偶像が、いっぱいのキリスト教。

 題:偶像が、いっぱいのキリスト教
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 キリスト教の『モーゼの十戒』の二項目に、
 「偶像を作ってはならない」とある。
 しかし、この項目の戒は、「常に意識されていたわけで
はなかった」。
 見過ごしていた時代もあったし、
 厳しく言った人は、「イザヤ書」の(40条以下)の著者
の第二イザヤである。
 彼は、偶像について、手厳しく攻撃をするが、この例の
様に、その人その人や、時代によって差がある。
 しかし、キリスト教が、十戒の「偶像崇拝」について、
他宗教を攻撃する資格はない、また、権利もない。
 キリスト教こそが、『偶像崇拝宗教』の状態にある。
 ブラジルの山の頂上に『大きなイエス像』を建てている
が、これも『偶像』である。
 また、この様な偶像を立てる行為を、世界のあちこちで
やっている。
 また、キリスト教の聖堂の外壁には『像を嵌(は)め込
んだりしている』。
 またそれも、戦争で侵略した地の「他宗教の偶像」を、
こりゃいいと、持ち帰り、聖堂の外壁に嵌め込んだりもし
ている。
 それこそ他宗教の『異端の宗教』の像を、聖堂という重
要で神聖な建物に嵌め込んでいるというお粗末な行状であ
る。
 イスラム教は、キリスト教の様な『十字架』や『十字架
に付けられたキリスト像』に相当するものはない。
 それをすると、『偶像崇拝になる』と『正しい解釈』を
しているからだ。
 祈るのは、ただ、『マーク』に向かって祈る。
 神の居る方向に向かって神に祈る事を大切にしている。
 キリスト教の様な、『偶像へ向かって祈る』ような事は
していない。
 キリスト教は、その他においても、偶像が満ち満ちてい
る状況。
 『マリア像』も、あちこちに一杯ある。
 また、『聖人像』も、いやなくらいにあちこちに飾って
ある。
 『聖画像』も多いし、節操はない。
 「偶像崇拝宗教=キリスト教という状況である」。
 インドの、マザー・テレサ修道院も、異常な状態の偶像
を飾っている。
 『マザー・テレサ像』が、びっくりする形で飾られてい
る。訪れる人がびっくりする。
 キリスト教の聖職者は、「人間が人間の自分のために神
を作り、それを礼拝する。これは、神のための神ではなく、
自分のための神となる」と批判しているが、
 自分の足元を見なさいと言いたい。
 この、キリスト教の聖職者の言葉は、自分の顔に唾を吐
くようなものです。
 像を彫(ほ)って人間のためと決め付けるのはおかしい。
 この逆の言葉が、キリスト教に戻って来る状態です、『天
使像』も一杯ですし、他を批判できない状況です。
 キリスト教は、本当に、どこが偶像崇拝忌避宗教なので
すかと指摘できる現状です。
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(追伸)
 ユダヤの民の一番の歴史上の人・モーゼ。
 そのモーゼが、いつ、何処で、唯一信仰を持ったかなど、
いまだに解明はされては居ない。
 モーゼの存在そのものも、疑問視されている。
 そのモーゼの頃と思われる頃から、600年〜700年も後
になって、初めて、「偶像崇拝」が問題となった。
 故に、モーゼの頃は、偶像崇拝は問題となっていなかっ
た。
 故に、明らかに、「モーゼの十戒」の第二項の「刻んだ
像を作ってはならない。云々」の偶像崇拝禁止の条項は、
モーゼの十戒の契約の言葉ではない。
 偶像は、キリスト教の神であるヤハウェ信仰には、かな
り密接に付属していた。
 偶像を持った信仰をしていたのである。
 モーゼたちが、その持っていた偶像を非難する訳がない。
 紀元前8世紀になって初めて、偶像礼拝が非難攻撃に登る
ようになった。そして、非難するようになった。
 はるか以前のモーゼが非難し攻撃する訳がない。
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