イスラエルの地の出来事

 題:イスラエルの地の出来事
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 イエス(BC4頃〜AD30頃)。
 一人のユダヤ人として、ユダヤの一時期、歴史の中で必
死に生きた人だった。
 今・現代、そのユダヤ人の方たちから、一番、疎(うと)
んじがられている人でもある。
 イエスは、北イスラエルの地・ガリラヤに生まれ育った
が、そして、南イスラエルの地には「ユダ王国」があった。
 この「ユダ王国」に、イエスの生まれるはるか以前の時、
 「ギリシャ帝国」から命令が来た。
 「イスラエルの宗教を捨てよ」。
 そして、「ギリシャの祭壇に供犠を捧(ささ)げよ」・
・と。
 イスラエルの民は、この「セレウクス朝ギリシャ帝国」
の帝の勅命に従った。
 これを見た「ユダ王国の王権を継ぐ家系である『ハスモ
ネ家』の系図に居る『マタティア』(?〜BC166年)」は、
激怒した。そして、叫んだ。
 「宗教連合を支持するものは、我が後に続け」。
 マタティアは、5人の息子・ユダ(マカベ)・シモン・
ヨナタン等と支持する人々と山に潜伏した。
 ゲリラ戦である。
 そして、マタティアが死んだ後は、ユダ(マカベ)が引
き継いだ。
 そしてまた、ユダの戦死後は、ヨナタンが引き継ぎ、
 エルサレムを占領した。
 セレウクス朝ギリシャ帝国に、ハスモネ家は大司祭の系
図でもあったので、正式に大司祭職を認めさせた。
 しかし、このヨナタンも、後に捕えられて、殺された。
 その後は、シモンが引き継いだ。
 しかし、このシモンも暗殺されてしまった。
 引き継いだのは、シモンの子のヨハネス・ヒルカヌス
(BC135〜105年)だった。
 ヒルカヌスは、「ローマ帝国」の援助を得た。
 ここで、やっと、ユダは独立できた。
 王国が建設できた。
 ヒルカヌスは、気になっていたサマリア人の神殿を破壊
した。そして、割礼を強いた。
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 そして、時は遡(さかのぼ)ってギリシャの話。
 ギリシャの大王だったことで有名なアレキサンダー(BC
356〜323)が死んだ時、アレキサンダーの死によって、安
定していた勢力図に変化が現われた。
 そして、それまでのギリシャ帝国は、分割・割譲されて
いった。
 世の勢力分布は変わった。
 「本拠マケドニア」と、「クレオパトラ(BC70〜30)で
名高いエジプトのプトレミオ朝」と、「アジアのセレウク
ス朝ギリシャ」だった。
 パレスチナのこの小さな国は、これ等の大国の「はざま」
で生きた。
 パレスチナの地は、「セレウクス朝ギリシャ」と「プト
レミオ朝エジプト」の争点の地となった。
 この時のセレウクス朝ギリシャは、ユダヤ人を徹底的に
ギリシャ化しようとし、エルサレム神殿を破壊した。
 そして、「ゼウスの神殿」を建てた。
 ユダヤ人の律法は厳禁となった。
 ギリシャ人は、彫像(イコン)を美化・尊重した。
 裸体美を愛した。
 これは、ユダヤ人は、宗教的に受け入れられなかった。
 裸体は恥辱の最たるものだった。
 ヤハウェ神殿の近くで、裸体で体育競技をするギリシャ
人に反感し、嫌悪を持った。
 ギリシャ化したユダヤ人が裸体になったりした。
 ハスモネ家のヒルカヌスは、大司祭を名乗ったが、事実
上は王だった。
 世の中は世俗化した。
 大司祭の世俗化でもある。
 人々はこのことに反発した。
 「王権は、ダビデと、その裔(えい)に継承される」
である。
 ユダヤの人々の中には、律法への忠誠と共に、世俗化し
た王権力への反感を持つ人たちがいた。
 この人たちが、「パリサイ派」の人たちだった。
 ユダヤの人々には、このパリサイ派の人々の他に「サド
カイ派」の人たちがいた。
 サドカイ派は、上層部の人たちが支持し、王・ヒルカヌ
スも、このサドカイ派と結び付いていた。
 イエスは、この「パリサイ派を、よく、罵倒した」。
 一般的に、「サドカイ派が、国家主義的」で、
 「パリサイ派は、国際主義的・国際協調的」と言われる。
 ユダヤ人の「バビロニア捕囚などの、異民族の中での生
活の経験が、ユダヤ人を国際的な感覚にし、国際協調的に
していた」。
 キリスト教教義の「異教徒は殺せ」は、まったく、卑劣
で、劣った教義である。
 この教義は、まったく、国際的な人間を作らず、人間を
成長させない教義である。
 ユダヤ人の多数は、パリサイ派になっていた。
 このパリサイ派を、イエスはしきりに罵倒したが、その
意義が分からない。
 このイエスの生まれる前、紀元前40年に、
 南イスラエルの「ユダ王国」に、大王と言われた「ヘロ
デ (BC73〜BC4)」が、この年に王位についた。
 ヘロデは、「ユダ王国」の長くはないが王位を継承する
「ハスモネ家」の系図にいる人だった。
 ユダヤの国家、ハスモネ家の国、その大王と言われたヘ
ロデ王の時、社会矛盾が激化する。
 階級の格差も大きくなる。 
 この様な流れから、パリサイ派の中に、分派の動きが生
まれる。
 そして、この動きは、「戦闘的な『熱心党』を生んだ」。
 また、その反動で「隠者的なエッセネ派が生まれ、裸体
に反感して、長衣をまとった」。
 一方、パリサイ派の人々は、復活の思想を持ち、奇蹟を
信じ、メシア(救世主)出現の思想を持った。
 サドカイ派には、「復活の思想はなかった」。
 当初、イエスは、「しきりに罵倒したパリサイ派に所属
していた」。そして、批判色を濃くしていった。
 所詮、イエスは、一つの決まった組織内に居られる人で
はなかった。
 イエスの行動は、ガリレア湖畔のカぺルナウム(町の名)
で、ユダヤ教のラビ(聖職者)として説教をした。
 時代を眺めてみると、
 イスラエルの地は、戦争に明け暮れる地獄の様相の地だ
った。
 パリサイ派は、サドカイ派を弾圧したりし、
 パリサイ派が、第一王子を支持たのに対し、サドカイ派
は、第二王子を戴いて巻き返すとかの泥沼状態。
 それらの争いに乗じて、様相を見ていた外国勢が、侵入
し、漁夫の利を占めようと、エルサレム神殿に兵が至って、
 祭司はその場で殺されたり、反抗した王子は捕えられた
り、虐殺の悲惨な声が満ちたりと・・。
 宗教の劣悪さが、卑劣さが、時代の様相に反映していた。
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 (参考)アレクサンドロス3世(古希: Ἀλέξανδρος Γ'、
紀元前356年7月? - 紀元前323年6月10日、在位紀元前33
6年 - 紀元前323年)、通称アレクサンドロス大王(古希:
Ἀλέξανδρος ὁ Μέγας)は、アルゲアデス朝のマケドニア
王、ヘラス同盟(英語版)(コリント同盟)の盟主、エジ
プトのファラオを兼ねた人物である。ギリシア語ではアレ
クサンドロス大王であるが、この場合は英語風に読んでア
レクサンダー大王またはアレキサンダー大王とすることも
多い。
 (参考) うと・む【疎む】 [動マ五(四)]いやだと
思う。嫌って遠ざける。うとんずる。
 (参考)ヘロデ【Herod】 [前73ころ〜前4]ユダヤ
王。在位、前37〜前4。キリスト誕生当時専制君主として
君臨、ヘレニズム文化に心酔し、エルサレム神殿を再建。
猜疑心(さいぎしん)が強く、妻子や縁者を殺害。
 (参考)マケドニアギリシア語:Μακεδονία、マケド
ニア語:Македонија、ブルガリア語:Македония)は、東
ヨーロッパのバルカン半島中央部にあたる歴史的・地理的
な地域。67,000km²ほどの広さにおよそ465万人が住み、
中心的な都市は南東部にあるギリシャ領のテッサロニキ
サロニカ)である。
 (参考)クレオパトラ7世フィロパトル(ギリシア語:
Κλεοπάτρα Φιλοπάτωρ, ラテン語: Cleopatra VII Philop
ator, 紀元前70年12月/紀元前69年1月 - 紀元前30年8月1
2日)は、古代エジプトプトレマイオス朝最後のファラオ
である。父はプトレマイオス12世(アウレテス)、母はク
レオパトラ5世であり、兄弟はベレニケ4世(姉)、アルシ
ノエ4世(妹)、プトレマイオス13世、プトレマイオス14
世(英語版)(共に弟)が知られる。「クレオパトラ」の
名はギリシア語で「父の栄光」を意味する。
現在、一般に「クレオパトラ」として浸透しているのは、
このクレオパトラ7世の事である。「絶世の美女」として
知られ、人をそらさない魅力的な話術と、小鳥のような美
しい声であったと伝えられる。ただし、クレオパトラの肖
像は治世当時、アントニウスが発行したとされている硬貨
に横顔がのこされているのみであり、この評価は後世の作
り話だとの説がある(#人物節を参照)が、妹のアルシノ
エ4世の復元図から姉のクレオパトラも美しかったとする
説もある。
 (参考)ゼウス(古希: ΖΕΥΣ, Ζεύς, Zeus)は、ギリシ
ア神話の主神たる全知全能の存在[1]。全宇宙、天候(特
に雷)、社会秩序を司る天空神でもあり、オリュンポス十
二神をはじめとする神々の王である。
 (参考)えい【裔】 血筋の末。子孫。
 (参考)カペナウム(ギリシア語: Καπερναούμ, Kaper
unaoum)は新約聖書に登場する、ガリラヤ湖の北西岸に
ある町のことである。今日のイスラエルのテル・フームに
あった。新共同訳聖書では、カファルナウムと表記。
 日本正教会訳聖書ではカペルナウムと表記される。
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  (詳しくは、以下のブログへ)
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /
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