キリスト教は、新たな罪つくりの宗教。

 題:キリスト教は、新たな罪つくりの宗教。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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 キリスト教を作ったパウロは、規則(律法)は「いらない」、
無用だと言う。
 しかし、一方でキリスト教は、律法の顔を立てる事も言う。
 完全に律法と縁を切っていない。
 あらゆる所で『矛盾噴出』のキリスト教なので何も驚くこと
ではないのだが・・、
 キリスト教は、律法について、くどくどと、もったいぶって、
難しそうに言う。その1例、「安息日は、人のために定められた
」・・・と。
 何も改めて言われなくても。そうです、何しろ人間が基本な
のです。
 そして、更に、キリスト教は言う「人が、安息日のためにあ
るのではない」。当り前、安息日は、人でも何でも無い。
 そして更に、「人の子は安息日の主である」と。当り前。
人が主だ。同じ言葉を繰り返す、何の示唆も与えない浅い話だ。
 この当り前の話を、キリスト教は、ごちゃごちゃと、「尾ひ
れ、はひれ」を付けて話す。
 規則(律法)を守る人=「義人」、そうでない人=「罪人」
と、キリスト教は発想して、その発想の視点で他人を批判・
非難している。
 そして、その様な事を廃棄する権威を、イエスが持っている
としている。
 自分で勝手に自分の好みの規則を作って、好き放題をしてい
る。
 そうではないでしょー。
 これはキリスト教が、いつもやっている「我田引水」の自分
勝手なの解釈方法・解決方法でしょう。
 規則を守るのは当り前の事です。義人でも何でもありません。
普通の人が守るルールなのです。特別視は無用です。
 また逆に、守らない人を義人に対して、守らない人を「罪人
」と言っていますが、違反の行為が発生した時に、罪が発生し、
裁判で罪が確定するのだ。「無罪」もあり得る。ここが大切。
 キリスト教は「二項対立」の狭い思考範囲に押しとどまって
いる宗教。
 アメリカの大統領も言った「イエスか?、ノーか?」と、
 思考範囲を自分の勝手な範囲に押しとどめて、相手に迫った。
第三の選択肢は無かった。
 そして、その狭い思考範囲の判断でさえ、イエス個人にそれ
らの総べての権力を与えてしまって、おおやけの判断や行為を
侵害するキリスト教的思考。これでは世の中が乱れます。
 キリスト教の考えを進めて行くと、世の中は乱れて来るので
す。過去がこの事例でいっぱいです。
 現代の1事例の、この様なキリスト教の洗脳から、ある大統
領が「イエスの夢を見た」と、だから決断したと、「戦争を始
めた事例」が、現代にもある。まったく、他の人の、皆(みん
な)の意見を聞こうとしなかった。聞く耳持たずの状況だった。
 夢でイエスが戦争を赦した・・と、
 イエスが戦争を許したと話を『転化』した。
 ある意味、自分の頭で考え、その重大な責任を伴って決断す
るという姿勢は・・『皆無』だった。
 自分は無責任の領域に居た。・・逃げた。
 ここにも、キリスト教に洗脳されて、この様な思考になって
しまった大統領がいた。
 イエスは自分に権威がある・・と、自分にだけ決定権がある
ように言うのは間違い。
 この大統領も、このイエスの指示を受け、イエスと対話した
だけで、「戦争の決断」をした。
 この様な、『浅はかな行為を生み出す』危険なキリスト教
洗脳書=聖書。この様な事までしでかしている。
 これは、キリスト教の「キリスト教の他に救い無し」の洗脳
から来ている。
 キリスト教から、排他的な面が生み出され、この様な悲惨な
戦争に至った。
 これは『陰に陽に』主張される『キリスト教唯一絶対主義』
の『傲慢なキリスト教教義』が罪なのだ。
 キリスト教の罪は、何ら解決的示唆も与えてないのに、本当
は、『もやもやのまま』なのに、「一挙に問題が解決したよう
な錯覚を与えて」、そして、「戦争に決断させる」という思考
パターン。
 キリスト教は、マジックのように「罪を許し」たり、「行為
をさせたり」の「無責任・罪赦し・罪作り」の『新たな罪を製
造する宗教』。  
       (詳しくは、以下のブログに)
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