空恐ろしくなる、話・・・。

 題:空恐ろしくなる、話・・・。
....(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 イエスは、大工のヨセフの息子だという話は有名です。
 そして、イエスも大工をしていたのだろうとされています。
 お父さんの仕事の後を継いだ長男。親孝行な息子です。
 イエスが、福音書に出て来るのは、書かれている最初は、
洗礼者ヨハネの所に行って、洗礼を受けた時の話からです。
 洗礼者ヨハネは、イエスの従兄弟と言われています。
 イエスは尊敬していたのかもしれません。
 「是非、貴方に洗礼をして戴きたいのです」と言っている。
 後に、洗礼者ヨハネの集団にいた人たちが、洗礼者ヨハネ
刑死の後、イエスに従っています。と言うより、洗礼者ヨハネ
の死後、イエスは、その後も続けて継いで、一緒にやっていた
その運動をしています。
 イエスが、宗教に完全にはまった瞬間だったのでしょう。
 この時、イエスは35歳ぐらいでした。
 イエスは、37歳ぐらいで刑死し、イエスの活動の期間は、1
〜2年とされています。
 洗礼者ヨハネの所に行った年齢は35歳ぐらいだったと考えら
れます。だから、イエスは、大工を35歳くらいまでしていて、
それから、洗礼者ヨハネの死も経緯し、活動に入っていったの
だろう。
 当時のイエスの大工の仕事は、「家具や農具の製作や修理」
だったと考えられています。
 この仕事は、遊行しながらもできるので、大工をしながら遊
行していたのだろうと言われています。(参考)ゆう‐こう【遊
行】 [名](スル) 1 遊び歩くこと。「外国に―して一時歓娯
を極むるに似たれども」〈織田訳・花柳春話〉 2 さまようこと。
 イエスは、宗教家を目指していたのではないことが分かって
います。そして、「托鉢をしていたのではない』。「托鉢をし
ていた」とは伝えられていません。
 時々、大工仕事をして食べていたのだろう。
 イエスは、当然、「教団を作ろうとも考えていなかった」。
 弟子達は、イエスが死んだ後、教団の様な似たものを作った
が・・・。
 イエスが、弟子と称する一連の人たちと行動を共にしたのは、
最後の1〜2年は弟子らしく振る舞ったが、近所の仲間という感
じで、幼い頃からの友だちも居て、大工で近隣を歩いて居る時
に知り合った人も居て、元々は遊び仲間というか、行動を共に
していた人たちで、弟子という訳ではない集まりから弟子と呼
ばれる、また、弟子とされる人たちが生まれて行ったと考えら
れます。
 また、イエスは、最後は、弟子たちに「ラビ(ユダヤ教の聖
職者の呼び名)」と呼ばれている。当時、ユダヤ教の聖職者に
なるのが一番安定した職業であった。
 母・マリアも子供のために、裕福でない家計からラビの学校
へ行かせたのかもしれない。
 イエスの父・ヨセフは、マリアの妊娠について、ずいぶんと
悩んだようだが、そのヨセフは早世した。そのため、マリアの
苦労は人一倍その肩に掛かっただろう。
 イエスの親族は、母・マリア、兄弟は「ヤコブ」「ヨセ」「
ユダ」「シモン」だった。そして、イエスには姉妹も居た。
 弟子達には、漁夫も居た。
 イエスの出生地は、海岸から離れた地・ガラリアで、比較的
肥沃な地で農業が発達していた。
 また、交通の要衝で、異邦人も比較的多く居た環境から、イ
エスの異邦人に対する開かれた考え方は、
 (キリスト教は「異教徒は殺せ」であるが・・)
 ここから、この環境から生まれたのだと考えられる。
 海岸線に居住する弟子が比較的居た、そして、子供の頃から
の遊び仲間と、大工として、近隣のあちこちに行って知り合っ
た仲間たちであった。弟子たちの頭のレベルは、どうも低いと
しか言えない状態であり、
 パウロは、この弟子たちを含め、イエスの一切の「言葉」や
「行動」を無視しているが、
 この様な事は、弟子たちにパウロは、イエスの死後、会って
知っているから、その時の弟子達の人品・人望と、イエスのこ
とを弟子達から聞いて知っていたからかもしれない(また、パ
ウロはイエスたちと対抗する宗教・ユダヤ教の要職していたか
ら情報は多く持っていたのだろう)。
 パウロは、はっきりと、イエスのその様な言葉や行動は、無
視すると文で残している。
 パウロが、この様に、無視するイエスは、頭の回転は比較的
良かったようだ。ただ、怒りっぽい性格で、「怒った」と聖書
のアチコチに書かれている。
 また、弟子達を「叱った」ということも、聖書のアチコチに
書かれている。
 この様な怒りっぽさは、他の宗教の基本に居る人・創設者た
ちには無い。イエスは、人間的に、人間性に、満点は与えられ
ない。満点とは言えない。
 イエスと弟子たちは、よく意見が違い、そして、弟子達は叱
られている。
 聖書に記されている事だが、弟子たちはどうしようもないく
らいの低レベルだなと感じさせるものの1つに、
 イエスが、少しよい地位に就くかもしれないとのうわさ・話
題になった時、弟子たちははしゃぐ、そして、弟子たちの中で、
誰が一番最高の地位に就けるかなどで、言い争っているという
下らない話がある。
 この様な話題に興じている弟子たちを、イエスは叱るのだが、
叱るのも仕方ない面があるとも思える。
 弟子たちとエルサレム神殿の店や神殿前の両替商を壊したり
して、暴れ回ったりしているが、イエスが、すぐ頭に来る性格
はこの様な聖書の記述からも、あちこちで、すぐ分かり、裏付
けられる。
 また、イエスの性格で言える事は、「皮肉っぽくものごとを
考える性質(タチ)で、素直でない」ことである。
 後世のキリスト教の聖職者たちが、頭をひねって、何とか美
しくカバーしないとと努力しているが、素直に考えても、
 そして、どこから見てもおかしいところが多い聖書の記述内
容であり、また、状況である。
 聖職者が必死に正当化に苦労している所である。
 キリスト教は、その様に、四苦八苦して正当化された砂上の
楼閣のような論理・話を教義とした宗教と言える。
 例えば、下記の様な1例がある。
 一番最後に仕事にやって来て、「終礼のベルが鳴る間際に来
て、たいして働かなかった人と、朝から真面目に一生懸命働い
て来た人も、同じ給料を払うのだ。それが正しい」という話が
ある。
 そして、最後に、雇った人は「わたしの金だ。どう払おうが
わたしの勝手だ」と尻をまくって話が終わる・・という、
 おかしいのではないかと、正した人もぎゃふんの話だが、イ
エスも、待ってましたとばかり「その通りだ。平等だ」という。
 この話についても、キリスト教聖職者の方達は、必死に、イ
エスを正当化にしようと努める。
 この様な輩、遅刻よりもっと悪い、「仕事が終わりますのベ
ル」が鳴る間際に会社に来て、今・現代、この様な輩ばかりが
会社に居たら「会社はつぶれます」。
 会社は趣味でやっているのでない。
 社会にこの様な輩が充満したら、社会に居たら、社会は破滅
します。社会の機能が働かない。
 どこから見ても正しくない話をキリスト教は正しいという。
 キリスト教徒の方たが、ならばと言うのなら、貴方も明日
から、その様にしてみたら分かります。聖職者は「日曜以外は
日曜日ですから、聖職者の方たちには分からないでしょうが」、
絶対に、キリスト教の教義だとは言え、貴方はできないでしょ
う。キリスト教とはこの様な宗教なのです。屁理屈で成立して
いる宗教なのです。社会に通用しません。社会に害悪を流して
います。
 キリスト教の教義どおりにしたら、あなたも、社会も、会社
も成り立たないのです。
 この様な話に浸っている毎日を過ごしていると、キリスト教
徒は、洗脳されて来ると、社会からはみ出す結果となります。
 正常に思考できるようになる努力をしてください。