追記 泰緬鉄道

 題:泰緬鉄道のできごと 追記

(追記:wikipedia
 この鉄道の建設は、20世紀初頭の英領ビルマ時代にイギ
リスが検討していたが、地形が複雑で建設を断念した。
 戦時中、旧日本軍は海上輸送の危険を避けるべく1942年、
ビルマ戦線の物資輸送のためのルートを確保するため、建
設を開始した。
(イギリスが検討した複数の案の内の1つを踏襲している。)
 建設は、迅速さを要求されたためビルマ側・タイ側両
方から開始した。
 ビルマ・タイには、すでに、多少の鉄道が建設されてお
りタイ側はノーンプラードックから、ビルマ側からはタン
ビュザヤより建設を開始した。
 建設の作業員には日本軍1万2000人、連合国の捕虜6万
2000人(1万2619人死亡)、募集で集まったタイ人数万(未
知数)・ミャンマー人18万人(4万死亡)・マレーシア人
華人印僑含む)8万人(4万2000死亡)、インドネシア
人(華僑含む)4万5000人の労働者が使われた。
 建設現場は劣悪で特に工事の後半は雨季にも拘らずさら
なる迅速さが要求され、食料不足からくる栄養失調とコレ
ラやマラリアにかかって死者数が莫大な数(日本側とタイ
ミャンマー側の調査で食い違いが出るが、約半数と言わ
れる)に上り、戦後に問題となった。
 特に、巨大な一枚岩を掘り下げるなどした「ヘルファイ
アー・パス(英語版)」と呼ばれる箇所や、断崖絶壁に沿
わせるように木橋を建設した「アルヒル桟道橋」など未開
発の地帯では、工作機械不足と突貫工事による人海戦術
ため死者が多かったという。
 これらの労働者の多くの犠牲のもと、当初5年は掛かると
言われた建設が翌年10月には完成した。

私見)以上の様に、日本側のイギリス人捕虜に対する扱
いは、イギリス人捕虜をターゲットにして死者を出した訳
ではなく、日本人労働者や現地人にも死者は出ている訳で、
過酷な状況からその様な結果になってしまった。
 その点から、その後のイギリスの日本人捕虜に対する死
に至る扱いは非難されるべきで、また、糾弾されるべき行
為となっている。