法を島とし、法を拠り所として 五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 6」

 題 : 法を島とし、法を拠り所として 
             五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 6」

五木さん: この周辺に住まいしていた時期、ちょうど雨季に入り
     ました。
      そして、雨季というのはもう、往来が困難だし、疫病
     がはやったり、大変な時期なんで、雨安居(うあんご)
     と言って、その時期、旅を休んで瞑想にふけり、思索に
     ふけります。
      ちょうど、その時ですね、仏陀は、思いがけなくも、
     本当に大きな病にかかる訳ですね。
      最後の旅のほんとに途中なんですけれども、その時の
     模様を こんな風に「大パリニッバーナ経」・「仏陀
     最後の旅」 には書かれています。

        さて尊師が、
        雨季の定住に入られたとき
        恐ろしい病が生じ
        死ぬほどの激痛が起こった。
        しかし尊師は、
        心に念じて
        よく気をつけて
        悩まされることなく
        苦痛を堪え忍んだ。
        そのとき尊師は、
        次のように思った
        「私が侍者たちに
        別れを告げないで
        修行僧達に別れを告げないで
        ニルヴァーナに入ることは
        私には相応(ふさわ)しくない
        さぁ私は元気を出して
        この病苦を堪(こら)えて
        寿命のもとを留めて
        住することにしよう」と

     (参考)ニルヴァーナ: サンスクリット語仏教用語
         で、涅槃 (nirvaaNa) のこと。

五木さん: つまり大変な激痛が生じてですね。
      本当にもう、耐え難いほどの痛みと苦しみの中で、仏
     陀は、それに耐え忍び、そして、今は死ねないと感じる
     んですね。
      それがまだ自分には残した仕事があると感じていたの
     か、あるいは、自分に与えられた事を最後までやり遂げ
     るために、この旅を続けようという意思なのか、あるい
     は、天と言いますか、目に見えない大きなものの命ずる
     ままに、自分の人生というものを、もう一度、生きてい
     こうという風に考えるのか、その辺は良く分かりません
     けれども、老いと病というものは、まあ、普通に言われ
     るように、生易しいものではありません、人間が最後の
     旅に出る時に、必ず、この老いと病を道連れにして、生
     きていく訳です。
      その最後の旅の中で、仏陀もまた、この病気と苦痛と、
     そして、老いというものを感じつつ、この辺に留まって
     居られたということを思いますと、人間・仏陀、人間で
     はないけれども、人間的なそのような苦しみを、人一倍、
     深く背負った仏陀という存在、そこに、私達人間も、と
     っても同じ様な、親しみと共感、そして、尊敬の念を覚
     えるところがあります。
     ・・・・。
五木さん: 車の中で、ちょっと七転八倒したんですよね。
      朝4時に起きて、ほとんど徹夜のまま撮影をやって、
     それからあの悪路をバスで走っているでしょう。
      でも、昔はね、シベリヤ横断したってなんとも無かっ
     たくらいだったのに、僅かこの位の事で、こんなに苦し
     まなければならないのかという、ほんとに、パトナへの
     道は、地獄への道でしたね。
      ですから あの時、ホントにねー、もう薬を飲んでも
     効かない、水を飲んでもどうにもならない、今にも吐き
     そうでという、その時に、やっぱり、今の体力の衰えと
     いうものをね、今度の、やっぱり、インドの旅では、つ
     くづく感じさせられましたね。
      ですから、実感がとってもありますよ。
      まして、僕はまだ70代の前半ですけどね、齢(いわ
     い)80に達したら、この旅を車なんて文明の利器を使
     わずにしている 仏陀の大変さというのは、おそらく想
     像を絶するものが、あったに違いありません。
ナレーション: 仏陀・最後の旅には、常に苦楽を共にする弟子が
     付き添っておりました。その名は、アーナンダ。
      弟子の中でも、人一倍、心優しく、純粋な人間だった
     と伝えられています。
      病から回復した仏陀の姿を見て、アーナンダは歓喜し、
     こう言います。
      「尊師が病気の間、呆然自失して、方角も教えすらも、
     分からなくなっていました。でも、もう安心です」。
      そんなアーナンダに、仏陀はこう答えました。

        アーナンダよ
        私はもう老い朽ち
        齢(よわい)を重ね老衰し
        人生の旅路を通り過ぎ
        老齢に達した
        我が齢(よわい)は八十となった
        例えば、古ぼけた車が
        革紐(かわひも)の助けによって
        やっと動いていくように
        おそらく私の身体も
        革紐の助けによって
        もっているのだ。

ナレーション: さらに、仏陀は、自分が死んだ後の心構えについ
     て、修行僧達に説きました。

        この世で、
        自らを島とし、
        自らを頼りとして
        他人を頼りとせず
        法を島とし、
        法を拠り所として、
        他のものを拠り所とせずにやれ。
     
        アーナンダよ、
        今でも、また、私の死後にでも、誰にでも、
        自らを島とし、
        自らを頼りとし、
        他人を頼りとせず、
        法を島とし、
        法を拠り所とし、
        他のものを拠り所としないでいる
                     人々が居るならば、
        彼らは、我・修行僧として
                 最高の境地にあるであろう。

五木さん: あのー、非常に文脈としてですね、捉えにくい言葉な
     んですけど、言っていることは一つだと思うんですね。
      自分の尊敬する人が居ることは結構である。
      だけど、大事なことは、そういうことであることより
     も、権威とか、あるいは他人に対する親愛の情とか、そ
     ういう事よりも、もっと大事な、仏教の法というものが
     ある。
      ダルマといいますね。
      そういう仏教の真実や真理、そういうものこそ頼りと
     して、他人の権威・社会の常識、そういうものに囚われ
     ることなく、自分が学んだ仏教の心を心として、そして、
     自分が亡くなった後も、雄雄しく立派に生きて行って欲
     しい、それが大事だぞと、こういう事を最後に言ってい
     る訳です。 
      仏陀の言っていることというのは、私は、決して、自
     分に頼れという風に、自我を強調しているのではないと
     思いますね。
      それよりもっと大きな宇宙の真理というものがある。
      そういうものを自覚して、そして、自分が感じた直感
     というものを拠り所にし、そして、それを、島と言うの
     は例えですけれども、河の中洲という風に訳する人も居
     ますね。
      水が増えてきても没することなく、世の中の激流に呑
     まれる事も無く、大きな永遠不朽の真理というものをし
     っかりと身に付けて、その真理を頼りにして、自分自身
     の道を歩くが良いと、仏陀は、こういう風にここで語っ
     ているんだろうと思います。

        この世で
        自らを島とし
        自らをたよりとして
        他人をたよりとせず
        法を島とし
        法をよりどころとして
        他のものを
        よりどころとせずにあれ。
                       (つづく)
(参考) 安居:(あんご)は、それまで個々に活動していた僧侶た
     ちが、一定期間、一カ所に集まって集団で修行すること。
     及び、その期間の事を指す。
      安居とは元々、梵語の雨期を日本語に訳したものであ
     る。
      本来の目的は雨期には草木が生え繁り、昆虫、蛇など
     の数多くの小動物が活動するため、遊行(外での修行)
     をやめて一カ所に定住することにより、小動物に対する
     無用な殺生を防ぐ事である。
      後に雨期のある夏に行う事から、夏安居(げあんご)、
     雨安居(うあんご)とも呼ばれるようになった。
      釈尊在世中より始められたとされ、その後、仏教の伝
     来と共に中国や日本に伝わり、夏だけでなく冬も行うよ
     うになり(冬安居)、安居の回数が僧侶の仏教界での経
     験を指すようになり、重要視された。
      現在でも禅宗では、修行僧が安居を行い、安居に入る
     結制から、安居が明ける解夏(げげ)までの間は寺域か
     ら一歩も外を出ずに修行に明け暮れる。
                     (Wikipediaより)