その後の秀吉・・(バテレン追放令、以後は?)

題 : その後の秀吉・・(バテレン追放令、以後は?)
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 1549年に、フランシスコ・ザビエルが、キリスト教を伝えて、
38年が経過した後の1587年に、
 豊臣秀吉は、バテレン追放令を出した。
 そしてまた、その25年後の1612年に、家康が、キリスト教
教令を出した。
 そして更に、その12年後からの寛永年間(1624〜1644年)
の20年間のキリスト教の弾圧の厳しい時を経て、
 キリスト教は、「隠れキリシタン」以外は、明治の1867年ま
で壊滅した。
 その壊滅期間は223年に及んだ。
 この道に至るきっかけの所に、秀吉の『バテレン追放令』が
ある。
 当時、キリスト教は、まったくの増上慢で、
好き勝手なことをしていた。
 その時、日本は戦国時代を経て、秀吉という日本の統一直前の
最強の人・強い統一者が、偶然、居たから幸運だった。
 日本の大村純忠大友宗麟有馬晴信らのキリシタン大名
完全にキリスト教宣教師に牛耳られていた。
 これ等の弱小のキリシタン大名は、国の存続のためにキリシ
タン宣教師が供給する武器・弾薬が貴重で、
頭が上がらない状態だった。
 秀吉が居なければ、日本も南米・中米、そして北米メキシコと
それらの離島のように、
 その何百万人の殺戮の様に、
 同じ運命となっていた可能性は高い(同じ、キリスト教イエ
ズス会が日本に来て牛耳っていた)。
 また、南米などの駆逐が済んで、その悪漢の艦隊は、
 ルソン(フィリピン)とメキシコの両攻略中のニ国を行き来
する太平洋に居た。
 日本の最高位の立場の人が、キリスト教拒絶の態度を示した
のは、秀吉の「バテレン追放令」が最初であったが、
 そして、その秀吉に、
 キリスト教宣教師たちは、南米などでもしたのであろうが、
日本においても、キリスト教宣教師たちは武力で駆逐しようと
行動した。
 それが、「バテレン追放令」の反動となって表れた。
 バテレン追放令の1587年の3年後の1590年には、秀吉は、
南蛮貿易の必要と利益から前言を翻(ひるがえ)した。
 長崎のキリスト教会の再建を許し、
 10名のキリスト教聖職者の滞在を許し、
 バテレン追放令の「法の主旨」を有名無実化した。
 秀吉は、フィリピンのキリスト教徒の総督に
 「秀吉(日本)に服属するようにと要求した」。
 が、
 その返事を持った使節が2年後の1593年に来日した。
 その使節キリスト教宣教師に「キリスト教の布教再開」を
要求された。
 そして、京都に、キリスト教の布教のための修道院と聖堂が
建設され、布教が再開された。
 再開されるやキリスト教の各宗派が来日し、布教活動を始め
た。
 すると、その各宗派の間に、トラブルが発生するようになっ
た。
 例えば、イエズス会南蛮貿易で豊かで、贅沢な暮しをして
いたが、清貧を旨とする托鉢修道会を「貧乏人」と呼び軽蔑し
差別した。
 また、「フランシスコ会は、日本から退去せよ」と命じたり
した。
 しかし、フランシスコ会は「教皇と国王の命令があるのなら
まだしも・・・云々」との態度で紛争・トラブルとなった。
 その様な折りの1596年に、
 高知に難破船が漂着した。
 船名をサン・フェリーぺ号と言った。
 そして、事件が起きた(サン・フェリーぺ号事件)。
 この事件を起因として「二十六聖人殉教事件」が起きた。
 そして、秀吉の態度が、180度転換して行く。
 秀吉政権は、
 難破船船員の取り調べを行い、
 世界情勢として知っていたので、そして、気になっていたの
で問いただした。
 「キリスト教徒などの南米などでの蛮行や国を奪う行為」は
どうなのか?・・・と。
 その結果の答えは、
 「我々は、世界中との取引を行なっている。相手が好意的な
らば味方と判断する。しかし、我々に歯向かえば、国・領土が
奪われるということになる」・・・だった。
 そして、その先鞭として「キリスト教宣教師が来日している
のだ」と答えた。
 この事件は、それまでの、キリスト教徒とそれに同行している
キリスト教聖職者たちの行為・世界の国々を奪っていく行為を
明白に示していた。
 当然、秀吉の方針は180度転換した。
 キリスト教宣教師は捕えられた。
 そして、キリスト教が言う「二十六聖人殉教」へとなった。
 この殉教の結果を、別な言い方をするとすれば、
 「南米などで、キリスト教が、キリスト教の教義の通り『異
教徒を殺せ』と、何百万人もの人々を殺戮し、聖職者も加わっ
て行ったこの悪行為・国をも奪う行為に下された・・『正義』
だと言える。
 なお、卑劣な事に、
 キリスト教は「誘導尋問からこの様な事を言わされたのだ」と
言い、プロパガンダ(嘘宣伝)している。
 しかし、世界史の史実を見れば明らかなこと。
 そして、キリスト教聖職者が、あまりに卑劣なこの行為を、
長い年月(としつき)にして来たとこの事を、悔い、本国の王
へ懺悔し、吐露している動かぬ事実の記述もある。
 その事実をも曲げようとのキリスト教の卑劣さは、恥の上塗り
的でさえある。
 弱い者いじめで、卑劣な殺戮のこの行為は、もっと糾弾される
べきである。
 秀吉は、事実を知って、配下の者たちに、キリスト教宣教師
たちの行動を調査させ、
 また、徹底的に「キリスト教が何を企(くわだ)てているかを
調べさせている」。
 その結果からの秀吉の判断であって、
 一時的な判断ではない。
 秀吉は、心の底からキリスト教の本性を知り、
 「キリスト教の禁教を宣言した」。
 刑の執行は、1597年に、長崎で行われた。
 処刑場所などは、キリスト教宣教師たちの希望を受け入れて
あげた。
 秀吉が、この事件に至る前、キリスト教の各会派の宣教師たち
は、互いに争って秀吉に取り入ろうとしていた。
 そして、「より上級の品級に叙(じょ)して貰おう」としたり
した。
 そして卑劣にも、各会派は「その取り入ろうとする行為の足の
引っ張り合い」を演じた。
 その様な、取り入りを演じるキリスト教の劇の中で事件は起
きた。
 この事件により、1597年、秀吉は、
 「キリスト教宣教師の再追放令」を発令した。
 自業自得。もともとの極悪が露呈しただけ。
 その極悪の罪の「刑の執行」であった。