです。
..
   (詳しくは、以下のブログへ)
URL:http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /