(増補版)597E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年5月〜1894年6月)

題:(増補版)597E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年5月〜1894年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年5月、片倉兼太郎が、諏訪に三全社を設立した。
  片倉兼太郎(かたくらかねたろう、1850年1月12日〜
 1917年2月13日、67歳)実業家、製糸資本家。
  現在の片倉財閥の基礎を築く。
  1850年、片倉兼太郎は、信濃国諏訪郡三沢村(長野県岡
   谷市)の豪農の家に生まれる。
  1873年(23歳)実弟・光治と共に10人取りの座繰製糸
   を始め・・さらに・・
  1878年(28歳)32釜の器械製糸場を自村の天竜川河畔
   に設置した。
   後に、光治のほかの弟や従弟らも経営に参加し、得
   られた利益を共有資産として、一族一致団結して器
   械製糸経営を拡大させていった。
  1894年(44歳)10月6日、長野県諏訪郡川岸村に川岸製
   糸所(三百六十釜)を新設し、三全社と称した。
  1895年(45歳)片倉組を結成し、片倉組本部を三全社
   に置き、ここに松本製糸場及び三全社は片倉組所属
   として垣外製糸場(百六十釜)のみを開明社に属せし
   めた。
   兼太郎自らは、組長となり、一族の経営を統率した。
   明治後期以降、県外にも多くの製糸工場を設置して
   行き、
  1903年(53歳)以降、一族は北海道、朝鮮などで農場・
   山林経営に乗り出すとともに、両大戦間期には保険
   業、化繊工業などへの経営多角化を進めて地方財閥
   のひとつに数えられるに至った。
  1910年(60歳)60歳を超えても、「まだ尋常小学校
   卒えたくらいにしか思っていない」と語ったという
   ほど、常に若々しく精力的な活動を続けた。
  1920年、没後のこの年に、片倉組の製糸経営を継承し
   て設立された片倉製糸紡績株式会社は、世界最大の
   製糸会社といわれた。
   末弟・佐一が養嗣子となり、初代没後、襲名して2代
   兼太郎となる。
  1934年、2代兼太郎没により、嗣子脩一が襲名し3代兼
   太郎となる。
   いかにも豪農の家と思わせる茅葺屋根の生家は現存
   している。
  ・・そして、片倉財閥は・・、
  1873年(23歳)片倉市助が、長野県諏訪郡川岸村(現
   在の岡谷市)で座繰り(ざぐり)製糸を開始したの
   を嚆矢(こうし、物事のはじめ)とする。
   「シルクエンペラー」と呼ばれた二代目片倉兼太郎
   (片倉佐一)の手により、製糸業から発展する。
  1895年(45歳)片倉組を設立し、東京京橋に進出する。
   以降、業容を拡大し、一財閥を形成した。
  戦後の財閥解体で解散となる。
  創立50年を記念して、諏訪市に温泉施設片倉館を建設。
  2017年、施設は現在も現役。
   一部は国の重要文化財に指定されている。
  <参考文献>足立栗園『初代片倉兼太郎君事歴』、『片
 倉製糸紡績株式会社20年誌』

1894年5月、『西鶴全集』(博文館刊)など発禁となる。
  博文館は、東京の出版社で、明治時代、国粋主義的な
 雑誌を創刊した。
  そして、取次会社・印刷所・広告会社・洋紙会社など
 関連企業も次々と創業し、日本最大の出版社となった。
  帝国文庫、軍書、稗史(はいし、世間のうわさなどを歴
 史風に書いたもの)、人情本黄表紙、洒落(しゃれ)本な
 どを網羅(もうら)していた。
  《真書太閤記》は、よく売れた。
  この帝国文庫が発禁処分を受けた。
  1893年3月から刊行を始めた『帝国文庫』は、江戸時代
 の歴史、小説、歌舞伎、浄瑠璃、随筆、紀行文などを収
 録した全50巻で、後に続編50巻が出版され、計100巻とな
 った。
  この当時、類例のない大規模な出版だった。
  大量廉価販売の先駆けとなった。
  本文総ルビ、各冊約1000ページ、一冊50銭・・画期的
 だった。
  好評で、多くの人たちに歓迎され、刊行を重ねた。
  出版開始の翌年・1894年5月、及び、6月に刊行した『
 西鶴全集』上下巻が、風俗紊乱を理由に発禁処分、発売、
 頒布が禁止された。
 この『西鶴全集』は、尾崎紅葉、大橋乙羽による校訂で
好色一代男」、「好色一代女」、「日本永代蔵」などの
 西鶴の主要な作品がほとんど網羅されていた。
  あらかじめ風紀上問題になりそうな部分は○○という
 伏字とした。
  しかし、発禁処分を受けた。
  新聞に取り上げられ、『読売新聞』は、翌日に、「西
 鶴死す」という見出しで報じた。
  さらに、その後、政府の処分を批判する「西鶴全集の
 発売禁止」を掲載した。
  博文館は、ただちに「発売禁止に着き謹告す」という
 いう新聞広告を掲載し、その中において、同書の発行は
 好評を博し、初版を売り尽くして、再版に移ろうとした
 矢先だったと記し・・、
  「然れども西鶴の遺著尽く風俗を害するものにあらず、
 あに一部の貯めに其の全部を埋没するに忍びんや、故に
 他日其・・」と、将来の再出版を約束した。
  そして、1903年8月、『校訂西鶴全集』の上巻刊行で実
 現した。
  しかし、これが、また、発禁処分を受けた。
  平田禿木から西鶴全集二巻を借用して熱心に読みふけ
 った樋口一葉は、「之があると本当に心強い」と述べた。
  『西鶴の書誌学的研究』の滝田貞治は、この『西鶴
 集』を、「小説のほとんど大部分を結集したのは、まさ
 に、西鶴復刻史上の画期的事業であった。
  それが、発禁の災厄にあったので、ますます紙価を高
 からしめた」と書いた。

1894年6月2日、閣議が、清国が朝鮮へ派兵したことを受け
 て、朝鮮へ混成一個旅団の派遣することを決定した。
   朝鮮国内乱ニ関シ兵員派遣ニ関スル方針ノ件
  朝鮮国内乱ニ関シ兵員派遣ニ関スル方針 右御覧ニ供ス
  明治二十七年六月六日 内閣総理大臣伯爵伊藤博文 明治
 二十七年六月二日 朝鮮国乱民内ニ起リ京城駐在公使官ヨ
 リノ来電ニ拠ルニ官兵頻ニ敗レ乱民益々猖厥ヲ窮ムルノ
 勢アリト云将来乱民京城又ハ其他ノ日本人居留地ニ侵入
 スルコト無キヲ保チ難ク従テ公使館及国民ヲ保護スル為
 ニ兵員ヲ派遣スルノ必要アリ 天津条約第三款ニ依ルニ朝
 鮮国変乱又ハ重大事件アルニ当リ日支両国又ハ一国兵ヲ
 派スルトキハ行文知照スヘシトノ明文アリ故ニ出兵ニ当
 リ将来或ハ清国ト往復関係スヘキノ時機ヲ生スルモ料ル
 ヘカラズト雖、今度ノ事ハ急速ノ事変ニ係リ我カ兵ヲ以
 テ我カ国民ヲ保護スルヲ怠ルヘカラザルカ為ニ清国ト連
 合

1894年6月2日、閣議、朝鮮派兵決議して、衆議院解散。
  この時、西欧列強は植民地争奪合戦の真っ最中で、そ
 の様な世界情勢の中で、日清戦争へ至って行く・・特に、
 アフリカとアジアは、『ヨーロッパ列強(イギリス、フ
 ランス、ドイツ、ベルギー、ロシア)』のアフリカ、ア
 ジア分捕り合戦が同時進行していた。
  特に、地理的に近いアフリカは、弱肉強食の様相で、
 ヨーロッパ列強の最大の餌食となり、領土と資源・利益
 が収奪の的(まと)となっていた。

1894年6月4日、李鴻章が、朝鮮に援兵派遣指令。
  1894年の春、朝鮮の地方の小さな反乱からはじまった
 甲午農民戦争東学党の乱)。
  この農民軍は、全羅道内全域を解放して、朝鮮政府の
 派遣した中央直轄軍をも撃退し、さらに北上する気配を
 示した。
  李氏朝鮮政府は、袁世凱(えんせいがい、中国・清の
 軍人)の示唆により清国へ援軍を求めた。
  清国の北洋大臣・李鴻章(りこうしょう)は、これに
 応じた。
  そして、1894年6月4日、清国の陸海軍を派遣した。
  そして、1885年4月の朝鮮の甲申政変の際に、日清間
 で結んだ天津条約に基づき、清国は日本へ通告した。
  日本は、早い時期から甲午農民戦争のゆくえを注視し
 ていたが、情報は、6月2日に、朝鮮政府が、清国に出兵
 を要請するとの情報を得た。
  日本の対応も速やかだった。
  閣議を開き6000人の派兵を閣議決定し、6月5日、大本
 営を設置、6月12日、派遣軍が漢城(現在のソウル)近郊
 に、既に来ていた清国軍と朝鮮の布陣となった。
 こうした状況の中、朝鮮政府は、6月10日、農民軍と和
 約を結んで事態を収拾した。

1894年6月5日、大本営参謀本部内に設置した。
  1893年5月19日、大本営が、勅令第52号戦時大本営条例
   によって法制化された。
   そして、日清戦争において初めて設置された。
  1894年6月5日、この大本営が、東京の参謀本部内に設
   置され、
  1894年8月1日、皇居内に移った。
   その後、当時、東京を起点とする鉄道網の西端であ
   ったこと(広島駅)、また、大型船が運用出来る港
   (宇品港、現・広島港)が有ったことで、前線に向
   かう兵站基地となった広島市に移ることとなった・・
   そして・・
  1894年9月13日、大本営が宮中からこの地に移転した。

1894年6月5日、政府が、ペスト流行の調査のため、北里柴
 三郎らを香港に派遣した。
  この後、ペスト菌を発見する。

1894年6月7日、政府が、清国に朝鮮への派兵を通告し、こ
 の日、日清両国が、相互に出兵を通告した。
  1894年5月、朝鮮で甲午農民戦争が起ると・・、
  1894年6月、李朝朝鮮政府は、鎮圧のために清国に援兵
   を依頼し、そして、次いで日本に援兵を依頼した。

1894年6月7日、長崎港にペスト患者の発生したアメリカ船
 ペリュー号が入港した。
  長崎の人々の不安を呼んだ。
  ペストが怖い病気であるという事は知られていた。
  1899年、神戸で、ペストの疑似症状で13歳の少年が病
   死した時は、新聞は、「ペスト、神戸に侵入」の見
   出しでこれを報じた(「国民新聞」1899年11月11日
   付)
   周辺諸国からの、日本へのペスト来襲を懸念した政
   府は・・、
 1899年11月18日、官報号外で勅令第434号を公布、内務大
  臣は、伝染病予防のために必要と認めるときは物件の
  種類を限りその輸入を禁止できることとした。
  そして、同日、これを施行した。
  勅令公布と同時に、内務省は省令第54号を発令、ペス
  ト予防のため、インド・清国諸港・香港・台湾からの
  襤褸(ぼろ、使い古しの布)・古綿・古着・古紙・古
  皮革・古羽毛類の輸入を禁じた(「国民新聞」1899年
  11月19日付)
  そして、この年・1899年、大阪株式市場で株価が下落
 したが、その原因は、ペストの流行とその検疫励行によ
 って物流や人の移動が阻害されたためと噂された。
  事実、ペストの侵入地と目された神戸付近と、その以
 西の鉄株は、特に売り方が多かった(「国民新聞」1899
 年11月19日付)
  1899年のペスト患者は、「時事新報」(1900年1月1日
 付)によると、総計49名(内・死亡40名)で、内訳は、
 神戸市22名(内・死亡18名)、大阪市21名(内・死亡17
 名)、姫路で1名、そのほか広島・福岡・和歌山・長崎・
 静岡で死亡者各1名ずつと発表された。 
  このままでは、ペストが、神戸・大阪・岐阜を経てや
 がて沼津に至り、鉄路を伝わって東京へ侵入するやも知
 れない・・、
  そう危惧した松田東京市長は、一つの奇策を1900年12
 月27日の東京参事会に提案した。
  それが、鼠20万匹の買い上げ作戦であった(「報知新
 聞」1900年12月30日付)

1894年6月9日、清国軍が、朝鮮の牙山(あさん)に上陸し
 た(日本は6月12日) (6月8日説あり)
  牙山は、ソウルより南に85km・大田広域市より北北西
 65kmに位置している。
  1894年6月8日、葉志超(ようしちょう)総督と、聶士
 成山西太原鎮総兵に率いられた清国軍(北洋陸軍、歩兵
 約2,500名、山砲8門)が牙山に上陸した。
  1894年7月24日時点で3880名に達した。
  (参考)聶士成(じょうしせい):清の軍人。
      日清戦争の際には、提督:葉志超に従って朝
     鮮に赴き、牙山に駐屯した。
      遼東では、大高嶺一帯で日本軍の旅団長・富
     岡三造を戦死させるなど勇戦し、直隷提督に任
     命された。
      下関条約後、清朝は、陸軍の軍制改革を行い、
     北洋陸軍を武衛軍と改め、聶士成率いる30営を
     天津近郊の蘆台に駐屯させ、ドイツ式の軍事教
     練を行った。
      1900年、義和団の乱が発生すると聶士成は、
     鎮圧に努め、京津鉄道を保護した。
      八か国連合軍が侵攻すると、6月13日より天
     津の守備に就いたが、7月9日に戦死した。
      後に、忠節の諡号を贈られた。
  (参考)山西太原:たいげん、中国の山西省省都
      黄河の支流、汾河(ふんが)の東岸にあり、製
     鉄・機械工業が盛ん。
      明代に建造された正方形の城壁が残る。
      人口、行政区256万(2000年)
.
  (今日の言葉)
.
  題:規制の効く日本と、ホッタラカシにして来た北朝鮮
    アメリカの姿勢が・・この、今の状況となっている。
    アメリカは韓国から撤退し、38度線は対馬海峡となり・・
.
1866年8月16日、ジェネラル・シャーマン号事件
  1866年7月、アメリカ合衆国の帆船であるジェネラル・
 シャーマン号(武装商船)が、李氏朝鮮の羊角島に来航
 し、事件を起こした。
  目的は、通商を求めたとされる・・が・・、
  朝鮮住民の方々が殺戮され、略奪を受けた。
  これに対し、朝鮮側は焼き討ちをし、撃退した。
  当初、朝鮮側の平壌の地方官は、難破船として処理し、
 食糧や薪・水を支給し、退去を命じる方針だった。
  しかし、朝鮮側の使者の舟が、シャーマン号側によっ
 て転覆させられ、使者は捕らえられた。
  そして、さらに、沿岸の朝鮮住民が砲撃を加えられ、
 川を遡行しはじめられた。
  この異常行動に、朝鮮側も攻撃を開始し、数日間の交
 戦状態となった。
  しかし、シャーマン号は座礁し、動けなくなったとこ
 ろを・・、
  1899年9月20日、焼き討ちした。
  そして、乗組員全員を殺害した(焼死や溺死との説も
 ある)。
  1867年1月、アメリカは、アジア艦隊を向かわせ、交渉
 させた・・この交渉は、数度におよんだが黙殺された。
  1871年アメリカは、この事件の謝罪を求め、再度、
 アジア艦隊の軍艦3隻を向かわせた・・そして、朝鮮半島
 中西部の江華島で交戦した。
  しかし、アメリカは撃退され、開港交渉は失敗した。
  この結果、李朝朝鮮王朝は、一層、鎖国政策を強化し
 た。
  このアメリカのシャーマン号は、ヨーロッパの雑貨を
 積んで、通商を求める目的だったという話もあるが・・、
 平壌に散在する墳墓から宝貨を盗掘する目的もあった。
  朝鮮側は退去を求めたが、強引に開港を迫って来て、
 朝鮮の軍使や積荷を拉致(らち)された。
.
1910年8月29日、日韓併合
  日本と大韓帝国は、1905年、大韓帝国を「保護国」と
 する日韓保護条約を締結した。
  そして、この年・1910年に、「韓国併合に関する条約」
 を結び、この条約に基づいて日韓が併合された。
  1910年8月22日、韓国併合条約が、漢城(現在のソウル
 特別市)で、寺内正毅統監と李完用首相により調印され、
 1910年8月29日、裁可公布により発効した。
  しかし、今・現在における韓国の言い方は・・
  日韓併合をしてからの状況について、韓国の子供たち
 の歴史教科書にも書いているが・・、
  韓国は、「日本に虐(しいた)げられた」と、当然の
 ごとくに書いている。
  これ等の事は、後から立場が変わってから言い出した
 ことで、条約締結時の言い方とまったく逆の言い方とな
 っている・・、
  後からでは、何とでも言えるのであるが、あまりにも
 節操のない言い方である・・
  韓国は、この様な態度は、歴史上、何度もやっている
 事であるが・・恩を仇で返すやり方となっている。
  日韓併合されて、韓国が見違えるように良くなったこ
 とは、種々のデーターや記録が示している。
  だから、日韓併合時には、その様な日韓併合状態であ
 ることが、韓国にとって都合が良かったのだ・・だから、
 条約も結んだのだ。。
  韓国は、後になって、事実をまったくひん曲げている。
  朝鮮・韓国は、江戸時代も、その様な態度を、日本に
 対してとって来た。
  そこに、中国に冊封される韓国があった。
  また、日本に虐げられたと、韓国はデーターを使って
 説明しているが、そのデーターは不確かなデーターであ
 って・・間違いデーターであることが証明されている。
  最近でも、青山学院大学の木村光彦教授の説明でも、
 その韓国の主張は否定されている。
  その1例が、日韓併合によって、韓国・朝鮮人の「米の
 消費量が減った」という韓国の主張があるが・・、
  日韓併合によって、日本が、韓国の米を持ち去った如
 くに言いたいのだろうが?・・これは違う・・間違いだ
 と木村教授は言う。
  これは、このデーターを調査した調査官自身が、デー
 ターを修正しているごとく、間違いデーターである。
  そして、減っているのでは無くて、大した変わりはな
 く・・変化はしてないのである。
  今まで、日本を貶(おとし)めたいという気持ちの韓
 国が、今まで、この間違いデーターで、プロパガンダ
 嘘宣伝)して来た。
  日本によって、「韓国・朝鮮社会は、激しく窮乏化を
 した」と・・韓国は、自国民にだけでなく、世界へと言
 っているが、間違いデーターに基づく発言となっている。
  人口が3倍に増え、環境改善も著しく、鉄道を張り巡ら
 せ、日本国内より立派なぐらいの学校を建て、ダムを造
 り・・経済発展して、豊かになっているのに、何を言う
 かである。
  まったくひどい韓国の言い方である。
  韓国の子供たちの歴史教科書も、謝罪記事を含めて書
 き直しをしなければならない。
  逆に、日韓併合に刺激された韓国農民の方々が、主体
 性を持って努力し、米の収穫量は拡大しているのである。
  この農業の他にも・・韓国は、会社設立も認められな
 かったと言っているが、これも嘘である。
  実際、朝鮮人による企業設立も多く見られ、朝鮮社会
 の工業化が、急速に進んでいる。
  経済も順調に成長して行った。
  青山学院大学・木村光彦教授は、この様な実際の現実
 を明らかにされている。
  そして、日本は、今・現在につながる、先を見た将来
 展望に基づく開発も朝鮮・韓国にしている。
  朝鮮半島北部のウラン採掘まで・・この当時に、すで
 に、しているのである。
.
1945年5月2日、ベルリン陥落。
  ソ連軍が、ドイツ国会議事堂に赤旗を掲げた(ライヒ
 スタークの赤旗
  このドイツ国会議事堂(ライヒスターク)は、1933年
 の放火事件以来、ナチス体制下では、公式の目的では使
 用されておらず、完全な修復も成されていなかった。
  この建物内での猛烈な戦闘の末に、1945年5月2日、ソ
 ビエト赤軍は議事堂を制圧した。
  このような時、日本の敗戦も決定的になっていた。
  第二次世界大戦に勝つ見込みは、日本には「まったく
 無かった」。
  この頃、日本は、一生懸命、和平をアメリカやソ連
 そして、スイスなど連合国側へ働き掛けていた。
  しかし、国民へは、可哀想だが、「あくまで戦うのだ」
 の意思表示をしていた。
  和平を一生懸命に投げかけている日本へは、言を左右
 にして応じる様子を見せなかった「アメリカ・ルーズベ
 ルトと、ロシアのスターリン」だった。
  スターリンは、日本からの和平の働きかけの内容をル
 ーズベルトに話し、その状況、及び、内容は、アメリ
 に筒抜けだった。
  その様な状況の中で、ルーズベルトスターリンとの
 間で話がなされたことが、「日ソ中立条約を破棄して日
 本領土を奪え」というアメリカ・ルーズベルト大統領の
 ソ連スターリンへの『そそのかし』だった・・卑劣な
 事である。
  その為の戦いの準備のためのソ連の時間稼ぎと、アメ
 リカのソ連への武器援助・・ソ連へその為の武器弾薬を
 運ぶ時間が欲しいアメリカが、そこに居た・・(実際、
 アメリカは、船で、日本攻撃のための武器弾薬を、ソ連
 へ運んでいる)・・
  そして、それと、アメリカには、これからの重要な新
 兵器となる原爆の威力を試したいという欲望があった。
  そして、世界へ、その原爆の威力を示す・・その為の
 時間が欲しいアメリカが居た。
  それ故に、和平を進めて、終りにしたくないという事
 情があった。
  だから、この時、日吉に移った日本の地下司令部は、
 苦悩の時間だけが過ぎる場となっていた。
  その日吉の地下司令部を、最初に見た時、この様な事
 情を知らなかった・・その感想・・
  題:終戦間近の最末期・・はっきり見えた・・
    そして、戦争は、そこまで破壊していたのか?
  悲しいことだが、終戦間近の最末期の姿が、はっきり
 見えた気になりました。
  第二次世界大戦の戦争末期、旗艦まで軍艦として戦う
 ため、旗艦に乗っていた海軍司令部は陸(おか)にあが
 った。
  それが、日吉の慶応義塾大学の敷地内の地下に、陸に
 上がった海軍司令部がある。
  ここを見て、ここまでして戦う意味があったのかと、
 まず、思った。
  毎日、何万という膨大な大切な命を失って、日本の方々
 が各地で亡くなっていく・・死んでいる時に、決断でき
 ない最高のトップが居た・・慶応に行って思った、見え
 た。
  当時の、この戦争の責任者、指揮官方の・・トップの
 最上位の人たちは、ただ流されるように、右往左往して
 いた姿が見て取れた。
  勝つ見込みは無いことを、遠の昔に十分わかっている
 のに、そして、いま、その手が打てない状況の中で、こ
 の穴倉の中で、何をしていたのか?
  自分に死がおよぶことを恐れていたのか・・?
  その感がする。
  自分の死に、恐れをなしていた姿が、見れたような気
 がした。
  悲しい、本当に悲しいことだが・・・。
  停戦のボタンが押せないでいたトップたちが、ここへ
 行って、はっきり見えた。
 (参考)き‐かん【旗艦】艦隊の司令長官・司令官が乗
    って指揮をとる軍艦。マストにその司令官の階級
    に応じた旗を掲げる。
  終戦の詔を聞いて、最高戦争責任者の中に、腹に銃を
 発射し、自殺を図った人がいた。
  腹であったため死ねなかった。
  A級戦犯となり「死刑」となった。
  腹に撃っては死ねない。
  知っているはずなのに。
  この地下司令部の壕は、慶応大学の隣の民間人の地へ
 も伸びていた。
  緊急極秘につくられたが、この壕は、アメリカ軍に攻
 撃され、不幸なことに、この隣の民間人の方が亡くなら
 れている。
  送受信アンテナも、離れて設けたりしていたが、アメ
 リカ軍には、はっきり分かっていたようだ。
  誰が戦争を止める「 断 」をするかが、まったくう
 やむやだったとの事・・
  その様な状況の中に「ふわふわ」とあったような・・
  意志を出せない中で、時間だけが過ぎる組織だったよ
 うだ・・
  戦争は、「 そこまで破壊して居た 」のか・・
  ・・と、上記の様に、見学直後に感じたが・・
  実際は、日本は、和平を、一生懸命にしていたが・・
 それに応じない連合国側が居たことが・・その後になっ
 て分かった。
  ルーズベルトは、「アメリカの若者が死なないためと
 称して、原爆を落としたのは・・完全な嘘。
  戦後を見据えて・・日本をモルモットにしたのだった。
.
1945年5月頃、木銃で下から敵を撃滅せよ・・
  弾もでない木の銃で、子供に何をさせようとしたのだ
 ろうか・・
  私の履歴書商船三井最高顧問・生田正治氏(抜き書き)
  1944年7月には、サイパン島守備隊が玉砕し、本土への
 空襲激化は時間の問題となったため、主要13都市で学童
 疎開が開始された。
  毎朝10時以降に警戒・空襲警報が出れば、昼の給食用
 の芋や代用食のドングリでこしらえたコッペパンなどを
 受け取り、地域ごとに走って帰宅することになった。
  10時以前だともらえないので、毎日10時になってすぐ
 に警報が鳴らないかと、不届きなことを願う日々だった。
  家に帰っても遊び道具はボール一つなく、もっぱら道
 路で仲間と軍艦ゴッコなどの戦争遊びや、高射砲弾の破
 片集めに興じた。
  父に2度目の召集令状が来たのは1944年の夏頃だった
 ろう。
  近くの東横線都立高校駅まで見送り、せみ時雨(しぐ
 れ)の中で敬礼をして乗車していく父の後ろ姿に手を振
 ったのが別れになった。
  1945年2月になると、縁故疎開先もなく、まだ、東京に
 いる全学童に強制集団疎開命令が出た。
  5年生以上約100人は、数人の先生に引率されて4月早々、
 山梨県・小渕沢に向かった。
  当時の小渕沢は文字通りの寒村だった。
  私たち男子約50人は駅前の「寿旅館」に、女子は近く
 のお寺にお世話になることになった。
  朝早く起きて近くのお宮の庭掃除と、荒削りの木銃で
 の厳しい軍事教練。
  何でも米軍は、九十九里浜上陸に合わせて甲府盆地
 落下傘部隊を降下させるので、その時は、この木銃で下
 から敵を撃滅せよとの命令だった。
  弾も出ない木の銃で、子供に何をさせようとしたのだ
 ろうか。
  毎日午前中は自習だった。
  本を読んだり手紙を書いたりしてなんとなく過ごし、
 午後は勤労奉仕で山に枝払いや薪取りに行かされた。
  いつも腹をすかせていた。
  主食は大豆が8割で、残りの2割が米、麦と雑穀。
  炊くと大豆は膨らむので、見た目には大豆だけのよう
 だった。
  下痢をする者が多かったが、申告しても薬はない。
  決まって絶食療法を言い渡されるのがわかっているか
 ら、食べ盛りの私たちは、誰もがギリギリまで我慢した。
        (参考:日本経済新聞、2011年1月4日)
.
1945年8月6日、アメリカの卑劣な広島への原爆投下
  日本政府の 原爆投下に対する抗議
  カッセーゼ教授は、
  日本政府が、広島に原爆投下に対して、
  「それは、不必要な苦痛を与える非人道的兵器の使用
 を禁ずる国際法原則に違反する」との理由で、
  スイス大使館を通じてアメリカ政府に抗議を行った事
 実に触れ、
  短文の通諜ではあったが、
  立派な主張を提示したと述べている。
        (本:世界が裁く東京裁判、41頁)
  (参考)つう‐ちょう【通牒】 [名](スル)
    1 書面で通知すること。また、その書面。
    2 「通達1」の旧称。
    3 国際法上、国家の一方的意思表示を内容とする
     文書。「最後―をつきつける」
       ・
       ・
2010年12月2日、アメリカが、「世界の警察」を任じられな
 くなった時、日本は?
  景気低迷で疲弊するアメリカ・・、
  横浜で、オバマ大統領と会談した日本の菅首相は、思
 いやり予算の削減が頭にあったが、逆に、オバマ大統領
 から「増額」を求められた。
  厳しい見方の米国議員・・、
  その1:中国の軍事的脅威が増すのに、日本はアメリ
 カ軍のありがたみが分かっていない。 
  その2:沖縄の1万5000人の海兵隊員が中国に上陸して、
 何百万もの人民解放軍と戦うなんて誰も思っていない・・
  在日米軍の大規模な撤収を提唱。
  米国の2010会計年度の赤字、約135兆円・・、
  アフガニスタン戦費が重荷。 
  アメリカ議会の本音:地球の裏側まで面倒を見切れな
 い。
  オバマ大統領は、今のところ、アジアへの軍事的方向
 性は、強める方向。
  しかし、厳しい財政から続けられるかに大きな疑問符
 が周囲に・・。 
  北朝鮮とは事を荒立てたくないという心持ちか?
  アメリカ国防総省のラパン副報道官の言葉:在韓米軍
 を増強する予定はない。
  アメリカ軍のある幹部の言葉:北朝鮮の軍事施設を空
 爆するのは簡単だが、中国がどう反応するかが分からな
 い。
  軍事行動はあり得ない。
  危機管理が専門のユーラシア・グループのイアン・ブ
 レマー社長の言葉:北朝鮮は、ソウル攻撃以外の挑発な
 らば反抗はないと算段しているとみえる。 
  長引くアフガン戦争、長引く景気低迷で、疲弊するア
 メリカ・・、
        (参考:日経新聞、2010年12月2日)
.
2018年3月、中国の全国人民代表大会で・・、
  習近平国家主席は、21世紀半ばまでに、世界一流の軍
 事力を備えた「社会主義現代化強国」と、
  「一帯一路」の推進による中国主導の「人類運命共同
 体」を建設すると宣言した。
.
2018年4月17日、中国依存のドイツが味わう「ゆでガエル」
 の恐怖・・という記事が掲載された。
  ドイツの怖(こわ)いところ・・、
  ドイツは、ここ10年間、中国に非常に接近している。
  長いことドイツは、中国の政治体制に目をつぶり、中
 国と一体となって『儲けの話に加わってている』。
  ドイツの頭にあることは、『儲かれば良いのだ』にな
 っている。
  中国主導で進められているAIIB(アジアインフラ
 投資銀行、2016年1月16日に開業式典を行った)にどっぷ
 り浸(つ)かっている。
  アジアでインフラが進み、投資家は儲かる。
  アジアは、徐々に近代化されて行く。
  良さそうに見える。
  ここが落とし穴。
  ここで豊かになるのが、一部の投資家だけ。
  中国と強く結びついた一部の投資家だけ。
  「今までの植民地体制」も、宗主国と一部の民が搾取
 した。
  その宗主国にドイツが加わっている形。
  問題なのがAIIBに「貧困対策が無いこと」。
  民主主義ではない政治体制の国・中国、
  独裁体制の国・中国が、この金のかかわりで影響力を
 強めて行く。
  ドイツは、中国が民主主義国家ではないという大切な
 ポイントに目をつぶっている・・見落としている。
  将来、この様な経緯で、「世界中に、民主主義ではな
 い国々が増えても良い」くらいに考えている。
  政治体制が独裁的で、中国を頂点とする植民体制が広
 がって行く。
  中国の「一帯一路」にはそのような形がある。
  中国の「大きな問題である人権問題」に目をつぶり、
 中国の「勝手な軍事的行動」にも目をつぶっている危険
 がある。
  基本的人権などもない国家・中国と共同歩調をとって
 いる。
  ドイツは、必死で守らなくてはいけないものまで「捨
 て去っている」。
  人民抑圧している国家を許し過ぎていることを、ここ
 で、見直さねばならない。
  中国は、この論に反対したいのなら、「一回でも、自
 由選挙を行なえ」。
  (最新情報資料):中国依存のドイツが味わう「ゆで
       ガエル」の恐怖(2018・4・17)・・
       [15日 ロイター]
        独建設器械大手のバウアーBSAG.DEは、こ
 の数十年間、中国に積極投資を行った多くのドイツ企業
 に比べて、優位な立場にある。
  ドイツ南部バイエルン州を拠点とする、1790年創業の
 バウワーは、中国合弁パートナーの顔色をうかがう必要
 がない。
  上海と天津にある2つの工場は、100%自社で所有して
 いるからだ。
  また、同社が製造する特殊建設機械は、アジア全体で
 販売されており、不安定な中国建設市場における景気の
 波に左右されずにすむ。
  しかし、それでも一族経営の7代目にあたるトーマス・
 バウアー最高経営責任者(CEO)は、中国における自
 社事業の状況や、これまでドイツ企業と政治家が「確実
 に儲かる賭け」とみなしてきた中国との経済関係全般に
 ついて、危惧していると語る。
  「ドイツは、1つのバスケットに卵をたくさん入れす
 ぎた。
  そのバスケットとは中国のことだ」と話す62歳のバウ
 アー氏。
  バイエルンのアクセントが強く、陽気なバウアー氏は、
 ミュンヘンから車で約1時間の距離にあるシュロベンハ
 ウゼンの本社でロイターの取材に応じた。
  同社の懸念は、ドイツで広まりつつある恐れを示して
 いる。
  ここ10年以上、ドイツ経済は、世界金融危機やユーロ
 圏債務問題、大量の難民流入などにも耐え、欧州成長を
 けん引してきた。
  その強さの裏側には、2つのエンジンがあった。
  ドイツの革新的企業が、成長経済が必要とするハイエ
 ンド(高性能、あるいは最高級であるさま)な製品を数
 多く生産してきた。
  また、ドイツは、オープンでルールに沿った世界貿易
 システムから利益を上げることに長けており、そこから
 競争力を得ていた。
  中国は、この両面で重要だった。
  この10年、外国企業に対して徐々に門戸を開く中で、
 中国は、ドイツ製の自動車や機械を驚くべきペースで買
 い上げている。
  ドイツの自動車メーカーは、昨年だけで、米国販売の
 3倍以上に相当する500万台近くを中国で売り上げた。
  しかし、依然として好況が続いているものの、「ドイ
 ツ株式会社」の中国市場に対する見方には、劇的な変化
 が生じつつある。
  習近平政権の下で、中国の開放政策が逆回転を始めて
 いるだけでなく、中国企業も、ドイツ側の予想を大きく
 上回るスピードでバリューチェーン(価値連鎖)の上流
 へ移動してしまったのだ。
  ドイツが抱える中国のコナンドラム(謎)は、欧州が
 直面する、より広範な試練の一角だ。
  ここ数年、内向きな危機対応に追われていた欧州は、
 今後待ち受ける地政学的、経済的リスクに対応するには、
 政治的に分断されており、まだ準備不足の状態だ。
  欧州大陸はいまや、自己主張を強める中国と「アメリ
 カ・ファースト」を掲げるトランプ米大統領の間で、板
 挟みになるリスクに直面している。
  中国におけるドイツ企業の窮状を、密かに「ゆでガエ
 ル」に例える企業幹部もいる。
  常温の水にカエルを入れ、徐々に過熱すると、熱湯に
 なった時には跳んで逃げることもできず、ゆで上がって
 死んでしまうのだ。
  ドイツのクラウス駐中国大使は、ベルリンで先月開か
 れた企業経営者との会合で、ドイツと中国の関係に「地
 殻変動的な変化」が起きると警鐘を鳴らした。
  同会合の出席者が明らかにした。
  「中国とのパートナーシップの新時代について、われ
 われは心構えを呼びかける必要がある」と、ドイツ最大
 の産業グループであるドイツ産業連盟(BDI)の幹部
 は話す。
  「まだ今は黄金時代だが、今後何が起きるかについて
 は重大な懸念を持っている」
  <国家の役割>
  ドイツ企業は、先頭を切って中国進出を果たし、中国
 経済の発展に伴ってドイツに有利な状況をもたらした。
  2国間貿易は昨年、過去最高の1870億ユーロ(約24.7
 兆円)に達し、中国との貿易高がそれぞれ700億ユーロ程
 度だった英国やフランスを大きく凌駕している。
  2017年のドイツの対中貿易赤字は140億ユーロだったが、
 米国が抱える対中貿易赤字3750億ドル(約40兆円)に比
 べればわずかだ。
  世界70カ国で1万1000人を雇用するバウアーは、1990
 年代半ばに同社にとって初の中国生産施設を建設した。
  その当時は、高層ビルや発電所、空港などの基礎工事
 に必要な、同社が誇る黄色の巨大で複雑な掘削機を生産
 可能な中国企業は1社も存在しなかった。
  だが、2013年までに、そうした掘削機を生産できる中
 国の競合企業が36社に増加。
  バウアーCEOは、欧州サプライヤーが共同開発した
 部品を中国に売却したことで、シフトが加速されたと指
 摘する。
  10年前、バウアーの中国工場には1億ユーロ超の売上
 げがあった。
  続く9年のうち5年の年間売上げは、その半分に達しな
 かった。
  現在では、バウアーを含めたドイツ企業は、中国政府
 が自国経済に及ぼす役割を、何よりも懸念しているとい
 う。
  中国は、昨年、サイバーセキュリティ法を制定し、外
 国企業が本社との機密連絡に使う仮想プライベートネッ
 トワーク(VPN)を含めたインターネットに対する国
 家統制を強化した。
  最近では、複数のドイツ企業が、中国合弁パートナー
 の取締役に共産党役員を受け入れるよう圧力を受けてい
 ると苦情を申し立てている。
  バウアーCEOは、習近平国家主席が唱える「中国製
 造2025(メイド・イン・チャイナ2015)」戦略が、ドイ
 ツ製造業の優位を直接脅かすのではないかと懸念する。
  同戦略では、ロボティクスや航空産業、クリーン動力
 で動く自動車など10分野を重点分野に指定している。
  バウアーCEOは、自社の強みを維持するため、デジ
 タル化を急がせている。
  「これは模倣者との競争ではない。
  これは、われわれに取って代わろうとする革新的エン
 ジニアとの戦いだ」と、バウアーCEOは言う。
  「早期に答えを見つけ出さなければ、非常に悪い結果
 を招くだろう」
  <トランプ関税>
  ドイツが抱える不安は、中国に対して数百億ドル規模
 の追加関税を突き付けたトランプ米大統領の懸念に似て
 いる。
  しかし、ドイツ主要企業があまりにも中国市場への依
 存を深めていたため、独政府は中国との衝突を避けてき
 た。
  独自動車大手ダイムラー(DAIGn.DE)は2月、いかに一
 部企業が中国政府を怒らせないよう臆病になっているか
 を自ら体現している。
  チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世の言葉
 を引用した、高級車ブランドのメルセデス・ベンツのイ
 ンスタグラム広告が、中国で大きな反発を呼んだことを
 受け、同社はこの広告を削除した。
  その上で、同社のツェッチェCEOは声明を出し、「
 不注意で無神経な過ち」により、中国人に「痛みと悲し
 み」を与えたとして、深い遺憾の意を表したのだ。
  「ドイツの人々が、中国について話すことと、彼らが
 実際に考えていることの間には大きな違いがある」と、
 ベルテルスマン財団のベルンハルト・バーチ氏は言う。
  同財団は、「10年後には、中国が欧州の政治・経済シ
 ステムを大きく損なっている」と題する討論会を、ベル
 リンに本拠を置くメルカトル中国研究所(MERICS)
 と合同で今月行う予定だ。
  中国で活動するドイツ企業のムードも冷めつつある。
  中国のドイツ商工会議所が、昨年後半に行った調査に
 よると、中国内の新たな場所に投資を計画している企業
 数が、久しぶりに会員企業の半数を割り込んだ。
  また、中国に進出したドイツ企業の13%近くが、今後
 2年以内に撤退する可能性があると回答した。
  過去数十年間、中国に対するドイツのアプローチは「
 通商を通じた変化」という言葉で説明することができた。
  だが今や、この戦略は崩壊した。
  政府関係者からは、「ウィン・ウィンの新しい意味は、
 中国が2度勝つということだ」といったブラックジョー
 クも聞こえてくる。
  「緊密な経済関係が、開放を促進することを期待して
 いた。
  だが、明らかにそれは誤った期待だった」と、ある政
 府関係者は語る。
  「彼らは、口ではわれわれが聞きたがっていることを
 言うが、その正反対の行動を取る」
  ドイツ政府も、方針転換を始めている。
  昨年、中国家電大手の美的集団(000333.SZ)による独ロ
 ボット大手クーカ(KU2G.DE)の買収が批判を浴びたことで、
 ドイツ政府は外国企業の投資に対する規制を強化し、欧
 州における買収審査に関する新ルール策定に向けて動き
 始めた。
  昨年12月には、中国当局ソーシャルメディア上の偽
 アカウントを通じてドイツの政治家情報を集めていると
 独情報当局が指摘し、中国側を激怒させた。
  このように公然と非難することはまれで、中国にメッ
 セージを送る意図があったとドイツ政府は述べている。
  今年、予定されているドイツと中国の首脳会談におい
 て、独側はより強硬な姿勢を取る方向だと、政府高官は
 語る。
  しかし、その一方で、欧州連合(EU)の内部分裂や、
 単独歩調を崩さないトランプ米政権と欧州との距離が広
 がっていることから、中国政府に方針転換を強いるのは
 困難だと認識している。
  「中国が、本当に心配しているのは、欧州と米国が、
 中国に対して共同歩調を取ることだ」と、ドイツ政府関
 係者は語る。
  「その意味で、トランプ大統領はまさに中国にとって
 天の恵みだ」
.
2018年5月20日、この日の読売新聞に・・、
  「『日米欧』対『中国』の競争の時代」として、『世
 界秩序』はどの方向へ進んで行くのか・・についての意
 見が記載されていた。
  論者は、JR東海名誉会長の葛西敬之(かさいよしゆ
 き)氏である・・
  それを参考に、その抜粋を以下に記す・・
  「世界秩序は今、第二次世界大戦後、最大の転換期に
 入って来ている。
  それは、中国が世界秩序に対してとって来た曖昧な態
 度を改め、独自の価値観に基づいた新しい秩序作りに着
 手する姿勢を鮮明に打ち出したことで顕在化した。
  米国や欧州は、これまで、中国を国際市場に受け入れ
 て、経済的発展を支援すれば、やがて、中国の民主化
 進み、自由と民主主義を基盤とする世界秩序に同化する
 と考えて来た。
  だが、中国政府は、自国の市場を閉ざしたまま、自国
 企業の海外市場への進出を強力に支援して、経済成長を
 遂げる一方、国内では、民主的な動きを警戒して、市民
 に対する言論統制を強め、軍備の近代化と増強を急速に
 進めている。
  3月の全国人民代表大会で、習近平国家主席は、21世紀
 半ばまでに、世界一流の軍事力を備えた「社会主義現代
 化強国」と、「一帯一路」の推進による中国主導の「人
 類運命共同体」を建設すると宣言した。
  これを見て、米欧は、中国が権威主義的な価値観に基
 づく独自のシステムを構築し、既存の世界秩序に挑戦す
 る意思表示と受け止め、対応を転換しつつある。
  世界は、異なる価値観に基づく二つのシステム、すな
 わち「自由・民主主義システム」と「新・中華システム」
 の間での競争時代に突入した。
  日本は、「自由・民主主義システム」の最前列に立つ
 ことになった。
  日本にとって喫緊(きっきん)の問題は、勿論、北朝
 鮮の核武装であり、その速やかな非核化である。
  但し、それは、北朝鮮の主体的な動きとして捉えるの
 ではなく、中国の前衛として、さらには、米中関係の一
 端として見るべきである。
  加えて、北朝鮮と国境を接する韓国の北朝鮮への傾斜
 が事態をより複雑にしている。
  韓国の文在寅大統領と北朝鮮金正恩朝鮮労働党委員
 長による南北首脳会談が4月27日に行われ、「板門店宣言
 が発表された。
  宣言には、抽象的な言葉が羅列されているが、その含
 意は明らかだ。
  「核のない朝鮮半島」という表現には、北朝鮮の核だ
 けでなく、米国の核をも争点にする底意が感じられる。
  また、「南北終戦宣言と平和協定締結」は、国連軍司
 令部を解散し、在韓米軍を形骸化する狙いをにおわせる。
  しかも、速やかに北朝鮮を非核化する意思は感じられ
 ない。
  総じて板門店宣言は、中国にとっても好ましい内容と
 なっている。
  こうした中で、日本にとって寛容なのは、日米同盟に
 依拠して揺るがない基盤を築くことである。
  力強く自信にあふれて日本と共に行動する米国と、そ
 れを同盟国として支える日本の覚悟が問われている。
  板門店宣言を一読して、「米国は、早晩、在韓米軍の
 撤退を提起するだろう」と感じた。
  韓国の強い要請と積極的な協力が無ければ、在韓米軍
 は機能しない。
  いずれ、撤退を決断せざるを得ないのであれば、「早
 く提起する方が賢明」という判断には理があると思う。
  北朝鮮の核に対する米国歴代政権の曖昧な姿勢が韓国
 民の不安を招き、今日の朝鮮半島情勢の流動化につなが
 ったとも考えられる。
  故に、米国が、新たな決意のもとに、韓国民の真意を
 問い直すことは意味がある。
  その場合、日本の立場は難しい。
  在日米軍に反対する勢力は勢いづくだろう。
  しかし、現実を直視すれば、日本の安全と独立が、今
 日ほど危機に瀕し、日米同盟による抑止力が死活的に重
 要だったことはない。
  「逆もまた真なり」で、米国にとって、日本の防衛と
 その為の米軍の存在は、ますます死活的になる。
  こうした中で、大切なのは強固な日米同盟を堅持する
 事であり、社会・産業分野においても、日米の連係を強
 める必要がある。・・以下略・・
  以下は、TPPへのアメリカの復帰を促す・・と、日
 米の「5G]技術の構築・・「第4次産業革命」の競争
 優位を持つ(中国も、戦略として5G分野を握り、中国
 企業の技術的優位性を保持させ(デジタルシルクロード
 の展開)・・情報戦略・・アメリカは、その中国戦略に
 対抗し、中国企業アメリカの通信インフラでの使用リ
 スクを回避しようとしている・・この面での競争激化・・
 国家統治の安全保障・・
.
2018年、アメリカは、コントロールが効く日本に、「核を
 持たせたくない」と、「核は持たせない」と、やって来
 た。
  そして、アメリカは、日本の世論操作までした。
  アメリカは、韓国には『論外の国だ』という厳しさで
 やって来た。
  やはり、韓国も核は持ちたいと意識していたが、この
 様なアメリカに不満を持ち、秘めていた。
  ここで、今(2017年)、北朝鮮が核保有国になった。
  そして、この北朝鮮と韓国は、中国の冊封国、もしく
 は、冊封国への道を進んでいる。
  韓国は、「北朝鮮と一体となった国」になりたいと思
 うのと共に、この北朝鮮の「核の傘の下に入りたい」と
 も思っている。
  この意味で、今・現在(2018年)、韓国のアメリカ離
 れが進んでいる。
  あるのは、核保有国となる韓国である。
  北朝鮮金日成の時からの方針である「核保有」は、
 今・現在、北朝鮮は達成し、韓国と共に核保有の軍事態
 勢に成功したとされる直前となっている。
  規制の効く日本と、ホッタラカシにして来た北朝鮮
 アメリカの姿勢が・・この、今の状況となっている。
  アメリカは韓国から撤退し、38度線は対馬海峡となり、
 その先には核保有した朝鮮が居るという状況となる。
  その日本では、相変わらず国家の防衛論よりモリカケ
 論に終始する状況が続いている・・
  このまま、なし崩し的に・・隣の家までが核を持つ、
 それに怯(おび)え続ける日本となって行くのか??
  中国に脅されて重要技術を取られるという様な事が、
 隣国へもするような日本となるのか・・??
  そして、新聞に以下のことが記されていた・・
  「中国は、巧(たく)みに日本の親中派を厚遇し、批
 判的な人を冷遇して来た。
  しかし、そうすればするぼど、戦略思考を持つ政治家
 とのあいだの対話が成り立たず、利害調整がしにくくな
 って来た」・・と・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive