武力によらないで、広まった宗教 (その2)

 題 : 武力によらないで、広まった宗教(その2)

☆近代の開始とともに、
  宗教の権威は衰えまして、
  国が力を持っている。
  国家形成において、巧みであった民族が、
  世界史のリーダーになった訳です。

  国が、絶対的なものと思われましたけれども、
  今日になりますと、
  国々を超えた 一つの地球共同体というものを、
  皆が考えなきゃいけない所まで 来てると思うんです。
  何が起きても、
  地球の上で どこで何が起きても、
  すぐそれが地球の上の
  あらゆる国々、
  さらに
  その国々の 住民の生活に 
  すぐ影響が 及んで来る訳ですね。

  以前には、
  支配者が 非常に乱暴な 野蛮な行動をしても、
  また、
  文明の回復という事が 可能だったもんです。
  つまり、
  その力の 及ばない範囲が ありましたから、
  それから 優れた文明の伝統を 取り入れまして 
  生かせばよかった。

  ところが、
  だんだん 世界が一つに なって来て、
  何か起きますと、今度はいっぺん破壊してしまったら 
  もう取り返しがつかない。
  この危険はあるわけです。

  世界が一つになる場合に、
  異質的なものに対する 「 理解と寛容 」 という事。
  これが 絶対必要だ と思います。
        (1985年、昭和60年の発言、72歳)

 (霊鷲山りょうじゅせん・ラジギールで
  中村が礼拝する映像。
 「原始仏典の現代語訳をした中村は、
  2500年の時空を超えた。
  仏の声に耳を澄ますことでもあった」のナレーション。
       1986年、昭和61年73歳とのテロップ

☆仏教の教え というものは、
 この上に輝く 日月(じつげつ)の様な ものである。
 太陽や月が、
 あらゆる人を 照らすように、
 仏教の教える真理 というものは、
 あらゆる人に 明らかなものであり、
 あらゆる人を 照らすという 訳です。

 続けて、
 釈尊はこう言われました。
 もしも、
 自分が 人々を導くのであるとか、
 あるいは、
 この修行者の仲間が 私を頼っているとか思うならば、
 私が死ぬという事は大変なことであろう。

 しかし、
 私は 自分がみんなを導くなんて 思ったこともない。
 また、
 みんなが 自分を頼りにしているなどとも 思わなかった。
 (釈迦涅槃像クシナガラの映像)
 自分は、ただ、人々の依るべき真理、
 真の生き方というものを明らかにした、
 それだけなのだ。

 だから、
 なにも 自分が消えて亡くなったからといって 嘆き悲しむな。
 およそ この世の物で、
 いつまでも破れないで、存続し続けるものは なにもない。

 いつかは 破れ 消え失せる ものである。
 その道理を 私は、お前たちに今まで説いて来たではないか。
 ただ、
 私は そこにある 「 一貫した真理 」というもの、
 それを 解き明かして来た。

 だから
 「 それに頼れ 」、 この変転、常ない世の中では、
 まず 
 「 自分に頼るべき 」 である。

 自分に頼るとは 
 どういう事であるか、
 自分は この場合にどうすべきか という事を、
 その場合、その場合に考える事 でしょう。
 その場合、
 何を 判断決定の基準に するのか。
 それは
 『 人間としての道 』
 『 法(のり) 』
 インドの言葉で言うと 『 ダルマ 』 と呼ばれるものです。
 これを 『 法 』 と訳しますが、
 この 人間の理法 というもの、
 これに頼ること。

 『 自己に頼れ、法に頼れ 』 。

 これが、
 釈尊の 最後の教え でありました。