そこに神はいるのか。

 題:そこに神はいるのか。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 キリスト教の教義や聖書などが、宗教として形づくられ
ていく過程・経過において、
 キリスト教の聖職者が言う様に、美しく経過し、出来あ
がって行った訳ではなかった。
 キリスト教を信仰する民も、美しく統一されて、美しく
信仰を守って来た訳では無かった。
 民もあらゆる民族と混血した。
 信仰において、『神から与えられた』という常套句が、
よく使かわれるが、
 神から与えられたという、『純粋無垢なものという話と
は程遠かった。
 そこには、民の生きる「生き様」と共に、信仰が形作ら
れて行き、多くの血も流れ、民はさ迷い、戦いに明け暮れ
もし、砂漠の地の宗教は形成されていくという過程があっ
た。
 神の介在は無い。
 民が、生きる「もだえ」の中から、人の手、民の手によ
って形作られて行ったものだった。
 海に囲まれ、長い長い期間、まったく有難いことに、ま
とまりの中にいた日本とは違う地であった。
 イスラエルの地で、糧を求めて、生を求めた、色々な民
族が行きかい、争いをする、長い時が流れる中から生じて
来た。
 そのある一時期の話。
 紀元前721年、イスラエルの民は、北と南に分かれてい
た。
 しかし、平安の時は続かなかった。
 その内の、北にある「北イスラエル王国が滅亡した」。
 外敵の侵入による滅亡だった。
 南にある南イスラエルの「ユダ王国」は、生き残るため
に、アッシリア王国にゴマスリの臣従の道を選んで、命脈
を保った。
 しかし、そのアッシリア王国も、紀元前612年に滅亡す
る。
 北イスラエル王国が滅亡してから109年の時が経過して
いた。
 そして、それから15年の後の紀元前597年に、
 新バビロニア軍によって、エルサレムは攻撃を受けると
いう悲劇が発生した。
 これによって、第1回バビロニア捕囚が行われるという
悲惨な事態も起きた。民が連れて行かれるという。
 そしてまた、その10年後の紀元前587年に、
 第2回目の攻撃をエルサレムは受けた。
 この時にエルサレムの命運は尽きた。外国による征服が
成立した。
 異教徒の制圧である。
 勿論、宗教的干渉もなされた。
 それでなくても、南イスラエルユダ王国は、アッシリ
ア王国にゴマスリ従属していた時も、イスラエルの民は、
自分たちの信仰の形は保っていられなかった。
 異教の神・バール神への礼拝が、大っぴらに行われた。
 また、信仰の中心だったイスラエルの民の『エルサレム
神殿』には、「異教徒の神・バール神」に捧(ささ)げる
ための神殿までもが作られた。
 そして、エルサレム神殿の屋根の上にまで、「バール神
の祭壇」が設けられた。
 エルサレムの従属は、侵略国家の風俗となった。
 第二次世界大戦後の米軍占領下の日本と同じであった。
 エルサレムの娘たちは、異教の男の求めに応じ、
 「目に媚(こび)をたたえ」「自分たちの信仰の神に背
(そむ)き」、緑の木の下で、生活のためとはいえ、外国
の男たちの求めに応じた。
 (「イザヤ書」1章)に、
 「ああ忠信なりし町、いかにして遊女とはなれる。往時
は公平にてみち・・いまは人殺しばかりとはなりぬ」。
 この1例の様な事々を吸収し、歴史の事々を経験し吸収し、
それらが混ざり合って宗教は形成されて行った。
 キリスト教は、また、ヨーロッパに入って行く時にも、
節操無く、恥ずかしげも無く、異教の地の神々と習合した。
 集合癖のあるキリスト教は、あらゆる地場の神を吸収し
た。
 以前の形を保とうという何ら節操もない、確固したもの
もないキリスト教キリスト教の性癖である。
 そこに神はいるのか。
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