『これからの人類共通の幸せ』が、生まれるはずがない。

題:『これからの人類共通の幸せ』が、生まれるはずがない。
...(真を求めて、皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の生まれた地、砂漠の地は、
 何一つない地だ。
 万物を焼き尽くす太陽と、
 何ものをも育てる事の出来ない「灰色の大地」だけが
                      ある。
 「 神が天上にあると叫び、
       人びとは大地におののき ひれ伏す 」
 「 神は嫉(そね)む神なり、
    われを憎む者にむかいては、
     父の罪を子にむくいて、3,4代に及ぼす 」。
 景色の手掛かりとなるものは、
             何もない。
 戦闘によって糧を得る事を、
             営みの中に入れている
 戦闘的な絶対唯一神を奉(ほう)じる理由は、
             この自然の環境から来る。
 また、この環境だからでもあるのだ。
 故に、この環境以外の場合には、
     『存在してはならない教え』となっている。
 この地の宗教は、
  神の似姿(にすがた)をつくる事を禁ずることも、
   手がかり一つないこの自然から来る事なのだ。
 木々は緑に、山は美しいという自然とは、
                訳が違うのだ。
 美しい自然に取り囲まれた、
   自然の一つ一つに、
     神の姿を見い出す、日本の自然は、また、
 それが当り前の、当然で 自然の事。
 砂漠の神、妬(ねた)みの神、嫉(そね)みの神は、
   全身全霊をあげて、
     自分につかえる事を人々に要求し、
 その代わり自分も、
   『反対給付』として、恵みを与える事を約束する。
 その上、キリスト教の神を信じたキリスト教の信徒は、
 「神に生殺与奪(せいさつよだつ)の権利を
                 握られている」。
 キリスト教の神は、
   信徒の信を要求し、
     信徒が約束どおり、忠誠をつくした場合に、
       恩恵を与えるという神。
 砂漠の地は、色々な民族が錯綜(さくそう)した。
 それ故、種々の同盟や契約が結ばれた。
 このことが、キリスト教の教義になった。
 新約の宗教となった。
 ただただ、環境条件から来たことなのだ。
 (「民数記略」31章)に、他民族と争って、神は言う。
 「男と寝て男しれる女を、ことごとく殺せ。ただし、今
だ男と寝て男しれる事あらざる女児は、これを汝らのため
に生かしおくべし」。
 (「レヴィ記」20章)に、
 「女もし獣畜に近づき、これと交わらば、その女と獣畜
を殺すべし・・・(この様な、記述が続く。何らためにな
らないので、以下を略す)」。
 倫理的に、こんな聖書を読んで良い訳がない。
 当時の、古代の社会環境なら、役に立ったのかもしれな
いが・・。
 娼婦、娼夫がエルサレムの神殿に巣食っていた。
 また、一生に一度は、一般の市民の女達も、神殿に行っ
て、見ず知らずの男に、身を任かせなければならないと、
神は民へ強要した。
 こんな環境から生まれた宗教。
 古代のそのままが、今・現代に持ち込まれている宗教。
 その古代のことが、そのままに記述されている宗教。
 ここから、未来の人類の幸せが、世界共通の幸せが、生
まれるはずがない。
.
 (参考)せいさつ‐よだつ【生殺与奪】 生かしたり殺した
り、与えたり奪ったりすること。他人をどのようにも思い
のままにすること。「―の権を握る」
 (参考)『民数記』(みんすうき、ヘブライ語: במדבר‎、
英語: Numbers)とは旧約聖書中の一書で、伝統的に四番
目に置かれてきた。モーセ五書のうちの一書。イスラエル
の民の人口調査に関する記述があることから、七十人訳
書では『アリスモイ』(数)と呼ばれ、そこから民数記
いう名称が生まれた。ヘブライ語では冒頭の語から『ベミ
ドバル』と呼ばれるが、これは「荒れ野に」という意味で
ある。物語は出エジプトの出来事から二年二ヶ月後に始ま
り、ヨルダン川にたどりつくのが40年目であるとしている。
 (参考)『レビ記』(ヘブライ語: ויקרא‎、英: Leviticus)
とは旧約聖書中の一書で、伝統的に三番目に置かれてきた。
モーセ五書のうちの一書。ヘブライ語では冒頭の言葉から
「ワイクラー」と呼ばれるが、これは「神は呼ばれた」と
いう意味である。内容は律法の種々の細則が大部分を占め
ている。
.
  (詳しくは、以下のブログへ)
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /
URL: http://32983602.at.webry.info/