(増補版)587E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年10月〜1893年10月)

題:(増補版)587E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年10月〜1893年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1893年10月26日、第13代東京府知事三浦安(みうらやす
 し)がなった。
1893年10月26日、『二六新報』が創刊された。(社主:秋
 山定輔)
  二六新報は日刊新聞。
  記事が硬くて、売行きは不振だった。
  そのため、1895年6月に休刊し、
  1900年2月1日、復刊した。
  復刊後は、三井財閥への暴露攻撃、たばこ王・岩谷天
 狗退治、吉原の娼妓の自由廃業キャンペーンなどで世間
 の注目を集め、日露戦争直前には日本一の発行部数を誇
 った。
1893年10月28日、ラベンナ号事件(千島艦事件)の控訴審
 で、上海イギリス高等裁判所は、日本側の敗訴の判決を
 した。
  日本は、イギリス上院に上訴した。
  この事件は、1892年11月30日に起きた事件で、ラベン
 ナ号はイギリス商船。
  日本の立場が牛耳られている時代に、イギリス法廷で
 堂々と争う日本は立派だったが・・その様な日本が、相
 手の土俵で争うのは、まったくその結果は分かったもの
 だった。
  そして、その後にも、イギリス本国の枢密院へも上告
 を決め、とことん争う日本だった。
  1895年7月3日に、枢密院は、上海の判決を破棄して横
 浜領事館への差し戻しを命じるとともに、P&O(ラベンナ
 号の所有会社のピーオー汽船会社)に、日本側の訴訟費
 用約12万円の負担を命じた。
  その後、イギリス外務省の意向を受けた領事館によっ
 て和解が図られ・・、
  1895年9月19日に、日本政府とP&Oの間で和解が成立、
 P&Oは1万ポンド(日本円で90,995円25銭)の和解金と、
 日本側の訴訟費用全額を負担する代わりに日本政府は一
 切の請求権を放棄した・・で決着した。
1893年10月28日、チャイコフスキー交響曲第6番の初演。
  この交響曲は『悲愴』という副題で良く知られている。
  https://www.youtube.com/watch?v=wHAfvUFtCIY
  残されている資料によれば、1893年2月17日(第3楽章)
 に作曲に着手した。
  作業は急ピッチで進められ、それから半年後の8月25日
 にはオーケレストレーションまで完成し、
  同年・1893年10月16日(グレゴリオ暦では10月28日)
 に作曲者自身の指揮によりサンクトペテルブルクで初演
 された。
  あまりに独創的な終楽章もあってか、初演では当惑す
 る聴衆もいたものの、この曲へのチャイコフスキーの自
 信が揺らぐことはなかった。
  しかし、初演のわずか9日後、チャイコフスキーは、コ
 レラ、及び、肺水腫が原因で急死した。
  この曲は、彼の最後の大作となった。
1893年10月30日 筑豊興業鉄道会社が、飯塚駅原田駅、ま
 たは、鳥栖駅間、および、山家駅吉井町駅間線路の建
 設を出願した。
  (飯塚、原田または鳥栖間については、1894年7月31日
 仮免状下付された、また、
  1896年1月、飯塚駅〜長尾駅間等の免許を申請し、1897
 年5月、飯塚駅〜長尾駅間の仮免状が下付された)
1893年10月31日、文官任用令、文官試験規則が公布された。
  試験任用制度が確立した。
  奏任官については、原則として高等文官試験に合格し
 た者としたが、勅任官については,自由任用制をとって
 いた。
  奏任官:そうにんかん、奏任によって任命された三等
     以下九等までの高等官の称。
  奏任:奏上を経て、官職に任命すること。
  奏上:そうじょう、天皇陛下に申し上げること。
  勅任官:ちょくにんかん、もとの官吏任命法で勅任に
     よる官。
     一等・二等の高等官。広義では親任官も含む。
  勅任:勅命で官職に任命すること。
  勅命:ちょくめい、天皇陛下の御命令。
1893年10月31日、逓信省官制の公布(勅令第149号)
  鉄道庁を廃止して鉄道局を設置した(勅令第151号、11
 月10日施行)
  逓信省(ていしんしょう)は、交通・通信行政の中央官
 庁で、後、電気・航空行政をも管掌した。
  1885年、内閣制度実施とともに、工部省の電信、灯台
   農商務省の駅逓、管船の各局管掌事務を引き継いで
   設置された。
  1890年、以降、電話事業、
  1893年、以降、官設・私設鉄道事業を管轄、陸上交通を
   含む広範な行政官庁となった。
   この間、特に、郵便・電信業務の近代化をはかり、日
   露戦争前後の時期にはほぼこれを完成した。
  1908年12月5日、鉄道監督行政は、新設の鉄道院(内閣
   直属)に移り、
  1923年、航空局を陸軍省から引き継ぎ、民間航空事業
   の監督、育成を担当した。
1893年10月31日、技術官俸給令を一部改正した(勅令第168
 号)
1893年10月31日、文官任用令(勅令第183号)・文官試験規則
 (勅令第197号)を公布した。
  文官高等試験合格者を奏仕官として採用した。
1893年10月31日、逓信省鉄道書記補郵便電信書記補及郵便
 為替貯金書記補任用令(勅令第195号)公布
1893年10月、文官任用令・文官試験規則を公布した(高等文
 官試験確立)
1893年10月、夏目漱石が、湯島聖堂内にあった東京高等師
 範学校(校長:嘉納治五郎筑波大学の前身)の英語嘱
 託教師に就任した。
  夏目漱石(なつめそうせき、1867年2月9日〜1916年12
 月9日)小説家、評論家、英文学者、
  江戸の牛込馬場下横町(東京都新宿区喜久井町)に、夏
 目小兵衛直克と千枝の末子として生まれた。
  生後すぐ里子に出され・・また、養子にも出された。
  不遇のうちに幼時を送り、作品にもその影を残す。
  1877年の10歳(9歳?)のころ、養父母の離婚のため、
 生家に戻ったが、こころ落ち付く、やすらかな帰属感を
 抱くことは出来なかった・・父母は必ずしも温かく迎え
 なかった。
  肉親の愛に恵まれなかった漱石・・この孤独な幼年期
 の記憶は・・漱石のこころの奥に秘められ残った・・
  肉親の中にさえある他者と見られる非情な人間を見た
 漱石だった・・
  少年時は、浅草界隈で送り、江戸の町人文化に親しん
 で育ち、漢詩文に親しみ、、
  漢学好きな少年は二松学舎(にしょうがくしゃ)など
 に学んだ・・
  また、成立学舎を経て大学予備門(東京大学教養学部
 に進むころから、英文学研究を生涯の仕事として選ぶ・・
  また、この大学予備門で正岡子規を知って俳句を学ぶ。
  1893年、東大英文科卒、一時大学院に籍を置く・・後・・
  1895年〜1896年、愛媛県の松山中学に赴任(この体験
 は、面白おかしく『坊ちゃん(1906年)』の活発な筆致
 作品となる)、
  そして、1896年〜1900年、第五高等学校で英語教師を
 務め・・
  1900年秋、渡英・英語研究の文部省留学生として英国
 留学を命じられた・・英文学者としての道が大きく開い
 て行く・・
  1903年1月、帰国
  そして、1903年4月、東京帝大英文科初の日本人講師と
 なり、英文学を教え、また、「文学論」「十八世紀英文
 学論」「シェイクスピア」などを講じた。
  (前任者の小泉八雲を押しのける形だった・・また・・
  この頃から、正岡子規と親しくなり俳句をよくする)
  高浜虚子の勧めで写生文を手がけ、『吾輩は猫である
 を手始めに多彩な創作活動を展開した。
  1905年1月、「吾輩は猫である」を、雑誌「ホトトギス
 に発表して、その軽妙洒脱さが評判となる。
  以後、「倫敦塔」「幻影の盾」「草枕」など溢れんば
 かりの文才を示し・・社会や人間の不正を糾弾する作品
 も書いた・・
  また、「坊っちゃん」も書く。
  その後、1907年、職業作家の志が芽生え・・教職を辞
 し、朝日新聞に入社(専属作家として迎えられ)し・・
  自然主義に対立し、心理的手法で近代人の孤独やエゴ
 イズムを追求した・・、
  この年・1907年に「虞美人草(ぐびじんそう)」
  1908年、「夢十夜」「三四郎」で文壇にゆるぎない地
 位を確立した。
  また、朝日新聞の文芸欄を主宰した漱石は、「現代日
 本の開化」「私の個人主義」などの講演を行なった。
  欧米では漱石の心理小説が注目され、その翻訳に恵ま
 れた。
  「それから(1909年)」「門(1910年)」「彼岸過迄」・・
  1910年、修善寺にあって大患を患った・・これ以後、
 死の危機を自覚した漱石は、生への認識が一層深まり、
 「行人(こうじん、1912年〜1913年)」「こころ」「明
 暗」「道草」など、晩作での対策で、さらなる孤独さの
 内面に分け入った。
  自意識の不安と苦悩を著わした。
  晩年は、「則天去私」の境地を求めた
  (参考)則天去私:そくてんきょし、『天に則(のっと)
     り私を去るの意』
      夏目漱石が、晩年に、文学・人生の理想とし
     た境地。
      自我の超克を自然の道理に従って生きること
     に求めようとしたもの(漱石自身の造語)
  正岡子規と交わり、俳句や漢詩に親しんだが・・
  俳句は、約三千句をなし、また、晩年は、気品のある
 文人画も描いた。
  作品の追求した問題は広く深く、日本の巨匠として世
 界に広く紹介されている。
  また、漢詩をよくして、「永日小品」「硝子戸の中
 などのなつかしい随筆も残している。
  また、師弟関係に恵まれ・・小宮豊隆森田草平、寺
 田寅彦、鈴木三重吉安倍能成高浜虚子などの漱石
 人脈の山脈が聳えている。
  教師であった漱石は、鈴木三重吉芥川龍之介、久米
 正雄らの多くの俊英も育てる教師でもあった。
  漱石が残した知友門弟に書いた手紙や葉書も貴重なも
 のとなっている。
  また、妻:夏目鏡子の『漱石の思ひ出』が味わい深い。
  またまた、江藤淳の『漱石とその時代』、同編『朝日
 小事典 夏目漱石』、三好行雄ほか編『講座夏目漱石』全
 5巻、尹相仁『世紀末と漱石』ほか、おびただしい研究書
 のある人物・・それが夏目漱石
  1916年に歿した・・50歳だった・・少し早い幕引きだ
 った。
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  (今日の言葉)
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  題:この地球・・人類が生存できないような状況は「何度も起きている」・・
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2億5000万年前、爬虫類から双弓類を経て進化した恐竜が
 出現した。
  (参考)双弓類(そうきゅうるい)は、四肢動物のグ
     ループの一つで、頭蓋骨の両側に側頭窓と呼ば
     れる穴を、それぞれ2つ持っている。
      この穴が出来た事でその下部の骨が細いアー
     チ状になっているが、これを解剖学では「弓」
     と呼び、このため学名は「二つの弓 = 双弓類」
     と名付けられた。
  中生代三畳紀ジュラ紀白亜紀を通して恐竜が繁
 栄した。
  恐竜は、気嚢(きのう、呼吸器官)を持ち、低酸素環
 境に対応できた。
  哺乳類の祖先の横隔膜をもつ単弓類は低酸素環境に対
 応できずに衰退した。
  (参考)単弓類(たんきゅうるい)は、脊椎動物のう
     ち、陸上に上がった四肢動物のグループの一つ。
      哺乳類、及び、古くは哺乳類型爬虫類とも呼
     ばれたその祖となる生物の総称。
      共通する特徴としては、頭蓋骨の左右、眼窩
     後方に「側頭窓」と呼ばれる穴がそれぞれ1つず
     つあって、その下側の骨が細いアーチ状となっ
     ていて、この骨のアーチの「弓」が、このグル
     ープでは片側に一つ持っているために単弓類と
     呼ばれた。
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2億2500万年前、最古の哺乳類のアデロバシレウスが出現し
 た。
  魚類、両生類、爬虫類、鳥類には、4タイプの錐体細胞
 を持つもの(4色型色覚)が多く・・、
  一方、ほとんどの哺乳類は、錐体細胞を2タイプしか持
 たない(2色型色覚)
  哺乳類の祖先は、4タイプ全ての錐体細胞を持っていた
 が、初期の哺乳類は、主に夜行性であったため、色覚は
 生存に必須ではなかったために退化した。
.
2億2000万年前、生物が大量絶滅した(三畳紀末)
.
2億2000万年前、マニコーガン・クレーターの形成。
  カナダにある北アメリカ最大のクレーター(直径約100
 km)。
.
2億年前、酸素濃度が12%まで低下した。
  二酸化炭素濃度は、現代の数倍から10倍程度に増加し、
 この前後は、温暖な気候が続いた。
  これ以降、徐々に、酸素濃度が上昇し、二酸化炭素
 度が減少した。
.
2億年前、パンゲア大陸の分裂がはじまった。
.
1億8000万年前、北はローラシア大陸、南はゴンドワナ大陸
 へと分裂し・・、
  ゴンドワナ大陸は、その後、西ゴンドワナ大陸と東ゴ
 ンドワナ大陸へと分裂した。
.
1億5000万年前、始祖鳥(鳥類が出現した)
.
1億4000万年前、白亜紀に入ると、西ゴンドワナ大陸は、ア
 フリカ大陸と南アメリカ大陸に分裂し、
  その間に、大西洋が成立した。
  また、東ゴンドワナ大陸は、インド亜大陸、及び、マ
 ダガスカル島と、南極大陸、及び、オーストラリア大陸
 に分裂した。
  この分裂が、オーストラリア大陸でのその後の単孔類
 の生き残りや有袋類の独自進化につながる。
  (参考)単孔類:たんこうるい、哺乳綱単孔目に属す
     る動物の総称で、哺乳類であるにもかかわらず
     卵生で、消化管、排尿管、輸卵 (精) 管が同時
     に開口する総排泄孔を持つ。
.
1億年前、恐竜の全盛時代
.
6550万年前、生物が大量絶滅した(白亜紀末)
  この頃、恐竜が絶滅し、アンモナイトも絶滅した。
  隕石の落下による環境の激変を原因とする説が有力と
 考えられている。
  → K-T境界、チクシュルーブ・クレーター
.
6千数百万年前、インド半島の大部分を占めるデカン高原は、
 膨大なマグマが噴出して形成された。
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約6550万年前、霊長類が出現した。
.
約5500万年前、この頃に現れたアダピス類が、初期の霊長
 類と考えられている。
  これより前の約7000万年前に、北米に出現したプレシ
 アダピス類のプルガトリウスを最古とする考え方もある。
  霊長目で、ビタミンC合成能力が失われたのは、約6300
 万年前であり、直鼻猿亜目(合成能力なし)と曲鼻猿亜
 目(合成能力あり)の分岐が起こったのと、ほぼ同時で
 ある。
  ビタミンC合成能力を失った直鼻猿亜目には、メガネザ
 ル下目や真猿下目(サル、類人猿、ヒト)を含んでいる。
  ビタミンC合成能力を有する曲鼻猿亜目には、マダガス
 カルに生息するキツネザルなどが含まれる。
.
5500万年前、暁新世・始新世境界で、突発的温暖化事件が
 発生し、新生代では、最も高温の時代になった。
  (始新世温暖化極大・始新世高温期)
  その原因として、1500Gtのメタンハイドレートの融解
 などの温暖化ガスの大量放出があり、地表5℃〜7℃の気
 温上昇の温暖化が起こった。
.
4500万年前、インド亜大陸が北上を続け、ユーラシア大陸
 に衝突し、ヒマラヤ山脈を形成した。
.
約4000万年前、南極大陸で、氷河の形成がはじまり、徐々
 に寒冷化した。
  これ以前は、非常に温暖な時期だった。
  → 古第三紀、海水準変動
.
4000万年前〜3000万年前、真猿下目の狭鼻下目(旧世界ザ
 ル)と広鼻下目(新世界ザル)が分岐した。
  一説では、当時のアフリカ大陸で大きな洪水が起こり、
 倒れて流された大木に乗った真猿下目のサルが、当時、
 それ程広がっていなかった大西洋を越えて、南アメリカ
 にたどり着いて、広鼻下目の祖先となった。
.
3000万年前、2色型色覚(赤緑色盲)に退化した哺乳類のう
 ち、霊長目狭鼻下目が、3色型色覚を再獲得した。
  ビタミンCを豊富に含む色鮮やかな果実等の獲得と生存
 に有利だった。
.
2800万年前〜2400万年前、狭鼻下目のヒト上科(テナガザ
 ル、オランウータン、チンパンジー、ゴリラ、ヒトの共
 通祖先)が、オナガザル上科から分岐し・・、
  同時に、ヒト上科で、尿酸を分解する尿酸オキシダー
 ゼ活性が消失した。
  尿酸が、直鼻猿亜目で、合成能が失われたビタミンCの
 抗酸化物質としての部分的な代用となった。
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2500万年前、最古の類人猿と思われる化石・・?
  アフリカのケニヤで発見された。
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約2500万年前、アルプス・ヒマラヤ地帯などで山脈の形成
 がはじまった。
  テチス海が消滅し、造山運動により隆起。→ 新第三紀
 Geology of the Himalaya
.
2000万年前〜1600万年前、ヒト科とテナガザル科が分岐し
 た。
.
約2000万年前、現存する最古の湖が形成された。
  バイカル湖タンガニーカ湖古代湖
.
約1800万年前〜1700万年前、この頃のウマの化石が、岐阜
 県可児市で、1961年と1971年に発見された。
  「アンキテリウム属」の1種で、和名「ヒラマキウマ」
 という。
  日本最古とされていたが、アジアでも最古級であるこ
 とが分かった。
.
1600万年前頃、大和三山の内の畝傍山耳成山、また、二
 上山も、この頃、火山活動していた。
  「ステゴロフォドン」の頭骨化石の一部が、茨城県
 陸大宮市で、2011年12月に発見された。
.
約1500万年前、ヨーロッパに隕石が落下、クレーターを形
 成する。
  現在のドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州にある
 リース隕石孔、シュタインハイム・クレーター。
.
約1400万年前、ヒト科が、ヒト亜科とオランウータン亜科
 に分岐したと推定されている。
.
1300万年前、この頃からヨーロッパ、南アジア、東アジア
 などユーラシア各地にも類人猿の化石が現れた。
.
約1000万年前、ヒト亜科が、ヒト族とゴリラ族に分岐した
 と推定されている。
.
1000万年前〜500万年前、アフリカで大地溝帯(グレート・
 リフト・バレー)の形成が始まる。
  人類誕生に大きな影響を与えたとする説。
.
約700万年前、ヒト族は、ヒト亜族とチンパンジー亜族に
 分岐したと推定されている。
  猿人の出現。
  直立二足歩行が開始された。
.
700万年前〜600万年前、現在最古の人類化石は、中央アフ
 リカ発見のサヘラントロプス・チャデンシスとされてい
 る。
  2002年に報告される。
.
推定約600万年前〜400万年前、琵琶湖が形成された。
  琵琶湖は、世界に現存する湖の中では3番目に古い湖
 と考えられている。
.
370万年前〜100万年前、アウストラロピテクス(猿人)
  最初の人類とされる。
  一定の道具を使用した。
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約250万年前〜180万年前、この頃、石器の使用がはじまっ
 た。
  エレクトス原人が出現する(250万年前)。
  丹沢山地の大爆発(約250万年前)面積1万1750km2、降
 下火山灰のみの体積は2.8km3を超え、火山爆発指数VEIは
 5。
  オルドヴァイ文化、オルドワン石器
  (参考)オルドヴァイ文化:東アフリカのタンザニア
     北部にあり、リーキーらが調査したオルドバイ
     遺跡を標式とする世界最古の旧石器文化
      その担い手は、アウストラロピテクスで、こ
     の文化は東アフリカに始まり、中央アフリカ
     除くアフリカ全土、および、西アジアにひろが
     る。
      主体となる石器は、円礫、もしくは、角礫の
     一端を打ち欠いて刃をつけ、ものをたたき切っ
     たりつぶしたりするのに用いたチョッパーであ
     るが、その他、肉を切ったりものを削ったりす
     るスクレーパーをはじめ、数種類の石器があり、
     すでに用途によって形態が分化していた。
  (参考)円礫:えんれき、岩石の破片のうち、大きさ
     が2mm以上のものを礫といい、川原の玉石のよう
     な丸いものを円礫、砂利道の砂利のような角張
     ったものを角礫という。
.
約200万年前、フィリピン海プレートに乗って移動してきた
 伊豆半島が、北アメリカプレートに衝突し、富士山や箱
 根などの噴火の引き金になった。
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180万年前、グルジアのクラ川下流の下カルトリ地方ドゥマ
 ニスィ(ドマニシ)で発見された化石は、ユーラシア最
 古の原人として知られる。
  180万年前〜150万年前に、アフリカの地を脱してユー
 ラシア大陸の熱帯・温帯に拡散したらしい。
.
約78万年前、最新の地磁気の逆転。
  地球磁場は、10万年〜100万年ぐらいの不規則な周期で
 何度も逆転している。
  この頃の逆転が直近のものである(ブリュンヌ期、約
 78万年前〜現在)
  これより前の逆転は、約250万年前(松山期、約250万
 年前〜78万年前)
  なお、松山期には、数回の地磁気逆転イベントが存在
 する(約100万年前のハラミヨ亜期など)
   ・
   ・
   ・
紀元30年、イエスが刑死したと言われている年
  イエスの実在性は、ほとんどないが、イエスは、キリ
 スト教を作ったパウロに祭り上げられた。
  イエス本人には、まったくキリスト教を作ろうという
 意思は無かった。
  キリスト教は、ユダヤ教を引き継いでいるが、ユダヤ
 教は、最初、神が多くいる多神教だった。
  また、イエスの母・マリアは、ユダヤ教エルサレム
 神殿を参詣するユダヤ教徒だったが・・、
  そのマリアの子=イエスも、ユダヤ教を信仰していた。
  (因みに、イエスは、ユダヤ教を信仰する立場で死ん
 でいる。
  つまり、刑死するイエスは、ユダヤ教徒としての信仰
 の中に死んでいる)
  故に、イエスは、「ユダヤ教の神(主)」を信仰する
 ユダヤ教徒だった。
  だから、イエスには、少しもキリスト教を立宗しよう
 という意思はなかった。
  イエスの刑死後、キリスト教が立宗される動きは・・
 「まったく無かった」。
  その様な動きがまったく無い状態の中に、時は過ぎて
 行った。
  エルサレムの街や、その他の街でも、当然、普通の
 日々が流れていた。
  だから、イエスの死後、3日後の、イエスが復活した
 などという騒ぎなどは「まったく無かった」。
  ましてや、イエスが昇天したなどという騒ぎも「当然
 無かった」。
  ただただ、普通の日常が流れていた。
  キリスト教福音書が、イエスの死後、50年も経って
 から書かれたように・・、
  西暦70年〜90年頃に書かれた事からも分かる様に、イ
 エスは忘れ去られ・・何十年とキリスト教の話などは無
 く、少しも表われ出ない時が流れていた。
  最初の福音書は、マルコが書いたが・・この頃には、
 もう、イエスのことは、完全に、誰もがすっかり忘れら
 れていた。
  イエスに関係する者たちは、そのグループは、ユダヤ
 教から「破門の処分」を受けていた。
  その様な状態の中に、時は過ぎて行った、年月が流れ
 ていた。
  この様な状況の中で、キリスト教を作ったというパウ
 ロが居る。
  パウロは、サウロとも呼ばれ、紀元65年に死んでいる
 が・・、
  生前は、テント職人で、ユダヤ教ファリサイ派の人で
 あった・・、
  高名なユダヤ教のラビのガマリエル1世の下でユダヤ教
 を学んだ「熱心なユダヤ教徒だった」。
  パウロは、ユダヤ教の要職の人で、ユダヤ教以外の人々
 を、「上部組織の許可を得て捕まえる役目」をしていた。
  イエスのグループも逮捕対象だった。
  捕まえられた人が死刑になることもあるというパウロ
 の役目だった。
  ある日、逮捕の許可を得ようとして道を行くパウロ
 「ふと、嫌気がさした」のだろう。
  多分、何時(いつ)までこんなことをしているのだろ
 うかと自分の行動を顧(かえり)みて思ったのだろう。
  この時、パウロは転身(てんしん、方針を変える)す
 る。
  ここは、キリスト教の聖書には、美しく書かれている・・
 一転、空は掻(か)き曇り、天からイエスの声が聞こえ
 たと書かれている。
  大きな転換点なので、キリスト教もドラマティックに
 書きたかったのだろう。
  イエスの声で、何でお前は迫害するのかと言ったとい
 う・・パウロの行動を批判した。
  パウロは、この時、自分の行なっているユダヤ教以外
 のグループを許可を得て捕まえるという役のむなしさを
 感じていたのだろう。
  ここで、パウロは、180度の方針転換をする。
  この事が起きたのが紀元34年だという。
  パウロは、宗教の立宗を思い立つ。
  当然、パウロは、ユダヤ教に詳しく精通していた。
  そして、ユダヤ教聖典に書いてある事と同じやり方
 で立宗の行動をした。
  パウロが考えたことは、イエスの生涯とか、行いとか
 はすべて捨て、無関係とした・・
  そして、イエスの名だけを借りた。
  エルサレム神殿の庶民の経営する屋台などを、暴れ回
 って壊したりするイエスの行動など利用したいとも思わ
 なかったのだろう。
  パウロによって、イエスの人となりは、まったく利用
 されない形でキリスト教は出来上がって行った。
  刑死し、復活し、昇天するというユダヤ教聖典の形
 にした。
  しかし、だからと言って・・福音書が作られる紀元70
 年〜90年頃までは、50年近くの空白の長い年月が流れて
 いたのだった。
  近年、アメリカの研究グループが、4つあるキリスト教
 の福音書を研究・検討したが、その中に、イエスの言葉
 はほとんどないという結果となった、その様な福音書
 状態だという結論に達した。
  イエスの言葉が一つもないという福音書があるくらい
 だった。
.
70年代、キリスト教の最初の福音書である「マルコによる
 福音書」が書かれた。
  この「マルコによる福音書」は、キリスト教の意に沿
 わない福音書であった・・依って、この後に「マタイに
 よる福音書」が書かれた。
  だから、聖書には、年代的には「マルコによる福音書
 が先に書かれているが、聖書への掲載は、「マタイによ
 る福音書」が先に掲載され、この「マルコの福音書」は、
 「マタイによる福音書」の後に掲載されている。
  この様な差別は、特定の一部の者にしか明らかにされ
 ていない。
.
80年代、キリスト教福音書である「マタイによる福音書
 と「ルカによる福音書」が書かれた。
.
90年代、キリスト教福音書である「ヨハネによる福音書
 が書かれた。
.
2世紀、この頃までに、キリスト教新約聖書に盛り込まれ
 る手紙類などが出揃(でそろ)った。
  しかし、矛盾が多く含むものとなった。
  この矛盾の辻褄(つじつま)を合わせるために、この
 後、キリスト教神学が発生した。
  キリスト教神学の生まれた経緯は、キリスト教の教義
 の深化のためではなかった・・辻褄合わせが、学問の発
 生の因だった・・、
.
180年頃、ローマ帝国内に、キリスト教の五大教会が造られ
 た。
  キリスト教五大教会は、「ローマ」「エルサレム」「
 コンスタンティノーブル」「アレキサンドリア」「アン
 ティオキア」。
.
313年2月、ミラノ勅令。
  ローマ帝国の皇帝のコンスタンチヌス1世(大帝)が、
 キリスト教を公認した。
  コンスタンチヌス大帝が、ミラノで、リキニウス帝と
 会見をした際に発した勅令。
  増大しつつあるキリスト教徒の支持を得ようとして行
 った。
  そして、392年、キリスト教が国教となった。
  以上の様な史実があるとされるが・・??
  厳密に言うと、ミラノで、その様な勅令が出されたと
 いう「歴史的事実はない」。
  ただ、両皇帝のミラノでの協定に基づいて、リキニウ
 スが、313年、ニコメディアで両皇帝の名において発した
 訓令の内容の記録が伝わるに過ぎない。
  これを、キリスト教に偏する後世の史家が、これをミ
 ラノ勅令と呼んだだけの作り話。
  ローマ帝国キリスト教迫害政策は、4世紀の初期にな
 って、行き詰まった・・そこで、政策のゆるみが出て、
 寛容への動きも出ていた(311年、ガレリウス帝の寛容
 勅令など)。
  しかし、このミラノ勅令と言われるこの頃、帝国が、
 キリスト教の取締りの域を超えて、キリスト教との融合
 の方向へと踏み出した・・歴史の転換点ともいうべき位
 置を示している。
.
381年、コンスタンティノーブル公会議で、再び、三位一体
 神を正統とした。
  そして、教義として確立した。
.
392年、キリスト教が、ローマ帝国の国教となった。
.
395年、ローマ帝国が、西ローマ帝国東ローマ帝国に分裂
 した。
  この後、ローマ教会とコンスタンティノーブル教会と
 は、別々の君主の元で歩んだが・・、
  コンスタンティノーブルの司教が、「ローマ教会の司
 教と対等の立場」を主張した。
  そして、この後の5世紀末に、東西のキリスト教会の反
 目が本格化した。
  ローマ司教は、「単性説」を主張していたコンスタン
 ティノーブルの司教を破門した。
  6世紀に、ローマ司教は、ローマ教皇となった。
  867年には、東西の両教会は、「互いに破門を宣言しあ
 った」。
  1054年、完全に物別れとなり、教会の東西分裂となっ
 た。
.
397年、カルタゴ会議で、「旧約聖書」と「新約聖書」が、
 キリスト教聖典となった。
.
451年、キリスト教ローマ教会は、権威を強化したいと、こ
 の年のカルケトン公会議で・・異端とされた単性説のコ
 ンスタンティノーブル司教を破門にした。
  5世紀末は、ローマ教会の権威は強大となった。
.
5世紀半ば、ローマ法が作られた。
  キリスト教は、ローマ法と矛盾するところを妥協し、
 習合した。
  そして、キリスト教の戒律は、聖なる部分のみに適用
 されるものとした。
  だから、当然、キリスト教の免罪符を持っていても罰
 せられた。
  だから、当然、強盗が免罪符を持っているからと言っ
 て許されるものではなかった。
.
6世紀、東ローマ帝国が、コスティニアス1世の時に領土拡
 大した。
  ローマも支配下に入れた。
.
6世紀、ローマ帝国内の五大教会の一つのローマ教会の指導
 者であるローマ司教が、ローマ法王教皇)となった。
  このローマ法王が、キリスト教カトリックの最高権威
 があるとされた。
.
900年、ヨーロッパ大陸は、森林に覆(おお)われていたが、
  この後、そのほとんどが失われてしまった。
  ヨーロッパは、うっそうたる原生林の中の地だった。
  「ヘンゼルとグレーテル」が迷い込んだ森の道に、迷
 い行くとお菓子の家があるという、子供たちの話のよう
 な深い森のあるヨーロッパの地だった。
  しかし、その森も、キリスト教の『地を従えよ』の教
 義・教えによって・・、
  「自然を大切にしない教義」によって、「地を従える
 という自然破壊」を『良い事だと教えるキリスト教の教
 義』によって、ヨーロッパの森は、破壊しつくされた。
  今、古来からの原生林は、ドイツのある地方の一画だ
 けという状況。
  現在のフランスの森林の割合は、23パーセントだとい
 う。
  中世初期は、最も開拓が進んでいるサン・ジェルマン・
 デ・プレ修道院の平野部でさえ、4割以上が森林だった。
  900年頃の想定地図を見ると、『殆ど森しかない』とい
 う状況だった。
  土地の9割以上は、原生の地であり、村の周囲だけが
 切り開かれているという状況だった。
  あるキリスト教修道院は、柱となる大木を手に入れれ
 たのは「神の思し召しだ!」などと喜んで伐採した。
  日本の里山の思想・仏教の思想は・・『山や森と共生
 する』という思想は、キリスト教の思想には「まったく
 無かった」。
  キリスト教の『地を従えよ』の自然破壊を奨励する教
 えに洗脳されたキリスト教徒のヨーロッパ人たちは、「
 自然破壊をすることに何ら罪悪感の無い心にされて」、
 ヨーロッパ大陸の自然を破壊し続けた。
  今、地球は、自然破壊のために、「異常気象が頻発(
 ひんぱつ)」している・・が・・
  キリスト教の罪悪は、この点でも、計り知れない事を
 起こしている。
  「もう人類は、今・現代、すぐに、キリスト教の教え
 を捨てなくてはならない」。
  「罪悪感のない自然破壊」を改めなくてはならない。
  今、地球は、地球上のあちこちで、罪悪感のない森林
 破壊の伐採が行われている。
  「キリスト教に洗脳された自然破壊」が行われている。
.
1520年、ルターのキリスト教宗教改革活動が始まった。
  まったく金にまみれたキリスト教カトリックだった。
  ローマ法王のレオ10世が、ローマのサン・ピエトロ大
 聖堂を建てたいと、金を集め出した。
  ドイツで、大量の免罪符が売り出された。
  ルターは、これに抗議した。
  ルターは言った、「免罪符なんか持ってなくても天国
 へ行ける」「免罪符を持って居たからって救われない」
 と。
  キリスト教カトリック教会は、ルターを破門にした。
  そして、弾圧を加えた。
  キリスト教教会から、なんだかんだと金を取られ苦し
 んでいた人々は、ルターに同調した。
  また、ドイツの諸侯や、各地の知識人も同調した。
  因みに、キリスト教の信者数の割合。
  カトリック  53%(10.9億人〉、
  プロテスタント17%(3.7億人)、
  東方正教会  11%(2.2億人)、
  その他    19%(3.9億人)、計20.7億人
.
1642年1月8日、この年、ガリレオが失意のうちに亡くなっ
 た。
  ガリレオは、イタリアの科学者で天文学者
  天文学の父と言われている。
  科学的探究の結果、地動説を説明するが・・キリスト
 教に「異端の考え方だ」とされ、一生、監禁状態の生活
 を強いられた。
  職も失い・・貧困の中に苦しい生活を送らされた。
  長女も付き添って看病をしてくれたが、この最愛の長
 女・ビルジニアにも、ガリレオは先立たれた。
  この長女は、ガリレオの死の8年前、病気で1634年に
 亡くなっている。
  キリスト教は、科学的に非常に遅れた宗教で、非科学
 的な記述に満ち満ちている。
  キリスト教は、「ある時、キリスト教の神が創造を始
 めた」という設定から始まったという話から始めた。
  キリスト教の聖書もその記述から始めている。
  この認識を基礎として、キリスト教の宗教の信仰が始
 まっている。
  因みに、先のガリレオに対するキリスト教の間違いは、
 400年も経って、ローマ法王ガリレオに詫(わ)びた・・
 『謝罪のミサ』を行った。
  『キリスト教の宇宙創造論』も、結論から言えば「間
 違い」で・・、
  この様な話にすると、キリスト教のストーリーの初め
 から話が崩れ去ってしまう・・このストーリーが崩れる
 と・・「キリスト教の神の存在が否定され」・・キリス
 ト教の宗教としての存在も否定されてしまう・・
  だから、この点は、死守したいところだが・・間違い
 だという事が判明して来た。
  キリスト教は、ストーリーの初めから、躓(つまづ)
 いている。
  キリスト教は、聖書の初めに書いてある「キリスト教
 の神が宇宙を創造した」という創造論が確かにあったと
 したい・・が・・
  科学が進歩して来ると、色々なことが分かって来て、
 その科学で分かったことが、キリスト教の聖書に記述し
 てある事と食い違う事が多く・・
   「一致する」と胸をなで下ろすというキリスト教
 なっている。
  事実は、そうではないという展開となっている。
  この400年前のガリレオは、キリスト教の様になってな
 いと言うって、キリスト教を仰天させ、大騒ぎになった
 が・・キリスト教は卑劣な事にもガリレオを弾圧した・・
  あまりにもひどい・卑劣なキリスト教の弾圧にあって・・
 とうとうガリレオも、やむなく「地球の周りに太陽は回
 っている」と、キリスト教に押し付けられた言葉を言っ
 たが・・
  科学的に間違って居る事を言わされたが・・しかし、
 最後に、ガリレオは、「ガリレオが、その様に言ったっ
 て、キリスト教が言うように、太陽が地球の周りを回り
 始める訳はない」・・という事で・・ガリレオは、『そ
 れでも地球は、太陽の周りを回っている』と言った。
  キリスト教は、科学に照らして間違いだらけの宗教で、
 今・現在は、キリスト教は、『太陽が、地球の周りを回
 っている」とは言わなくなったが、キリスト教にはこの
 様に、「たくさんの訂正事項」の中に、今のキリスト教
 が存在して居る。
  キリスト教は、まったく非科学的な宗教である。
  信じるに値しない。
  このキリスト教に繰られて、洗脳されて、今まで、何
 千万人もの有色人種が、「キリスト教によって殺されて
 来た」が・・本当に悔(くや)しい思いである。
  これは、ローマ法王が、有色人種を「人では無い」と
 言った事から始まった。
  キリスト教には、有色人種への蔑視観がある。
  キリスト教は、科学が進むとともに、その非科学性が、
 ますます立証され、証明されて来ているという状態。
  これからの人類の幸福のためには、絶対、キリスト教
 は「無くさねばならない宗教」・・、
  また、未来の愛すべき「これからの世界を支える子供
 たち」の為にも、絶対、キリスト教を無くして行かねば
 ならない。
.
1821年、メキシコが、スペインから独立すると、今は、ア
 メリカのテキサス州だが、この地は、メキシコのコアウ
 イラ・イ・テハス州という名の州となった。
  例えばの話、あなたの左隣の家が、あなたの右隣の家
 へ、「あなたの家を持って良い(奪ってよい)」と言っ
 たら・・、
  あなたの家は、右隣の家になるのか?
  (右隣の所有する家になるのか?)
  また、例えばの話、本当に例えばの話なのだが・・、
  「日本が、メキシコに、アメリカのテキサス州を持つ
 ことを認める」と言ったら、アメリカのテキサス州は、
 メキシコのものになるのか?
  つまり、この逆のことを、アメリカはしていた。
  アメリカの前には、イギリスがしていた。
  こんな事ばかりを言って、世界にトラブルの種を撒(
 ま)いていた。
.
1876年、オーストラリアの先住民のアボリジニの方々・・
 そのタスマニア島の方々は、3万7000人が住んでいた・・
 が・・イギリスの入植によるアボリジニの方々の銃殺権
 の法律(人権のまったくの無視の卑劣な法律)により、
 この年に絶滅した。
  タスマニア原住民で最後の人となったトルガニナさん
(女性)がこの年に亡くなった。
  また、オーストラリア本土の先住民のアボリジニの方々
 も、イギリス人(オーストラリア人)が、獣狩りのごと
 く、アボリジニの方々を銃で撃っていた。
  『その様な法律があった』というのだから、その「卑
 劣さ」も極まるが・・、
  「今日は、○○匹、獲った」という日記などの記録が
 残されている。
  また、森に罠(わな)が仕掛けられたりした。
  また、ハワイの原住民の方々が、何故か?ある時、激
 減した。
  『伝染病を媒介された』という話がある。
  ハワイの原住民の方々は、予防措置がとられていなか
 った。
  約30万〜50万人のハワイの原住民の方々が、何と!9割
 の方々が亡くなり、約4万人となってしまった。
  そして、現在、純血のハワイの方は、約8000人と言わ
 れている・・98%は混血。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive