新たな苦悩と痛みが、始まる。
題: 新たな苦悩と痛みが、始まる。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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キリスト教徒は、キリスト教の教義通りに、天国に入って赦
されたで『ホッ』とするのだろうが、しかし、
一人の無垢(むく)の少女に加えられた凌辱(りょうじょく)
の痛みは、たとえ来世において本人自身による赦しが確証され
たとしても、決して抹消され得ない。
その痛みを抹消できるかのように、
キリスト教は「赦し」の教義を語る。
この重い問題を、キリスト教徒は、真に、どう思うのか?
たとえそれが、キリスト教の神によって語られても、
少女には深刻な苦悩が残る。
それを残らないと、少女以外のものが、「その一方的な決定を
押し付けるのか?」。
少女の苦悩がどれほどか、
当事者本人の「赦し」の意志の有無を確かめずに、
キリスト教およびキリスト教徒は、
「(キリスト教の)神の赦しがあったと、
赦すという行為を続ける」。
消えることのない「少女の痛恨の念・苦悩の心」は、
キリスト教の未熟な思い遣りによって、
キリスト教の教義によって
「無視される」。
キリスト教徒は、
本当に思いやったと思って
自己満足に入る。
新たな苦悩と痛みが、「少女に始まる」。
(参考)りょう‐じょく【凌辱/陵辱】 [名](スル) 1 相手
を傷つけるような言動をして、恥をかかせること。「武力によ
る―を受ける」 2 暴力で女性を犯すこと。
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(追伸)
キリスト教の「罪の赦(ゆる)し」の「信仰」が、
非常にしばしば、
問題の『観念的な解消』へと誘うという
「無責任」や「逃避」を許し、
アヘン的な『 麻薬陶酔的な解決の仕方 』の機能を
果たして来た。