(増補版)535E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年4月〜1891年4月)

題:(増補版)535E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年4月〜1891年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1891年4月11日、九州鉄道会社が、小倉に工場を開設した。
  九州鉄道社(仮本社は博多)が設立された後・・、
  1891年4月に、門司へ、本社家屋が完成したのを機会に
 移転した。
  そして、九州鉄道株式会社・小倉工場(現:九州旅客
 鉄道株式会社小倉工場)も・・この時・・
  1891年4月、鉄道の急速な発展に対応するため、九州鉄
 道株式会社の車両工場として、ドイツ人技師長ヘルマン・
 ルムシュッテルの指導のもと、小倉工場が開設された。
  設立当時の従業員は63名、
  当時の車両は、輸入品したもので、箱詰めされて来た
 ものを工場で組み立てた。
1891年4月15日、鉄道財産調査規程を制定した。
1891年4月22日、大槻文彦著の国語辞典『言海』全4巻が完
 結した。
  言海は、国語学者大槻文彦が編纂した国語辞典で、
  1882年(明治15年)に、初稿を成立させたが、校閲
 4年をかけ、完成したのが1886年明治19年)だった。
  元々は、文部省自体から刊行される予定であったが、
 予算が無いため、出版が立ち消えそうになり、結局、
 1891年に、自費出版することになった。
1891年4月23日、ユダヤ人のモスクワ追放。
  ユダヤ人が、モスクワとペテルスブルグから追放され
 た。
  この時、モスクワから、1万人以上のユダヤ人の方々が
 追放されている。
  また、この年、ユダヤ人モレヒバが、「シオンを愛す
 る人々」を創立した。
  そして、翌年・1892年、「シオンを愛する人々」の理
 論的指導者ピンスケルが、「自力解放」に共鳴して、パ
 レスチナに、最初のユダヤ人コロニーを成立させた。
  この間において、ロシアでは、1893年からの3年間に、
 非居住境界地域からの大量追放がなされた。
  さかのぼること、1881年には、ロシアで、「ポグロム
 (集団的迫害行為)」と呼ばれるユダヤ人大虐殺事件が
 波状的に発生していて、ユダヤ人の方々の十数万人が犠
 牲となっている。
  そして、この頃、ロシアのポグロムは沸点に達してい
 て、1882年には、人種差別法「五月法」が制定された。
  ユダヤ人の方々は、「キリスト教を信じないユダヤ
 は、豚に等しい」という迷信で差別されていた。
  また、キリスト教は、ユダヤ人の方々を、「主(イエ
 ス)殺し」と蔑(さげす)み、差別した。
  因みに、ローマ法王教皇)も、教皇領からユダヤ
 の方々を追放した。
  ロシア系アシュケナージ(虐待のため、キリスト教
 改宗したユダヤ人の方々)は・・、
  ポグロムの魔の手から逃(のが)れる為に、20万人以
 上が大量に亡命した。
  (参考)ポグロムは、「破滅・破壊」を意味する言葉
     で、加害者の如何を問わず、ユダヤ人の方々に
     対し行なわれる集団的迫害行為(殺戮・略奪・
     破壊・差別)をいう。
  また、オーストリアでは、ポグロム当初の1881年
 1914年までに、35万人以上のユダヤ人が亡命している。
  この様にして、欧州各地で迫害、追放を受けた大量の
 ユダヤ人の方々は、再度、ディアスポラして行く。
  (参考)ディアスポラは、「撒き散らされたもの」と
     いう意味で、元の国家や民族の居住地を離れて
     暮らす国民や民族の集団ないしコミュニティ、
     または、その様に離散することを指す。
  離散した先に土着した人々は、ロシアや東欧にも残っ
 た。
  そして、アメリカへも200万人以上のユダヤ人の方々が
 流入した。
  ニューヨーク州オールバニー市、シラキュース市、
 バッファロー市、ロチェスター市、
  そして、シカゴ(イリノイ州)、デトロイト(ミシガ
 ン州)、クリーヴランドオハイオ州)、ミルウォーキ
 ー(ウィスコンシン州)に多く定着した。
  ニューヨークに一番大きなユダヤ人共同体が生まれた。
  これに先立って・・先行してディアスポラしていたユ
 ダヤ人の方々の共同体は、新参者のディアスポラの無謀
 な人数を危惧する様になった。
  それは、貧困層が多かったためだった。
  ここに、「新たな反ユダヤ運動」が芽を出した。
  南北戦争終戦後には、すでに、アメリカでは、アンチ・
 セミティズムの兆候が現れ始めている。
  アメリカでは、1876年、ニュージャージーにあるホテ
 ルが「ユダヤ人お断り」の広告を新聞で流したりした。
  (参考)アンチ・セミティズム:字義は反セム人主義
     で、一般には、反ユダヤ主義の意味で用いる。
      特に、19世紀末以降、ドイツ、フランスなど
     の諸国に起こった。
      中世以来の伝統的なユダヤ教徒差別とは性格
     を異にする近代反ユダヤ主義
1891年4月25日、山陽鉄道会社線の岡山〜倉敷間(16km)が開
 業した。
1891年4月27日、ロシア皇太子のニコライ2世が来日。
  ニコライ2世は、シベリア鉄道建設委員長としてウラ
 ジオストクでの起工式に赴く途中のこの日、来日した。
  来日してのニコライは、お忍びで、長崎の町を探索し
 た。
  ニコライは、長崎の印象について、日記の中で・・、
  「長崎の家屋と街路は素晴らしく気持ちのいい印象を
 与えてくれる。
  掃除が行き届いており、小ざっぱりとしていて彼らの
 家の中に入るのは楽しい。
  日本人は、男も女も親切で愛想がよく、中国人とは正
 反対だ」・・という、感想を書いている。
  ニコライは、この長崎滞在中に、右腕に竜の入れ墨を
 入れた。
  ロシアのアレクサンドル3世の長子ニコライ2世は、
 軍艦で、東方諸国旅行の最終訪問地として来日・・、
  ニコラス2世の甥・ギリシャのジョージ親王とともに、
 長崎に到着した。
  そして、午前9時頃、ロシア軍艦アゾーワ号が、ナヒモ
 フとモノマフ両艦を従えて、伊王島沖合まで出迎えた日本
 の軍艦・高尾の先導で入港した。
  そして、長崎港内に停泊中の八重山、武蔵の2艦が、
 歓迎の礼砲を撃った。
  そして、ロシアの3艦が、答礼の砲門を撃った。
  皇太子の公式上陸は5月3日・・、
  それまでは、一切がおしのびだった。
  稲佐のお栄が、県当局の依頼で皇太子をもてなした。
  4月28日と4月29日に、ジョージ親王を誘った軽装の皇
 太子は、侍従1人をつれ人力車にゆられた。
  4月28日には、大浦8番館、今魚町の江崎べっ甲店、麹
 屋町の池島骨董店、出島町の香蘭社支店、本籠町の白山
 写真店、大波止や東浜町の勧工場に立ち寄り買い物をし
 た。
  東浜町では、居合わせた12才の少女にカンザシを買い、
 プレゼントした。
  そして、そののち、本籠町の本田漆器店、新大工町の
 上野彦馬写真屋にも寄る。
  買い物は、女性的な嗜好で、愛する妻へのプレゼント?
  4月30日、稲佐悟真寺内のロシア人墓地を訪れた。
  墓地では、迎える人もなく、入口は鍵がかかっていた
 が、垣根をとび越えた。
  丸山芸者と遊び、両腕に龍の刺青を刻印させた。
  5月3日、公式上陸となった。
  大波止から知事官邸までの沿道には、官公庁の代表や
 一般市民、学校生徒が整列した。
  知事官邸で昼食会、交親館で長崎の美術工芸品を観賞
 した。
  その足で、長崎公園丸馬場での市民歓迎会に出席した。
  5月3日の夜は、ロシア士官が部屋借りをする稲佐の福
 田米造家で酒宴を開き、大歓迎された。
  ジョージ親王や士官8人と丸山の芸妓5人を呼んだ。
  おまつとともに、稲佐のお栄は、ロシア語で挨拶をし、
 ジョージ親王とダンスを踊った。
  そして、おまつの店で飲み明かして、帰艦したのは5月
 4日午前4時だった。
  5月5日、長崎を出港した。
  のちに、鹿児島、神戸に入港し、列車で京都へ行く。
  5月11日、琵琶湖見物を終えて、京都の宿舎に帰る途中、
 滋賀県の大津で、警備の巡査・津田三蔵に切りつけられ
 負傷するという大津事件が起きた。
  5月11日の夜、知事あてに政府電報が届いた。
  「国家のため慨嘆に耐えず、朝野とも痛心す、ついて
 は貴地各新聞発行人を呼出し、この電報を示し、
  本件は、実に驚惨の所為なるむねを記載、深く慨嘆の
 意を表すようご注意ありたし」
  5月13日、ロシアの報復をおそれた日本は、明治天皇
 下が、御自ら見舞い、ロシア艦内にもおもむいた。
  後に、松方正義首相は、司法部に極刑を申し入れた。
  外相の青木周蔵は、駐日ロシア当局に死刑にすること
 を明言した。
  しかし、大審院長の児島惟謙は、刑法では、謀殺未遂
 罪に死刑の適用はできないとして、被告に無期懲役を宣
 告した。
  児島惟謙は、毅然と政府の干渉を排除し、法規に従い
 司法権の独立を守った。
  海外にも大きく報じられ、国際的に日本の司法権に対
 する信頼を高めた。
1891年4月29日、日本で、初めて飛行機が飛んだ。
  アメリカのライト兄弟が初フライトしたのが、1903年
 12月17日だったので、そのライト兄弟の初飛行より何と
 12年7か月以上も早く、日本人によって飛行機が空を飛ん
 だ(固定翼による飛行原理の発見)
  二宮忠八・初飛行に成功
  ライト兄弟より早く、日本人が空を制したのだった。
  丸亀歩兵第12連隊に所属していた二宮忠八は、この陸
 軍従軍中の1889年に、「飛行器」を考案した。
  そして、この翌年・1890年には、ゴム動力による「模
 型飛行器」を製作した。
  軍用として「飛行器」の実用化へ繋げる申請を軍へ二
 度行なうも理解されなかった。
  以後、独自に人間が乗れる実機の開発を目指した。
  しかし、完成には至らなかった。
  そして、推進力は「ゴムひも」とし(陸軍病院勤務で
 あった忠八は聴診器のゴム管を流用した)、それで駆動
 される推進式の四枚羽プロペラ機を作った。
  1891年4月29日、3mの自力滑走の後、離陸して10mを飛
 行させた。
  日本初のプロペラ飛行実験を成功させた(世界初の動
 力飛行実験の成功と言える)
  翌日の4月30日には、手投げ発進の後、約36mを飛行さ
 せた。
  「飛行器」は、忠八本人の命名だった。
  そして、忠八の死から18年後の1954年、英国王立航空
 協会は、自国の展示場へ忠八の「玉虫型飛行器」の模型
 を展示し、
  二宮忠八を、「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を
 発見した人」と紹介した。
  その後、軍部は、忠八の研究を評価した。
  そして、1922年、忠八を表彰した。
  また、二宮忠八は、その後も数々の表彰を受け、
  1925年9月、安達謙蔵逓信大臣から銀瓶1対を授与され、
  1926年5月、帝国飛行協会総裁・久邇宮邦彦王から有功
 章を受章した。
  そして、1927年、勲六等に叙せられた。
  そして、1937年(昭和12年度)から国定教科書に掲載
 された。
  そして、すでに陸軍を退役していた長岡外史は、直接、
 忠八のもとを訪れ、謝罪したのだった。
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  (今日の言葉)
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  題:何の痕跡も残さず・・すべてのすべてが・・蒸発した
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17世紀中頃、捕鯨
  アメリカは、17世紀中頃、マッコウクジラから良質の
 鯨油が採れることがわかり、北米大陸東岸で、セミクジ
 ラと並び、これを捕獲対象とした捕鯨が開始された。
  そして、18世紀には、大型の帆走捕鯨船を本船とした
 アメリカ式捕鯨へと移行し、大量のクジラを捕獲した。
  アメリカは、クジラの肉は捨てるという可哀想なクジ
 ラの利用の仕方だった(クジラのほとんどを捨てた)
  アメリカは、大西洋のクジラを取り切って、太平洋の
 クジラを求めて、取り始めた。
  太平洋全域のクジラをあさる様に獲った。
  1820年代には、日本周辺のクジラも獲り始めた。
  特に、日本周辺は鯨資源が豊富で、さらに大型化した
 捕鯨船団であさる様に獲った。
  大型のカッター船で追い込んで獲るという方法をした。
  19世紀には、最盛期で、イギリスまで盛んに獲った。
  捕獲数はべらぼうに大量であった。
  アフリカから黒人の方々を奴隷にして漁をさせた。
  捕鯨船団の母港となったナンタケットやニュー・ベッ
 ドフォードの町は大いに栄えた。
  このあさる様なアメリカの大量捕獲は、日本の古式の
 捕鯨を衰退させた。
  しかし、この様なアメリカが、現代になってオースト
 ラリアと一緒になって手のひらを返したようなことをや
 り出す・・卑怯な事である・・
  世界各国が、大船団を組み、盛んに捕鯨を行なったの
 にである・・、
  その後、牛の放牧を盛んに行っているアメリカやオー
 ストラリアは、自国の牛肉を日本に買ってもらいたいた
 め、日本の捕鯨に反対を始めた(自分の御都合である)
  また、世界の世論を喚起するため、「キリスト教では、
 クジラは知恵ある動物で、ステージが高い動物だ」とい
 う論理を展開した。
  特に、オーストラリアのグリーンピースという団体は、
 寄付を募って、船団を作って、日本が調査捕鯨を行なっ
 ている船に体当たりするなど、違法行為をしたりした。
  また、日本の古来からクジラ漁をしている方々の所ま
 で出掛けて行って、節操もない嫌がらせを行なった。
  欧米がクジラ漁から撤退したのは、キリスト教の事な
 んかは関係なく、採算が合わなくなったという理由であ
 って、採算さえ合えばクジラ漁をするという輩たちだっ
 た。
  日本は、クジラをとことん有効に生かして使うが、欧
 米のクジラ利用度は低く(鯨油だけを灯油として使うだけ)、
 クジラが可哀想な利用の仕方だった。
  油だけを取ったら捨てるという状況だった。
  まったく可哀想な利用の仕方だった。
  1972年に、アメリカが、国際会議で商業捕鯨の禁止を
 提案した。
  このアメリカの下心も、アメリカ牛肉を日本に買って
 貰いたいだった。
  自分の御都合で「クジラを救え」のキャンペーンまで
 始めた。
  自分は、さんざん捕鯨をやって来たのにである。
  1982年に、商業捕鯨の一時停止が決まってしまった。
  日本のようなクジラを徹底的に生かして利用する国は
 少数で、多数決で決定されてしまった(多数の論理の横
 暴だった)
  1990年までにデータを集めて捕獲できる枠を決めよう
 という約束が果たされず、日本は操業したいのだが、一
 時停止の状態が続いている。
  「アン・フェア」なアメリカなどなのである。
  また、クジラは確実に増えている。
  クジラを食べない国々が、クジラの食文化が古くから
 ある日本、昔からある日本の「食文化」を、多数で奪っ
 ているのである。
  日本の貴重な水産資源のクジラを取り上げるという暴
 力行為となっている。
  1年に10%も、確実に増えているというのに、クジラが
 食べられない状態に置かれている。
  アメリカやオーストラリアが主張する「クジラは特別
 な生き物なのだ」という論理は筋が通らない。
  「その論理が、正論だ」として展開するのなら、「イ
 ンドの方々は、牛を特別な生き物」としている。
  インドの方々の心情を理解して差し上げるのなら、ア
 メリカやオーストラリアの論理どおりなら、牛は食べら
 れなくなる。
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1843年、2月12日、新島襄が生まれる。
  まだ文明のすべてが未明の明治の頃に、キリスト教
 何たるかを知らない環境の中で・・、
  ・・というより、キリスト教国でさえ・・キリスト教
 学も未発達な頃の・・昔に・・
  そのキリスト教の本質の分析が不十分で・・、
  且つ、欧米から遠い・・極東の日本で・・
  『キリスト教の本質を見る術(すべ)は、当然、無か
 った』。
  ただ単に、優れた西洋の文明の利器を見て、感嘆し、
 ならば、キリスト教も、西洋のものだと、優れたものな
 のだろうと・・思い込み・・、
  かぶれた人たち、そのキリスト教にかぶれた人々は・・、
  さぞ素晴らしいだろうと夢に描いたキリスト教の国=
 アメリカに渡った・・
  しかし、見たものは・・、日本より劣った人種差別の
 国、酷(ひど)い人種差別状況だった。
  「日本で、話されたことと、大分、違うではないか」
 と、口にさえ出した・・その様な状況だった。
  その見聞した事は、自身に対してもおこった様々な卑
 劣な行為・・自身も受けた人種差別に辟易(へきえき)
 とする。
  この夢のアメリカ・・キリスト教国だからと抱いた夢
 は、完全に破れた。
  そして、後に、日本は、国としても差別を受けて行く、
 卑劣な事に、次々と・・日本への差別法案が作られた。
  そして、キリスト教は、この様な内村鑑三や、新島襄
 の記述や想いを、ひた隠して、美化ばかりする。
  キリスト教に偏するNHKは、美しくドラマ化して放
 送する。
  新島襄は、1843年(天保14年)2月12日に生まれた。
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1899年、金線サイダーの製造が始まった。
  横浜の秋元巳之助が(金線サイダー)を発売した。
  1904年、これを王冠栓のガラスびん入りにしてからは、
 ほぼ同じ成分の炭酸飲料を玉入りガラスびんに詰めたも
 のをラムネ、王冠栓を用いたものをサイダーと通称する
 ようになった。
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1945年8月6日午前8時15分、アメリカが、広島に原爆を投下
 した。
  キリスト教アメリカが、その宗教から判断した結果
 からの行動だった。
  広島の原爆、長崎の原爆、それは、すべてを無にした。
  そこに生活していた方たちは蒸発した。
  それだけではなく、それまで育まれてきた生活のすべ
 てが蒸発した。
  それだけではなく、そこまで刻まれてきた歴史のすべ
 ても蒸発した。
  何もかもが、蒸発し無くなった。
  跡形もなく・・無くなった。
  何もない、蒸発した地には、そこに路地があったのだ
 ろうと思わせたぐらいしか生活を感じさせなかった・・、
  そこに、生活する声があったのだろうとわずかに思わ
 せた。
  その路地にも・・そして、そこの路地にも・・そして、
 そっちの路地にも・・
  路地の一本、一本に、子供の世話を焼くお母さんが居
 て、町で働いていたお父さんが居た。
  そのすべてが蒸発して・・跡形もなくなった。
  台所に母の指輪だけが残っていた・・と言った方が居
 られた。
  (探しに行ったら、母の金属の指輪だけが残っていた
 ・・と)。
  完全に、何もかもが無くなった空間だけが・・残され
 た。
  そこにあった、生まれた歴史も、すべて同時に無くな
 った。
  そこにあった、これから未来を指し示すだろう指針の
 痕跡も無くなった・・そして、夢も希望も・・
  未来の希望も無くなった・・未来の夢も無くなされた。
  すべてこの様に破壊するキリスト教のシャロームの教
 義からこの行為はなされた。
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1969年1月18日、東大安田講堂事件が起きた(〜19日)
  学生の自発的組織である全学共闘会議全共闘)、お
 よび、新左翼の学生が、東京大学本郷キャンパス安田講
 堂を占拠した事件と、
  大学から依頼を受けた警視庁が、1969年1月18日〜1月
 19日に封鎖解除を行った事件・・、
  東大安田講堂攻防戦とも言い、東大の安田講堂に立て
 こもっていた学生たちは、機動隊と2日間にわたる攻防戦
 を繰り広げ、多数の逮捕者が出た。
  医学部の学生ストライキがきっかけだった。
  この年、東大の入試は中止された。
  この事件の背景に暗澹たる殺戮の・・1960年代後半の、
 アメリカが行なっていたベトナム戦争が存在し、悲惨な
 殺戮を世界に見せる、激化の一途をたどっていた。
  また、1970年で期限が切れる日米安全保障条約の自動
 延長をするのか?否か?で・・その阻止・廃棄を目指す
 動きが左派陣営で起きていた。
  これに伴って、学生によって、ベトナム反戦運動・第
 二次反安保闘争が活発化していた。
  学生たちの平和への希求・・追求行動でもあった・・
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2002年10月15日、北朝鮮によって拉致された被害者の5人が
 帰国した。
  日本政府は、5人の家族の帰国も要求する方針をとった。
  北朝鮮側は、「日本政府に対し約束違反だ」と主張し
 た。
  (独立国・日本の国民を拉致していて何を言うか??)
  この様な北朝鮮政府の抗議により、その後の交渉は、
 北朝鮮政府が日程を決めないなどした為に中断された。
  なのに?? この時、北朝鮮の代弁者の如くの発言を
 する日本の国会議員が多く日本に居た。
  旧社会党やその流れをくむ議員たちだった。
  その1例が、元NHK職員で民進党の畑恵参議院議員で、
 畑恵議員は、救う会の活動を「暴徒と化している集団」
 と呼んでいた。
  また、社民党党首・土井たか子は、「食糧援助と拉致
 疑惑は切り離せ」と主張した・・、
  民主党鳩山由紀夫も、同じ様な演説をしていた。
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2003年、イラク戦争が・・、
  この年に、イラク戦争が起きたが、今になって言える
 事は、世界第2位の原油確認埋蔵量を誇っていたイラク
 石油利権が欲しいという戦争だった。
  最初、アメリカのブッシュ〈子)大統領は、サダム・
 フセインが、原爆などの大量破壊兵器を持っているとか、
 作っているとかと言っていたが・・、
  結局、そんなものは影も形もなく、
  しかし、アメリカは、フセインの命は取ってしまうと
 いう・・国際法も、法律も、あったもんじゃないという
 状態で、
  アメリカが好き勝手をやって、イラクに、シーア派
 政権を樹立させ、中東を不安定化させ、
  そして、シーア派の政権から追い出されたスンニ派
 旧政権の勢力が、ISを組織し・・、
  イラクの隣国で暴れ回るという・・こんな理に合わな
 い、破廉恥な事が起きる状態に、アメリカはした。
  「現代の十字軍だ」と叫んだ「がちがちのキリスト教
 徒のブッシュ(子)大統領」はネオコンで・・、
  ブッシュ政権には、ネオコンの者たちがうようよと居
 た・・
  「ディック・チェイニー副大統領」「ドナルド・ラム
 ズフェルト国防長官」「ポール・ウォルフォウィッツ国
 防副長官」「ダグラス・ファイス国防次官」などなど・・
 政権中枢はネオコンだらけだった。
  ネオコンの影響下のアメリカは、これまで、ブッシュ
 (父)大統領も、湾岸戦争をしている。
  また、ヒラリー・クリンドンが「アラブの春」と称す
 る事態引き起こして、中東を混乱に貶(おとし)めてい
 た。
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2011年、アメリカのグリーンスパン連邦準備制度理事会
 議長と、バーナンキ議長は・・、
  「アメリカは、財政事情の悪化と、貯蓄不足が引き起
 こす資本不足のため・・、
  今後のアメリカ経済の利子率は、恒常的に高止まりし、
 長期的な経済停滞を引き起こす」と言った。
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2017年6月6日、アメリカ国防総省は、日本海に展開してい
 た海軍の原子力空母2隻について、合同の 軍事演習が終
 了したとして日本海から去った。
  アメリカ海軍当局者は6日、北朝鮮をけん制するため
 日本海に展開していた原子力空母カール・ビンソンとロ
 ナルド・レーガンの2隻が、3日間の共同訓練を終えて、
 日本海を離れたと明らかにした。
  ロナルド・レーガンは、沖縄東方の海域で、海上自衛
 隊と訓練を続け、カール・ビンソンはアメリカへ帰還す
 る。
  北朝鮮に「最大限の圧力をかける」とするトランプ米
 政権が方針を転換したわけではないと見られているが・・
 日韓と共に警戒態勢は続けるのだろう・・?・・
  トランプ米政権は、日本海に空母2隻を派遣し、海上
 自衛隊と共同訓練を実施したのは・・異例ではあった。
  弾道ミサイルの発射を繰り返す北朝鮮に圧力をかける
 のだ・・としていた。(共同を参考にした)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive