その様な感情があるところには、友情は育たない。

題:その様な感情があるところには、友情は育たない。
......(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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 キリスト教徒は、主イエスの御業に驚きます。
 しかし、ファリサイ派には怒りを表します。
 それは、キリスト教徒が神を真に礼拝することを妨げるから
です。
 ファリサイ派の人々は、その様な罪人なのです。
 ・・・キリスト教は、この言葉の様に、ファリサイ人を咎
(とが)めます。
 ファリサイ派というファリサイ人は、非常に狭い一地域の人
でした。
 ある極端な一点を「非」として攻め、
 そして、自派については
 結局、キリスト教聖職者が、「イエスの給食の奇跡」を例に
言う様に、
 「給餌されつ羊」に例える様に、
 「飼い主によって愛され、養われることを喜びなさい」と説
く。
 動物・羊に例えられたキリスト教徒が、
 神に愛され、
 天から「天の国の養い」を分けて、与えられて、
 喜ぶという宗教が=キリスト教なのである。
 そして、
 天を仰ぎ、
 天を讃美するのが「良き信徒」とされる宗教なのである。
 5000人に給食したとか、
 その様な話ばかりの宗教。
 何ら示唆する言葉が少ない宗教。
 生活保護宗教。
 「慈悲」「寛容」という人間性来の性質と善い心を実現しよ
うと、精進や修業を大切にする仏教と大きく違う。
 キリスト教は、多いに仏教に学ぶべき必要性が存在する。
 自分の信仰だけの、固執した探究(本当は、探求と思ってい
たが、本当は探求にはなっていない)に留まっている。
 それではいけない。
 ましてや、自分の信仰だけを偏頗(へんぱ)に歌い上げてい
るだけだが、それではいけない。
 ましてや、キリスト教は、他宗教に対し「異教徒は殺せ」の
教義の様に、排他の心が強く、
 その様な排他の態度ではなく、他宗教に対して「共感」と
「敬意」をもって、
 開かれた態度が取れる様でなければならない。
 現代では、特に、この要素が必須の要素である。
 キリスト教に強い「裏切り」や「冒涜」の意識(聖書には
その記述が非常に多い)と、
 それに対する非情な「それを処す行為」は、排除すべきで
ある。
 人は「生来、善良である」という仏教に対し、キリスト教
性悪説の視点から、キリスト教は変わるべきなのである。
 そして、性善説の「自分をより良くしてくれる」という視点
になるべきなのである。
 性悪的に「すべて敵だ的な考え方・視点」を変えるべきなの
である。
 「他と分け合う、そして、分けあうことの友情」を、キリス
ト教は学ばねばならない。
 キリスト教の聖書で教える「(キリスト教の)神の義があれ
ば」という『免罪符」を、我が民族へ与えて、
 我が民族が食べる糧を、奪い取りに行くことを『是だ』とし
て教えるキリスト教の聖書は、大間違いなのである。
 全面的にキリスト教に流れる、キリスト教の心底に流れてい
るこの様な性悪の観念の宗教であるキリスト教は、
 「他人と分け合うことの友情」を強く説く宗教に変わらなけ
ればならない。
 聖アエルドは言う、キリスト教にあるものは「相手の持って
いるものを奪い取ろうという欲望」や「他人への憎しみの感情」、
 そういうキリスト教にあるもの「その様な感情があるところ
には、友情は育たない」と言っている。