キリシタン宣教師、戦国の世に暗躍、大いに軍事活動に拍車をかけていく。

題: キリシタン宣教師、戦国の世に暗躍、大いに軍事活動に拍車をかけていく。
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 『大曲記』には次の様に記す。
 「南蛮船よりきりしたん宗とてめつらしき仏法僧わたりけり
・・・かの宗ていに成るほとの者には過分の珎物をとらする間
しさいもしらん物ハ皆よくにちうして成物おおし」・・・と。
 これは、キリシタン宣教師が、「南蛮の珎(珍)物」と引き
換えに、キリスト教徒の獲得に努めていたことを伝える内容。
 つまり、珍しい南蛮の物を餌に使って、釣って、キリスト教
徒にしていたということを表している。
 「南蛮の珎物」とは、中国産の生糸や絹織物類をはじめ、ジ
ャコウ、白檀(びゃくだん)などの香薬類、鉛や硝石それに火
器などの軍需品であった。
 これらの国内非自給物資(国内では手に入らない品々)に、
当時の日本人たちがおおいに興味を抱いたのはやむを得ないこ
とだった。
 特に、戦国の浮き沈みの大きい世の中において、中小の大名
たちは家の浮沈がかかっていた。
 当然、キリシタン宣教師も、南蛮船舶載品に示した日本人の
強い「入手欲」を知り、それを利用し、キリスト教に勧誘した。
 日本の布教にあたって、布教先の政治実権者から『布教許可』
を獲得し、宣教・改宗活動を行っていくため、「南蛮の珎物」
を布教の許可を得るための手段として、懐柔する品として大い
に利用した。
 ザビエルも、日本人が武器を非常に大切にして、尊重し、「
よい武器を持っていることが何よりも自慢」としていることを
知り、「私はこれほどまでに武器を大切にする人たちをいまだ
かつて見たことがない」と書き残している。
 キリシタン宣教師たちは、鉄砲や大砲、硝石や鉛などの軍需
物資をもたらしていた死の商人であった。
 これらの軍需物資は、その入手が極めて困難であったため、
鉄砲などの場合、「長崎古事集1」には・・・
 「其頃日本ニて鉄砲と云うもの不見馴重寶(宝)なる物とお
もひ、しハらくハ其名を重寶(宝)と名付」と言及されている。
 日本では「見馴れない物」であった。
 戦国動乱の激動期にあって、南蛮船の領内誘致を志向してい
た九州地方の大名たちは、「配下の中小領主の勢力のバランス
の上に自己の領国を支配し、周囲の大名相互の政治的確執ない
し抗争に対処せねばならなかった」。
 そして、そのためにも領国の富国強兵化を図らねばならなか
ったし、怠(おこた)ることのできない必須の努力目標であっ
た。
 その方策の一つが、南蛮船のもたらす硝石や大砲による、異
国の軍事力の獲得であった。
 新しい威力のある武器の獲得である。
 キリシタン大名である大村純忠の、南蛮船舶載軍需物資に対
する認識について、「長崎港草」には、
 「大村民部少輔純忠福田ノ地頭福田左京ニ申越シケルハ彼黒
船ハ鉄砲西洋砲ナドモ積乗セ来レバコレヲ他所ニヤルべカラズ
諸ノ軍器多シト云ヘドモコレニ勝ル者アルコトナシ」と言及し
ている。
 「他所へは絶対やるな。ワシのところへ持って来い」である。
 また、「豊薩軍記」巻之一には、田村紹忍が軍需物資の威力
について大友宗麟に対し力説している。
 「鉄砲石火矢を放ち掛は假令何十萬騎の敵なりとも退治は何
ぞ難からん・・・鉄砲石火矢は差て力らの勝劣にも依らす誰か
放かけたりとも如何なる鉄城石郭なりともなとか破らて有へき
と辦に任せて云ちらす」。
 キリスト教宣教師(イエズス会)は、軍事活動に拍車をかけ
ていく。
 キリシタン宣教師の行為は、本国の海外版図拡大事業の一環
として編入されていたことは紛れもない事実であった。
 そして、キリシタン宣教師たちは、本国の王から支援の金を
受け取っていた。
 日本への布教が、本国の国家事業(海外版図拡大事業)に包
含されていた。
 また、キリシタン宣教師の報告に、時の施政者が待遇良く遇
してくれたと記している書簡があるが、この書簡は、脚色され
ている。
 本国への報告の体裁を付けるべく美化した記述となっている。
 そして、よくあるキリスト教プロパガンダ(嘘宣伝)とな
っている。
 真の、実態を表した報告書簡がある。
 それは以下の様な記述となっている。
 「我々は皆、(コレジオを)建設することよりも、どこに逃
げることができ、また我々が当地に擁しているこのわずかな(
キリスト教徒)をどこで救うことができるのか、ということの
方を考えることに忙殺されている」。
 そして、
 「日本で起こっている絶え間ない戦争と変動が原因で、我が
イエズス会員の生命と資産は、いつ滅亡に瀕するかもしれない
という大きな危険にさらされている」・・・と、訴えている。
 また、
 キリシタン宣教師たちは、キリシタン大名から南蛮船が入る
と関税を欲しがられたり(軍資金をせびられたり)、
 種々のいきさつから居留地の生活の地をいつ奪われるかを恐
れていた。
 その為、一定地にずーと居ることができない生活状況であっ
た。(処々を転々と移動した。南蛮貿易で得た利益を隠す理由
もあった)。
 しかし、肝心の保護すべきキリシタン大名(大村氏や有馬氏
など)は、有事の際に、キリシタン宣教師たちを保護・救済す
るどころか、逆に、キリスト教会からの保護と救済を受けねば
ならない様な状況だった。
 (キリシタン宣教師たちは、軍資金や食糧・武器の援助など
を与えたが、その費用は、彼らの年間経費の20〜25%にも相当
する費用が充てられていた。
 キリシタン大名有馬晴信は、竜造寺隆信と交戦中であった
時、特別援助金を要請し、特別援助として、彼らの年間経費の
10%に当たる額を特別出費してもらっている。
 キリシタン宣教師らの収入は、南蛮貿易の他、国王からの給
付金、ローマ教皇からの年金、インドの土地などの不動産など
から得ていた。
 しかし、収支は赤字であった。
 この様な事態において、彼らに、安全な場所を得る大きな必
要性が存在した。
 最も安全な場所・避難所として長崎が選ばれた。
 長崎の地は、自然の地の利も良かった。
 そして、彼等は、長崎を軍事要塞化して行く。
 キリスト教宣教師たちは、暴力による強制総改宗を行なって
いた。
 しかし、逆に、彼らに、宣教活動に不当な暴力を加えられた
場合、実力行使によって、戦争によってその不当を防御する行
為も行っていた。
 非常に戦闘的であった。
 そうして、そうする権利があるとして、武装集団化もしてい
た。
 教会内に武器も備えていた。
 そして、それは、大村氏や有馬氏が、援助を与えている割に
保護能力・保護行為が低かったからだった。
 そのため、彼等は、キリシタン大名の保護を見限って、自衛
の方向へ行った。
 この様なことからも、長崎の軍事要塞化への必要性が生まれ
た。
 塁壁や木柵を設け、長崎港の岬の一部を切り開き防御的に整
えたりした。
 そして、弾薬、武器、大砲を供給した。
 そして、妻帯した南蛮人を多く住まわせた。
 そして、兵士を配置し、全員に兵器を持たせた(武装兵士化)。
 長崎住民も兵士化し、塹壕を掘り、稜堡を作った。
 一重・二重の柵でも囲った。
 砦も築いた。
 船も持った。
 長崎住民の3万名に銃を持たせることができたという。
 (しかし、この3万名は眉唾との研究者の報告がある)。
 スペイン兵の日本派兵も要請した。
 また、この備えた武器を、戦時の時に、キリシタン大名に供
与したりしている。
 大砲などを供与して戦勝させた例もある(有馬氏と肥後領主
との戦い)。
 秀吉がキリシタン宣教師の追放令を出した後に、キリシタン
宣教師たちは、本国に「日本に国王の要塞」を持つ必要がある
と説いている。
 そして、国王は国王配下の200〜300名の兵士によってそれ
を掌中にすることができると言っている。
 キリシタン宣教師たちは、本国の兵と積極的に関わり、日本
に要塞を作ろうとした。
 スペイン・ポルトガルに対日軍事進出を強く勧告している。
 秀吉のキリシタン宣教師の追放令は、公的にしたこの態度は、
キリシタンとのこの絶縁の意思は、ことの問題性を大きくして
行った。
 秀吉の意思に従うということではなく、逆に、キリシタン
教師たちの本国と日本との武力衝突の可能性を高めていった。
 キリシタン宣教師たちも、より大きな軍資金などの諸費用を
必要としていった。
 本国と強く関わらざるを得ない、拡大方向へ、事は動いて行
った。
 そして、キリシタン宣教師たちは協議し、フィリピンのスペ
イン総督へ兵の派遣を要請することになった。
 国家間戦争の容認と要請行為である。
 キリシタン宣教師たちは、「スペイン・ポルトガルの国家の
方針である『絶対主義的植民政策の尖兵』の性格」を如実に
していた。
 殺戮のし放題だった南米・中米・北米メキシコ、及びその離
島の蛮行もこれだった。
 本国の力を頼りに日本の長・秀吉に盾突(たてつ)いて行っ
た。
 本国の軍事力を利用する悪漢の心根・心底が見せられた状況
となった。日本征服という顔を見せていた。