(増補版)650E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年6月~1896年6月)

題:(増補版)650E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年6月~1896年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
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1896年6月4日、ヘンリー・フォードが初の四輪自動車の試
 作に成功し、この日に試運転をした。
  紀元前4000年、人類が「ころ」から車輪を発明した。
  1250年、哲学者のR.ベーコンが、「いつの日か、馬な
   どに引かせている車が、自身の力で走る車が可能と
   なろう」と言った。
  15世紀~16世紀、レオナルド・ダ・ビンチの新発明の
   意想図の中に、木をしなわせて力を蓄え、それを歯
   車で取り出し、車輪を回して走る自走車がある。
  1569年、オランダのシモン・ステビンが、2本のマス
   トの帆を動力源とした自走車を作った・・28人を乗
   せて海岸の砂上を時速24キロメートルで走った。
  1648年、ドイツのハンス・ハウチュが、ぜんまいで自
   走する1人乗りの車を作り、時速1.5キロメートルで
   走った。
  1680年、イギリスのニュートンが、ボイラーで作った
   高圧蒸気を、後方の細い管から噴射し、この推力で
   走る車の模型実験に成功した。
   また、この年、オランダのホイヘンスが、火薬を用
   いた内燃機関を提唱した。
  18世紀、蒸気機関を動力源とした自動車が試みられた。
   これが、最初の自動車の製作と言われている。
  1796年、フランスのN.J.キュニョー(ベルギー人?)
   が砲車牽引用の三輪の「蒸気を動力とする自動車」
   を作り、4人を乗せて時速9.5キロメートルで走った・・
   因みに、キュニョーはルイ15世の砲兵大尉だった。
   そして、この三輪車は長さ7.2メートル、幅2.3メー
   トルという巨大な車だった・・しかし、操縦不能
   城壁に激突してしまった。
   以後、蒸気自動車は、アメリカ・イギリスなどで研
   究がなされて行き、実績を上げる。
  1801年、イギリスのトレビシックが、実用的な蒸気自
   動車を完成させた・・時速14キロメートルで走る・・
   運転手の不注意で爆発した。
  1803年、トレビシックが、改良型の蒸気自動車を作る・・
   直径3.2メートルの駆動輪兼用の後輪を持つ四輪車だ
   った。
   交通遮断したロンドン市中を走り、「馬車より速い」
   と言われ、成功した。
   また、この頃、マカダムが発明したタールを用いた
   簡易舗装の道路網が、イギリス全国に建設された。
  19世紀初、蒸気自動車が実用化され、バスやトラック
   などとして使われた。
  1831年、イギリスで、スチーム・コーチ(蒸気馬車、
   20人乗り六輪車)が定期旅客輸送が行われ始めた。
   4か月で3000人を運んだという記録がある(成功)
   同様に、この年、ハンコックが、ロンドン市中と近
   郊を結ぶ路線の定期運行を始めた。
  1840年代、スチーム・コーチの平均時速が25キロメー
   トルに性能向上している。
   ハンコックのオートマトンは32キロメートルを出し
   た。
  1850年代、スチーム・コーチが急速に姿を消す・・効
   率の良い鉄道が発達したため・・
   また、道路を傷めるという理由で、スチーム・コー
   チの道路通行料が12倍も高く設定された。
   また、ロード・ロコモティブは危険ということで、
   車の前を昼間は赤旗、夜間は赤ランプを持って走れ
   という規制や、町中では時速3.2キロメートル以下で
   走れなどの規制が厳しくなった。
   しかし、イギリスでは、蒸気自動車の改良がなされ
   て、使われ続ける(1930年代まで蒸気自動車は作ら
   れた)・・それに対する・・ガソリン自動車のアメ
   リカでの発達を待たねばならない状況だった・・
  19世紀半ば、電気自動車が発明された・・一時、普及
   した・・しかし、ネックは蓄電池の容量の問題だっ
   た。
   しかし、アメリカでは1920年代まで生産された。
  1858年、イタリアのバルサンティとマッテウッチが、
   石炭ガスを燃料とする内燃機関を製作した。
  1860年、フランスのルノアールが、点火装置を持った
   ガスエンジンを作った。
  1862年、フランスのボー・ド・ロシャが、4サイクル・
   エンジンの原理を発見した。
  1863年、フランスのルノアールが、ガソリンで回るエ
   ンジンを木製の四輪車に積み、走った。
  1864年オーストリアマルクスが、ガソリンエンジ
   ンの開発を進め、この年、それによって走る車を試
   作した・・1875年にも試作し、これは、時速8キロメ
   ートルで走ることが、後日、確認された。
  1865年、イタリアのベルナルディが、ガソリンエンジ
   ンを作った。
  1876年、ドイツのN.A.オットーが、実用的な4サイ
   クル・ガスエンジンを製品化し、それをダイムラー
   が改良して高速のガソリンエンジンを作った・・
   1885年には、このエンジンを付けた二輪ガソリン自
   動車を製作した・・
   また、この年、C.F.ベンツも2サイクルエンジン
   付きの三輪自動車を作った・・これらが、現代の自
   動車の原型となった。
   これらの技術が、、広大な土地のアメリカで発展し
   て行く。
  1884年、フランスのドラマール・ドブットビルが、ガ
   ソリン自動車の試作に成功した(この100年後、フラ
   ンスは盛大にこの発明を祝う)
  1886年ダイムラーが、四輪馬車にハンドルを付け、
   また、460㏄のエンジンを付けて四輪自動車を作る。
   また、この年、ベンツが、独力でガソリンエンジン
   を製作し、実用的な三輪自動車を完成させ、後に、
   製造販売を企業化させた。
  1893年アメリカでデュリエ兄弟が、四輪馬車を改造
   したアメリカ初のガソリン自動車を試作し・・後に、
   商業生産に入った・・多くのメーカーがこれに続い
   た。
  1894年、初のモータースポーツ・イベントが、フラン
   スの新聞社の主催で開かれた・・
   パリ~ルーアン間126キロメートで行われた・・1着
   は蒸気自動車で、6時間、平均時速21キロメートル
   (運転手と汽缶士による走行だった)・・
   因みに2位と3位はガソリン車だった・・ガソリン車
   の優位性が脚光を浴びた。
  1896年6月4日、ヘンリー・フォードが、初の四輪自動
   車の試作に成功し、この日に試運転をした。
  1899年、日本初の自動車であるアメリカ製の電気自動
   車が入った。
  1900年、フォードの大量生産方式によって大衆化した
   自動車・・日本への輸入はこの年・・
  1904年、日本で初の自動車製作が行われた(蒸気自動
   車)
  1907年、日本で初のガソリン自動車が製作された(東
   京自動車製作所)・・産業化には至らず。
  1908年、H.フォードが、T型車で単一車種の大量生産
   を始めた・・自動車普及の上で画期的なことだった。
   この年の10月1日に発表された「T型フォード」は、
   ハンドルが左にあり、エンジンとトランスミッショ
   ンの全体がボンネットで覆われ・・エンジンは4気筒、
   サスペンションは2つの半楕円形バネを使い・・運転
   が単純で、修理も容易、そして、安価だった。
  1910年頃、アメリカで、急速に自動車が普及し、個人
   単位の人と物流の速度が飛躍的に高まり、移動距離
   が大幅に伸びた。
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1896年6月6日、フランス留学から帰国した黒田清輝(せい
 き)らが、洋画・彫刻の美術団体の白馬会を結成した。
  白馬会は、この年、明治美術会を脱会した黒田清輝
 久米桂一郎、山本芳翠らによって設立され、和田英作
 藤島武二、岡田三郎助、小代(しようだい)為重、小林
 万吾、長原孝太郎、彫刻の菊地鋳太郎、佐野昭(あきら)、
 版画の合田清らも参加した・・また、評論家の吉岡芳陵、
 岩村透(とおる)らも参加した。
  会名は、会の同志たちがしばしば白馬(しろうま)(ど
 ぶろく)を飲みつつ談論したことに由来した。
  明治美術会の脱会は、芸術家の自由を標榜し、感覚の
 解放を求めた(フランスの明るい画風の)外光派の人た
 ちにとって、明治美術会の古い体質は耐えがたかった。
  旧派ないし脂派 (やには) と呼ばれた明治美術会の暗
 い作風を不満とし、官僚的組織に対して自由主義を主張
 した。
  外光派的な明るい画風で新派また紫派と呼ばれ、しだ
 いに明治洋風美術の主流となった。
  フランス印象派の手法を伝え、研究所を設けて、和田
 英作・藤島武二などの後進の養成もした。
  1896年10月、岡倉天心の率いる日本絵画協会と合同で
 第1回展を開催し・・1910年の解散まで13回を数えた。
  1910年まで展覧会を続け、洋画の発展に多くの功績を
 残したが、1911年に解散し、中堅作家が光風会を組織し
 た。
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1896年6月9日、日本とロシア間で、山縣=ロバノフ協定を
 締結した。
  山県有朋、ロシア外相ロバノフと朝鮮に関する議定書
 に調印する。
  李氏朝鮮の宮廷内の親日派と親露派の権力闘争による
 不安定な政治情勢は、日本とロシアの双方に対しても危
 険な状況にさらしていた。
  協定は、サンクトペテルブルク(モスクワ?)におい
 て、山縣有朋全権大使と、ロシア帝国外務大臣A.B.
 ロバノフの間で交わされた。
  公開4条項と秘密2条項からなり、両国政府は必要な場
 合、合意をもって朝鮮に経済援助を与えること、朝鮮の
 独立を保証すること、朝鮮の財政改革を促進すること、
 近代的警察及び軍隊を組織すること、電信線を維持する
 こと、両国が合意をもって軍隊を派遣するときは用兵地
 域を確定すること、両国の駐屯兵因数などが協定された。
  背景は、ロシアの干渉などで、李氏朝鮮の不安定な政
 治情勢が、日露間に種々の軋轢となって存在していた。
  そこで、日露間で協定を結び、互いに朝鮮の独立を確
 認し合い・・
  そして、朝鮮の立場を保証することを約した。
   また、朝鮮財政の悪い状態の改革を促進することを約
  し・・その他・警察・軍事・電信線維持などを約した。
  ロシアのロバノフは、この協定とほぼ同時に、中国・
 清の李鴻章、朝鮮の朴泳煥と、それぞれ密約を結んでい
 た→露清同盟密約。
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1896年6月12日 ロシア、月尾島西南地段(44,316m2 年銀貨
 361元)租借契約を取得。
  朝鮮の高宗がロシア公使館に軟禁され、ここで政務を
 取り行なった結果、ロシアは種々の利権を獲得した。
  また、欧米列強も同じような朝鮮利権を獲得するに至
 った。
  この様な状況は正規な状況ではなく、自主性は放棄さ
 せられていた。
  この様な状況は、この後の、日露戦争の結果、朝鮮は
 中立が宣言で来る。
  また、1895年11月28日には、ロシア、アメリカ、親露
 派の朝鮮の大臣・李範晋が、総理大臣の金弘集の暗殺を
 を企てた(春生門事件)
  この様に揺れ動く朝鮮内の事で日露は議定書の締結を、
 二度、続けた。
  しかし、この日、ロシアは、月尾島と361元の銀貨の租
 借契約を取得した。
  (参考)月尾島:ウォルミド、仁川広域市中区に属し
     ている島・・しかし、現在は、島と陸地の間が
     埋め立てられている。
      島の形状が半月の尾ひれの様な形から名付け
     られた。
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1896年6月15日、明治三陸地震で大津波が起き、死者2万名
 を越えた・・
  午後7時32分30秒、震源は釜石町の東方200キロメート
 ルの三陸沖。
  三陸地方に大津波が押し寄せ、死者27,000人、家屋の
 流失・破壊1万戸に達した。
  村落の移転などの対策は進まなかった。
  地震規模はマグニチュード8.2~8.5で巨大地震・・
  観測史上最高の遡上高で、海抜38.2mを記録する津波
 発生・・
  (参考)津波の遡上高:陸を駆け上って到達した高さ。
  各地の震度は2~3程度であり、緩やかな長く続く震動
 であった・・
  誰も気にかけない程度の地震であった・・
  最大は秋田県仙北郡の震度4・・
  地震動による直接的な被害はほとんどなかったが、大
 津波が発生し、甚大な被害が発生した・・
  海溝型地震と推定され・・三陸地震の一つと考えら
 れている・・
  固有地震であるが、震源域は特定されていない・・
  (別史料)
  三陸地方に弱い地震・・およそ40分後に大津波が襲来・・
  9879軒が流出、倒壊1844軒、船6930艘に被害、死者
 26,360人、負傷者4,398人・・
  村落集団移転を行った集落は、1933年の津波で被害は
 軽微だったが、移転しなかった集落は、再度、甚大な被
 害を受けた。
  (注意)この地震は、震度分布に基づいて長らくマグ
     ニチュード7.6とされてきた・・
      しかし、津波の大きさを考慮して数値が改め
     られている「理科年表 平成18年」
  大津波の第一波は、地震発生から約30分後の午後8時7
 分に記録され・・
  遡上高は、気仙郡吉浜村(旧:気仙郡三陸町吉浜、現:
 大船渡市三陸町吉浜)で22.4m・・
  同郡綾里村(旧:気仙郡三陸町綾里、現・大船渡市三
 陸町綾里)で21.9m・・
  綾里湾の奥では、入り組んだ谷状の部分を遡上して、
 日本の本州で観測された津波では、当時、最も高い遡上
 高である海抜38.2mを記録した。
  この時、ハワイへも2.4m~9.14m、カリフォルニアに
 2.90mの津波が到達している。
  ハワイでは、波止場が破壊され、住宅の複数棟が流失
 した(カリフォルニアの被害記録はなし)
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1896年6月16日、軌制取調委員が、軌間、および、軌条重量
 の調査を終了した。
  1896年に、逓信省に軌制取調委員会が発足し、改軌に
 要する費用と、その利点・欠点などの調査を行った。
  この時まで・・1892年に、鉄道建設ブームが巻き起こ
 り、私設鉄道の規模が官営鉄道をまたたく間に上回る・・
 第2次鉄道建設ブーム・・
  日本各地には規模の小さな鉄道会社が設立された・・
  不安定な経営・・
  鉄道国営化による鉄道整備・輸送力増強促進、運賃の
 低廉化が求められる・・
  この様な中で起きた「改軌論争」・・1910年まで繰り
 広げられた大論争だった・・
  日本は、鉄道導入にあたって「狭軌」を選択した・・
  これは、イギリス(御雇い外国人?)が推薦したとい
 う説と、山岳河川の多い日本で、狭軌の方が有利という
 説・・鉄道整備を早く進められるから判断した説・・
  この「狭軌」を「標準軌」に改良し、輸送力を増強し
 ようとする動きが起きた・・この「改軌論」が日本の鉄
 道界で一大論争となった・・
  結論として・・
  1910年の鉄道会議で東海道本線山陽本線などの主要
 14路線を1911年度からの13ヵ年で標準軌(当時はこれを
 「広軌」と呼んだ)に改築する案が可決された。
  これにより、東京の市街線や東海道山陽本線で新た
 に建造される建造物は、標準軌規格で設計する通達も出
 された。
  この頃建設されていた磐越西線では、実際に平瀬トン
 ネルが一部標準軌の規格で建設されている。
  これに対し、原敬率いる立憲政友会が横槍を入れた。
  政友会の基本方針は、低規格でもいいから全国に路線
 を張り巡らせようとする「建主改従」となっており、後
 藤の提案した「改主建従」と真っ向から対立していた。
  帝国議会で両者がぶつかり合った結果、「改軌」に対
 する予算は出さないことになった。
  1911年4月、より低予算での改軌と、改軌線区の拡大を
 目指すため「広軌鉄道改築準備委員会」が政府内に発足
 し、審議が行われた・・しかし・・
  1911年8月、原敬が、内閣鉄道院総裁(内務大臣兼務)
 に就任したため、広軌計画は中止となった。
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  (今日の言葉)
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  題:中国、ウイグル抑圧拡大・・
    中国の弾圧強化を憂慮する。
    香港デモ、イギリスが中国批判
    ロシア(旧ソ連)よ!
    千島列島と北方四島を日本に返還しなさい。
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紀元前10~紀元前8世紀、ギリシャ都市国家(ポリス)が
 形成され始めた。
  ギリシャのこの小規模都市国家のポリスは、大小200ほ
 どが存在した・・
  強大な帝国という形ではなかった。
  このポリスの中心部には、アクロポリスという外敵を
 見張ることのできる丘があった。
  その周辺部に人々は集住した。
  ギリシャのこのポリス時代の前は「王国」だった。
  「シキュオン」や「アルゴス」などの王国があった。
  そこでは、スパルタを除いて、王は居らず、貴族政が
 行われた。
  (参考)ポリス:古代ギリシア都市国家・・
      村落集住 (シュノイキスモス) によって、君
     主政に対立する国家形態として生じ・・
      その起源は紀元前10~紀元前8世紀にまでさか
     のぼる。
      自然風土や社会的・宗教的要因によって数多
     くのポリスが分立した。
      その規模は、ほとんどはごく小さく、植民市
      (アポイキア ) として成立したものも多い。
      ポリスは、中心市と農耕周域部から成り、大
     多数は城壁を備え、市内には原ポリスである城
     塞(アクロ・ポリス) 、市場 (アゴラ) が存在し、
     周域部には、市民の所有地、共有地があったが、
     その領域は通常狭い範囲に限られていた。
      ポリスは、自由と自治を理想とし、市民は氏
     族および宗教共同体の一員であるばかりでなく、
     国家共同体の一員としてもっぱら政務、軍務に
     たずさわった。
      完成されたポリスにおいては、そうした市民
     団の枠は在留外人 (メトイコス ) や奴隷などと
     身分的に厳格に区別された。
      このような体制を基盤として市民全体の政治
     参与を実現した民会 (エクレシア ) の存在は古
     典古代の特色的なこと。
      ポリスにはさまざまの型があった。
      最も典型的なのはアテネで、その民主政組織
     はほかのポリスに大きな影響を与えた。
      ポリスは、相互の絶えざる分立抗争と内部の
     党派争いなどによって紀元前4世紀には凋落しは
     じめた。
      続くヘレニズム時代の知的文化的基盤はポリ
     スの伝統に根ざしている。
      また、ポリスにおいては文明の発達とともに、
     さまざまな政治現象が生じ、多くの思想家たち
     は、これに刺激されて政治理論を生み出し、ポ
     リスは政治学の母胎だった。
  (参考)シキュオン:ペロポネソス半島の北部、コリ
     ントの北西に位置する古代ギリシアの都市。
      アルゴスの植民市 (アポイキア) として政治
     的、宗教的に従属していたが、紀元前660年頃、
     オルタゴラスによって僭主政が樹立され、その
     孫のクレイステネスのときに国力は最大となり、
     彼は、第1次神聖戦争でロクリスを破壊した。
      僭主政は、約100年続いたがスパルタによって
     倒され、以後スパルタの同盟市となり、紀元前
     3世紀にはアカイア同盟に参加。
      その後、衰退し、紀元前2世紀には廃虚となっ
     た。
      シキュオンは、アルカイック時代から美術の
     中心地として知られ、紀元前4世紀には、彫刻家
     リュシッポスを生んだ。
  (参考)アルゴスギリシアペロポネソス半島北東
     部のアルゴリス地方の中心都市。
      中期青銅器時代から人が住み、ミケーネ期に
     隆盛をみた。
      紀元前1100~紀元前1000年、ドーリス人が、
     ここを基地に半島へ侵入したと推定されている。
      紀元前8世紀頃からスパルタと抗争・・
      紀元前669年、これを破って半島の度量衡を統
     一したが、スパルタの力が伸びるにつれて、ア
     テネ、コリント、テーベと次々に結んで対抗し
     た。
      テーベが衰えると、マケドニアのフィリッポ
     ス2世の支援を求め、紀元前229年には、アカイ
     ア連盟に加盟した。
      紀元前146年のローマのコリント破壊で相対的
     に重要性を増し、アカイア連盟の中核となった。
      3世紀後半頃、一時ゴート人に占拠されたが、
     ビザンチン時代には繁栄。
      1204年、フランク人のアカイア王国建設でア
     ルゴスは衰退した。
      14~15世紀にトルコ人に侵入され、住民はア
     ルバニア人と入れ替わった。
      19世紀のギリシア独立戦争で最初の自由議会
     がアルゴスに招集された。
  (参考)貴族政:代表的なポリスであるアテネでは、
     ドーリア人の攻撃をはねのけながらポリスを形
     成させる過程で、紀元前8世紀ごろまでに貴族が
     政権を独占するようになった。
      紀元前683年には、貴族の中から選ばれた9人
     のアルコン(執政官)(任期1年)が政務を担
     当する・・貴族共和政の形態となった。
      アルコンの任期を終えた貴族が終身議員とな
     るアレオパゴス会議(元老院)が国政や裁判に
     あたった。
  貴族政は、アテネの場合、僭主政を経て、紀元前5世紀
 初め、民主政に移行し・・
  その民主政が堕落して、アテネソクラテスが処刑さ
 れるような衆愚政の時代となる。
  その後、ギリシャは、マケドニア王のアレクサンドロ
 スの支配下に入る。
  (参考)僭主:せんしゅ、古代ギリシアのポリスで、
     非合法に独裁政を樹立した支配者。
      本来、この語には「暴君」の意は含まれず、
     悪い意味が付加されるようになったのは民主政
     期、特に、紀元前4世紀のプラトン以降・・
      王政と違い、その支配が正統ではないため、
     僭主の地位維持には困難もあり、多くは1代か2
     代で終っている。
      紀元前7世紀~紀元前6世紀の前期僭主と、紀
     元前4世紀~紀元3世紀の後期僭主とに分けられ、
      前者には、コリントのキュプセロス、ペリア
     ンドロス、アテネペイシストラトス、シキュ
     オンのクレイステネスらがおり、多くは貴族の
     出身で、貴族政の動揺期に貴族と平民の対立を
     利用して独裁政を打立て、民主政への過渡期の
     ポリスにおいて、巧みな政策によって民衆の指
     導者の役割を果し、ポリスの発展に貢献した場
     合も多かった。
      後期僭主には、テッサリアのフェライのイア
     ソン、シラクサのアガトクレス、ヒエロン2世ら
     がおり、前期僭主以上に軍事力を背景に独裁権
     を握り、民主政の形式は守ったが、それも市民
     共同体のためであるよりも、自己の支配権保持
     のためであった。
  (参考)僭主政:せんしゅせい、古代ギリシアのポリ
     スにおける僭主支配の政治体制。
      僭主政は、紀元前7世紀半ば頃~紀元前1世紀
     にまでわたるが、僭主の現れなかった紀元前460
     年~紀元前406年を境にして、前期僭主政と後期
     僭主政とに分ける。
      前者は、貴族政の動揺期、まだ独力で貴族を
     倒すだけの力が平民にない段階において、野心
     家の貴族が、重要な官職や祖国防衛戦での功績
     などを利用して平民の人気を集め、彼らの協力
     と、外国の権力者の援助などを得てクーデター
     を起こし、貴族政を打倒して樹立した独裁政で、
     コリントのキプセロスとその子のペリアンドロ
     ス、シキオンのクレイステネスアテネのペイ
     シストラトス、サモスのポリクラテスなどが代
     表的な僭主であった。
      僭主は、市民から武器を取り上げ、自身は親
     衛隊や傭兵部隊を擁し、貴族に対しては処刑、
     追放、財産没収などで弾圧した。
      市民一般に対しても、陰謀を企てる機会を与
     えないために、中心市に出て怠惰に時を過ごす
     ことを禁じたり、財源確保のために租税を取り
     立てたりしたが、平民の支持を保つために小農
     民の保護や商工業の奨励に努め、また主要な官
     職は一族で抑えつつも、従来の官職組織や制度
     習慣はできるだけ維持した。
      さらに、詩人や芸術家を保護して独裁政の飾
     りとし、建築事業や土木工事を起こして、中心
     市を美化し、市民の生活に便宜を供し、有力な
     外国勢力や宗教の中心と友好関係を結んで支持
     者を拡大した。
      最悪の政治体制という古代の多くの政治思想
     家の批判にもかかわらず、かならずしも過酷な
     支配ではなかったが、暴君政に堕したものもあ
     り、また、平民の成長につれて独裁政への反発
     が強まったため、多くは2代で打倒され、もっと
     も長く続いた場合も100年であった。
      その崩壊には、平民より貴族のほうが貢献し、
     外国の武力干渉によった場合もあったので、崩
     壊後ただちに民主政になることは少なかったが、
     前期僭主政は、独裁政の維持を追求しながら平
     民の成長を助け、結局、民主政の成立を促進し
     た。
      後期僭主政は、前期僭主政との共通点も少な
     くなかったが、ポリスと民主政の衰退期に現れ
     たという事情から、平民よりも傭兵に頼る軍事
     独裁者の性格が強く、平民の利益を図る姿勢も
     弱かった。
      シラクサのディオニシオス1世、2世やアガト
     クレス、テッサリアのフェライのイアソンなど
     が主要な僭主であった。
     ・
     ・
1391年、スペインで、ユダヤ人の方々に対する大虐殺が起
 きた。
  スペイン南部、アンダルシア州のセビリヤでユダヤ
 の方々へ対する大虐殺(ポグロム)が起きる。
  これは、その後、各都市に飛び火して行って、悲惨な
 連鎖反応でユダヤの方々は虐殺され、また、キリスト教
 への改宗を強いられた。
  キリスト教による異端審問は、この当時、ヨーロッパ
 の国々で行われ、ローマ教皇庁によって任命された異端
 審問官が巡回して異端審問が行われて、大規模にこの様
 な惨事が起きていた。
  レコンキスタが1492年に完了すると、スペインに統一
 王権が確立した・・そして、同時に権力も手に入れた。
  そこで、この様な惨事が、ローマ教皇庁と一緒になっ
 て発生して行く。
  ユダヤの方々は、人権を奪われ、金融業をやらざるを
 得なかったが(職業の選択の自由を奪われていた)、こ
 のユダヤの方々への多額の債務(借金)を無くそうとい
 う悪計・魂胆もあった。
  また、スペインの王権所持者は、ローマ教皇との親交
 を深める事も考えていた。
  キリスト教の異端審問は、すべてローマ教皇(法王)
 の管轄下で行われていた。
  ローマ教皇側もこの異端審問の権力をスペイン王へは
 渡そうとしなかった。
  (スペイン王は渡してくれと言ったが拒否された・・
 卑劣な権力の取り合いが演じられた)
  異端審問はセビリアから始められていた。
  (参考)ローマ教皇のインノケント三世は、第4回ラ
     テラノ公会議を招集し(1215年)、ユダヤ人を
     キリスト教社会から区別することを決めた。
      そして、排除するため、ユダヤ人であること
     を示す黄色の標識を付けさせると決めた。
      ペストで多くの人々が死ぬと、病原菌で病気
     が起きるという知識のないキリスト教徒たちは、
     ユダヤ人が井戸に毒を投げ入れたと、ユダヤ
     の方々を弾圧した。
      キリスト教聖職者も、教会の説教壇の上から
     「ユダヤ人はすべてのスペインを奴隷化する」
     と洗脳し、煽った。
      煽られた暴徒はユダヤ人の方々を襲った。
.
1492年、総べてのユダヤ人の「スペインからの追放」・・
  この頃、どこのヨーロッパでも、ユダヤ人を虐(しい
 た)げていた。
  ユダヤ人たちは、特別な服を着せられ、また、特定の
 道や地区(ゲットー)に住まわされた。
  14世紀から、ユダヤ人の方たちは、ローマ・カトリッ
 ク教会から憎悪されていて、敵意に晒(さら)された。
  1878年反ユダヤ主義運動。
  1881年~1914年には、ロシアの組織的大虐殺が起きる。
  これを逃れて200万人のユダヤ人が、アメリカへ渡った。
     ・
     ・
1945年8月18日、占守島(しゅむしゅとう)の戦い
  戦争が終わっているこの時、ソ連(現ロシア)が日本
 領・千島列島の最北端の占守島に奇襲攻撃をして来た。
  完全にポツダム宣言受託によって停戦となっている後
 の「不法なソ連(現ロシア)の攻撃だった」。
  日本軍はポツダム宣言受託に伴って、武装解除中であ
 った・・
  その様な時に攻めて来たのだった。
  日本軍の守備隊と戦闘となり、日本軍は優勢に戦い、
 勝っていた。
  しかし、ポツダム宣言受諾の停戦という軍命によって、
 日本軍は、8月21日に、戦闘行為を止め・・
  日本とソ連は合意の上で「8月21日、ソ連艦の艦上で降
 伏文書を調印している・・
  『日本とソ連は公式に停戦している』のだ・・
  1045年8月23日には、また、日本とソ連は、合意の上で
 武器を置き、武装解除がなされた。
  故に、当然に、この後の日本の領土の千島列島と北方
 四島を略奪行為はやってはいけないのに、その許せない
 行為をソ連は行った。
  この様な不法なソ連(現ロシア)の攻撃と領土掠奪で
 あった・・
  そして、さらに、日本兵と一般人は拉致され、ロシア
 (旧ソ連)へ連れて行かれた。
  因みに、占守島には、日魯漁業の缶詰工場があって、
 多数の日本人の工員(女子工員を含む)が居た・・民間
 人総数2000人。
  そして、この拉致行為のシベリア抑留で、日本の民間
 人も含めて多くの方々が亡くなった・・これから、この
 補償も求めなければならない。
  また、この様な不法行為についての謝罪を求めなけれ
 ばならない・・
  そして、今後このような事が起きないよう、教科書に
 記載し、正しい事実を伝えることを要求しなければなら
 ない。
  そして、さらに卑劣な事は、この様な合意の上での日
 本軍の武器が置かれて、武装解除なされた後に、完全な
 る停戦の後に、ソ連(現ロシア)は、日本領の千島列島
 と北方四島を不法に占拠し続けている。
  そして、恥の上塗り的に、それを「戦いで取ったのだ」
 と嘯(うそぶ)いている。
  (参考)嘯く:ほらを吹く、平然として言う、大きな
     ことを言う・・
  占守島は、日本が負けたのではない。
  日本は勝っていたが、終戦となって、君たち(ソ連
 と合意して、日本は武器を置いたのだ。
  日本との合意の武器を置く式も行なったではないか・・
  ソ連(現ロシア)は、勝って終わったのではない・・
  武器を置いた後の日本領・千島列島と北方四島を君た
 ちは盗ったのだ。
  合意して武器を置いた後に盗ったのだ。
  千島列島を、早く日本へ返還しなさい。
  また、日本の固有の領土の北方領土は論外だ。
  この事を、君たちの子供たちへ教科書に書いて教えな
 さい。
  君たちは、日露戦争もそうだが、占守島(しゅむしゅ
 とう)の戦いでも負けたのだ。
  占守島の戦いの史料・・
  日本:堤不夾貴中将 、戦力:8480名、損害:死者256
    名、負傷者762名、
  ソ連:アレクセイ・グネチコ少将、戦力:8824名、死
    者:516名、行方不明(負傷)など1051名
  (参考)1945年8月15日に、トルーマンアメリカ大統
     領は、ソ連スターリン首相へ通知していて、
     その通知の中には、日本の降伏の受け入れ分担
     が通知されていて、千島列島をソ連の分担地域
     とはしていなかった・・そして、ソ連は、停戦
     がなされたことを知っていたのだ・・
      ソ連樺太の南(北緯50度線以南)のみとさ
     れた・・
      ソ連は、分担域について異議を申し立てる。
      停戦状態になったことについて、異議申し立
     てはしていない・・この点からも停戦は成立し
     ている。
.
1945年8月~9月、ソ連が、日本領の千島列島と北方四島
 不法占拠したが・・北海道新聞が以下を報じた。
  ソ連が、日本の領土の北方四島を占領するとき、アメ
 リカが援助していた。
  極秘に艦船貸与したり、訓練もしたりしていた。
  北海道新聞が探り当てた(2017年12月30日付報道)
  「プロジェクト・フラ」作戦、北海道の根室振興局
 調査
  【根室】1945年8、9月に行われた旧ソ連軍による北方
 四島占領作戦に、米国が艦船10隻を貸与していたことを、
 根室振興局が米国とロシアの専門家による研究成果など
 を突き合わせ、明らかにした。
  米国はソ連の対日参戦に備え、大量の艦船の提供だけ
 でなく、ソ連兵の訓練も行っており、米国の強力な軍事
 援助が四島占領の背景にあったことが浮かび上がった。
  振興局の調査結果によると、樺太南部の返還と千島列
 島の引き渡しと引き換えに、ソ連の対日参戦が決まった
 1945年2月のヤルタ会談の直後、ともに連合国だった米ソ
 は「プロジェクト・フラ」と呼ばれる合同の極秘作戦を
 スタートさせた。
  米国は1945年5~9月に掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、
 護衛艦28隻など計145隻の艦船をソ連に無償貸与。4~8月
 にはソ連兵約1万2千人を米アラスカ州コールドベイの基
 地に集め、艦船やレーダーの習熟訓練を行った。
  コールドベイには常時1500人の米軍スタッフが詰め、
 ソ連兵の指導に当たったという。
  訓練を受けたソ連兵と貸与艦船は樺太南部や千島列島
 の作戦に投入された。
  8月28日からの択捉、国後、色丹、歯舞の四島占領作戦
 には、米の貸与艦船10隻を含む17隻が参加。ソ連軍は各
 島で日本兵武装解除を行い、四島の占領は9月5日まで
 に完了した。
  こうした歴史的史実が判明したのは、根室振興局が2015
 年度から取り組む北方領土遺産発掘・継承事業がきっかけ。
  各国の資料を集める中で、ソ連樺太南部と千島列島
 での作戦に投入した全艦船を調べ上げたイーゴリ・サマ
 リン氏(現ロシア・サハリン州戦勝記念館科学部長)の
 論文「1945年8月のサハリンとクリール諸島上陸作戦に参
 加した軍艦と補助船舶の注釈付きリスト」(2011年3月)
 を入手した。
.
2019年6月5日、中国の弾圧強化を憂慮する。
  天安門事件30年・・
  この日の読売新聞の社説が報じた・・以下、その抜粋・・
  人権や言論の自由を巡る状況は、著しく後退した。
  強権的な監視国家へと変貌しつつある中国の現状を深
 く憂慮する。
  中国の共産党政権が、民主化を求めた学生らを鎮圧し、
 多数の死傷者を出した天安門事件から、4日で30年となっ
 た。
  共産党民主化運動を「反革命暴乱」と断じ、武力に
 よる弾圧を正当化した。
  党はその後、一党支配体制の強化による安定と経済成
 長を最優先し、民主化に背を向けてきた。
  事件に関する情報は隠滅され、事件自体を知らない若
 者も少なくない。
  真相が解明されぬまま、風化が進んでいるのは遺憾で
 ある。
  看過できないのは、習近平政権が反体制派や少数民族
 への締め付けを加速していることだ。
  人権派弁護士や活動家が大量に拘束され、不当な長期
 拘留が続く。
  事件の再評価を昨年求めた大学教授は停職処分となっ
 た。
  中国西武・新疆ウイグル自治区では、イスラム教を信
 仰する少数民族ウイグル族らが「治安維持」などの名
 目で、収容施設に拘束されている。
  米国務省は、3月の報告書で、200万人以上が収容され
 ている可能性を指摘した。
  中国では、ネット空間が政府の情報管理に利用され、
 強権統治を支えている。
  党や政府に批判的な言動が、人工知能(AI)や監視
 カメラで即時に把握され、封じ込められる。
  「国家の安全」を理由に正当化できる措置ではない。
  習氏は「一つのモデルですべての国の問題を解決する
 ことはできない」と述べ、米欧が求める民主化を受け入
 れない意思を示す。
  中国が豊かになれば政治改革に踏み出す、という日本
 や欧米の見通しは甘かったと言わざるを得ない。
  ポンペオ米国務長官は「中国が国際システムに融合さ
 れ、開かれた寛容な社会に変わるという期待は打ち砕か
 れた」と述べた。
  人権や自由などの基本的価値観すら共有できない中国
 が、「平和発展」を唱えても国際的な信頼は得られまい。
  通商や安全保障、ハイテク技術をめぐる米中対立の根
 源には、異質な大国への不信があることを習政権は認識
 すべきだ。
  共産党は、国民の生活水準を向上させ、一党支配への
 不満を抑え込んできた。
  だが、これまでのような高度成長は望めない。
  貧富の格差が広がり、環境汚染などの社会問題も深刻
 化している。
  習政権は、強権的な手法をどこまで拡大し続けるのか。
  国際社会は問題点を粘り強く指摘し、改革を促さねば
 ならない。
.
2019年6月18日、国連のテロ担当がウイグルを視察・・
  「迫害の正当化」の懸念が・・
  この日の読売新聞が伝えた・・以下、抜粋・・
  [北京=中川孝之]国連のテロ対策担当のトップが、中
 国当局によるイスラム教徒への迫害が指摘される新疆ウ
 イグル自治区を視察したことが波紋を呼んでいる。
  中国はテロ対策と称し、少数民族ウイグル族などを
 収容施設に隔離しており、米政府は、この措置を追認す
 る事につながりかねないと懸念している。
  視察したのは、ロシアの外交官出身のポロンコフ国連
 事務次長で、2017年に創設された国連テロ対策局の初代
 局長に任命された人物だ。
  中国外務省によると、中国側の招待で13日~15日に北
 京と新疆ウイグル自治区を訪問した。
  楽王成(ルォーユーチョン)外務次官はポロンコフ氏
 との会談で、「国境をまたいだテロ作戦の脅威」につい
 て意見交換し、「広範な共通認識」に達したという。
  米国務省のサリバン副長官は14日、国連のグテレス事
 務総長との電話会談で「中国は、ウイグル族などへの抑
 圧をテロ対策として正当化し続けている」と指摘し、ポ
 ロンコフ氏の訪中に強い懸念を伝えた。
.
2019年6月29日、中国人権問題、解決訴え・・ウイグル人
  この日の読売新聞が伝えた・・以下、抜粋・・
  中国政府の抑圧的な政策に抗議する少数民族の団体な
 どでつくる組織が28日、主要20カ国・地域(G20)首脳
 会議に合わせ、大阪市内で記者会見し、人権問題の解決
 を訴えた。
  中国・新疆ウイグル自治区出身の亡命ウイグル自治区
 出身の亡命ウイグル人らで作る「自由インド太平洋連盟
 (事務局・日本)のラビア・カーディル会長(72)は「
 ウイグルの様に弾圧、虐殺があった場所は他にどこにも
 ない。
  300万人が強制収容所に入っていると言われている」と
 指摘した。
  その上で、G20首脳会議で議題となることに期待感を
 示した。
  記者会見には、中国からの香港独立を主張する活動家
 の陳浩天氏(28)も出席し、中国本土への犯罪容疑者の
 移送を可能にする逃亡犯条例の改正案について、「香港
 の名声と利益を損ない、中国にしかメリットをもたらさ
 ない」と批判した。
.
2019年7月5日、香港デモ、イギリスが中国批判
  良好関係が一転、非難合戦に
  標記の表題で、この日の読売新聞は伝える・・抜粋
  香港から中国への犯罪容疑者引き渡しが可能にする逃
 亡犯条例改正案の撤回を求める香港の抗議運動を巡り、
 香港の旧宗主国である英国が繰り返し懸念を表明し、中
 国側との非難合戦に発展している。
  経済的な結びつきを優先し良好な英中の関係に、影を
 落としかねない状況。
  英国のハント外相は2日、英BBCで、1984年調印の英
 中共同宣言について触れ、「香港の人々に対する基本的
 な自由を規定した者だ。
  我々は香港の人々を支持している。
  国際的な法的合意が守られなければ深刻な結末を招く」
 と中国側をけん制した。
  また、保守党の党首を争うジョンソン前外相も「香港
 住民を完全に支持する」と中国との対決姿勢を示してい
 る。
  メイ首相も3日、「香港の高度な自治と自由は尊重され
 るべきだ」と述べた。(中略)
  こうした英国要人の発言に対し、中国外務省の副報道
 局長は3日の定例記者会見で、「今だに往年の植民地主義
 者の幻影にひたり、他国の問題に上からの目線で口出し
 する悪習に執着して入るようだ」と猛反発した。
  ロンドンでも、中国・駐英国大使が3日に記者会見し
 「英国政府は暴力的な法律違反者の味方をしている。
  半年が自由について語るのは大間違いだ。
  植民地下の香港には自由も民主主義も全く無かった」
 と批判した。
  英外務省は3日、駐英国の中国大使を呼び出し、「不正
 確で容認できない」と抗議した。
.
2019年7月5日、中国、ウイグル抑圧拡大
  この日の日付で読売新聞が報じた・・抜粋・・
  中国新疆ウイグル自治区で、少数民族ウイグル族と漢
 族が衝突した大規模抗議行動から5日で10年となる。
  中国当局は大規模抗議行動後、ウイグル族の管理を強
 化し、テロ対策を名目に施設に収容するなど強権的な姿
 勢を強めている。
  その対象は、同じくイスラム教を信じる近隣諸国から
 の来訪者にまで広がっている。
  (写真説明)バザールを警戒ずる武装した警官。
      バザール内には至り所に中華風の飾りつけが
      施されていた。
  ウルムチ市内のバザールには4日、銃を持って巡回する
 武装警察の姿があった。
  モスクの入り口には顔認証用ゲートが新設され、入場
 者を制限している様子がうかがえた。
  ウイグル族女性は「ちょっとしたことでも(当局に)
 疑われるような気がして怖い」と小声で不満を漏らした。
.
2019年、今、中国でウイグルの人たちが中国政府によって
 拘束されている。
  その数は、300万人という膨大な人数・・
  そして、中国政府は、「テロ対策だ」と言っている。
  日本人も、昔、戦争後、中国共産党政権によって拘束
 された。
  その全員が、日本へ帰って来たわけではない。
  帰れない人たちが大勢いた。
  多くの人たちが、そのままの状態になった。
  多くの日本人の人々が亡くなった。
  帰って来た人たちが語ったことは、まったく怖ろしい
 「中国共産党政権による洗脳教育だった」。
  帰りたいから、必死に中国共産党政権の言いなりにな
 った。
  身体に自ら染み込ませた。
  生きるか死ぬかの環境の中で、自由になりたいと願い、
 自らの体に言い聞かせ、発狂する者も居た。
  食糧も豊かではない中、中国共産党政権も、中国工作
 員にまで洗脳できそうではない者から排除し、処理する
 ことも行なわれた。
  性格まですっかり変わり、中国の思い通りになった者
 から解放された。
  ・・というより、中国の宣伝分子となって日本へ返さ
 れた(というより、日本へ、中国工作員と変わった者た
 ちから送り込まれた)。
  今、中国共産党政権によって拘束されている300万人の
 ウイグルの方々にも、昔、日本が経験したことと同じこ
 とが、行なわれている。
  結局、中国共産党政権にとって都合のよい者が、中国
 共産党政権の良否判断によって、人が人によって査定さ
 れて、処理されている。
  廃棄処分もそこにはある。
  そこには、ウイグルの方々の人権は「まったく二の次」
 とされている・・無視されている。
  世界は、それを、傍観している・・のか・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  ロシア(旧ソ連)よ!
  千島列島と北方四島を日本に返還しなさい。
  終戦後の1945年8月18日に、占守島に奇襲攻撃して来た
 行為を反省しなさい。
  占守島の戦いで日本は戦いに勝っていたのに、終戦
 であったので、ソ連(現ロシア)と合意の上で日本は武
 器を置いた・・日露間の戦争はここに終わった。
  しかし、日露の合意の終戦の後、日本兵の居ない日本
 領の千島列島と北方四島ソ連(現ロシア)は不法に占
 拠し始めた。
  千島列島の最北端の占守島の戦いで、日本が武器を置
 く式を日露合意で行ったことを遵守せよ!
  だから、君たちには、日本の領土を勝手に盗る行為を
 行なう正義の論理は無い。