(増補版)480E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年2月〜1889年2月)

題:(増補版)480E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年2月〜1889年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1889年2月6日、横浜正金銀行条例改正。
  横浜正金銀行条例が改正され、6月1日に施行される。
  取締役の就任に、大蔵大臣の許可が必要となる。
  また、大蔵省による、特別監督制度が始まった。
  正金銀行の政府所有株が、家族世襲財産法に該当とな
 る。
  横浜正金銀行の対外金融機関化が進んだ。
  正金銀行の業務は、創設後から海外関係が多く、特に、
 欧米銀行との為替取引がその大半を占めており、国立銀
 行と異なっていた。
  こうした状況下で、1987年(明治20年)7月、政府は、
 「横浜正金銀行条例」(勅令第29号)を制定した。
  この条例は、正金銀行が、創設時の準拠法規である国
 立銀行条例に比べ、外国貿易・為替関係業務を担当する
 特殊銀行の条例として、
  さらに、正金銀行は、政府の保護監督のもと特殊金融
 機関(外為・貿易金融機関、政府在外資金取扱銀行)で
 あることを法的に明確にするものであった。
  この条例によって、正金銀行に対する大蔵省の監督規
 定が明らかとなり、その後の正金銀行の営業活動の規制
 も強化されることになった。
  そして、1888年明治21年)9月、正金銀行と日本銀行
 は協約を締結し、両行ともに政府の機関であり、
  外国に関する業務(国際金融)は正金銀行が取扱い、
  日本銀行は、その後見役として必要な円資金(年間300
 万円、年3部)を供給し、その返済は正貨で行うことにし
 た。
  しかし、1889年(明治22年)3月、正金銀行は、この間
 の政府資金による御用外国荷為替制度が廃止されて、経
 営の転換を余儀なくされた。
  この制度の廃止により、正金銀行は、外国為替相場の
 変動、為替資金の調達・貸出金利など、外国為替業務に
 おける損益は自行に帰着する事になった。
  正金銀行は、営利採算を考慮した経営を行なうことが
 不可欠となり、こうした条件のもとに外国貿易・為替を
 専門担当して行くことになったが、
  その後においても、正金銀行の経営は依然として政府
 の強い規制(政府出資や大蔵省の管理機構)のもとに置
 かれた。
  また、その間、富田鉄之助日本銀行総裁が、日本銀行
 による外国為替の取り扱いを要求し、大蔵省や正金銀行
 と激しく対立した。
  しかし、1889年6月、松方大蔵大臣は、日本銀行が正金
 銀行に資金を供給して、
  正金銀行に、外国為替の取り扱い、及び、正貨吸収に
 当らせることにした。
  富田は、これを拒否して、日本銀行総裁を辞任したた
 め、松方大蔵大臣は、この後任として、川田小一郎を登
 用する事とした。
  こうして、1889年10月、「準備金」が、紙幣交換基金
 特別会計に移されたが、
  政府は、正金銀行を、国際金融の直接の担当者とする
 方針を堅持し、
  正金銀行は、日本銀行との間に外国為替手形再割引契
 約を締結した(年額1000万円を限度、2分)、
  日本銀行の信用供与、そして、さらに、政府の保護政
 策を背景に、対外進出をすすめ、外国貿易・為替を取扱
 い、日本の対外貿易における商権の回復に努めた。
  しかし、1890年(明治23年)、正金銀行は、凶作に伴
 う金融のひっ迫や、
  同行内部の紛争に加え、
  アメリカのシャーマン銀買上法に伴う銀価の暴騰、
  さらに、ベアリング恐慌の影響のもと、
  再び、経営の危機に直面した。
  (菊池道男氏の論文・その他を参考にした)
1889年2月9日、東京府の指示で、東京在住の俳優・鑑札・
 納税事務の合理化ための東京俳優組合を結成した。
  日本俳優協会の前身、頭取に市川団十郎
  鑑札:かんさつ、ある種の営業や行為に対して役所が
 与える許可証。
1889年2月10日、『風俗画報』が創刊された。
  風俗雑誌で、東陽堂発行。1916年3月に廃刊となった。
  通巻478号。号数外の増刊を含む総冊数は517冊。
  西欧のグラフ雑誌の影響を受け、はじめは主として石
 版画で、後に、写真版が挿入された。
  日本で初めて誌名に「画報」の文字が使われた。
  創刊号は28ページ、定価10銭。
  「画ヲ以テ一ノ私史ヲ編纂スルノ料ヲ作ル」ことを目
 的に、江戸時代風俗の考証、各地に伝わる地方風俗の紹
 介、刊行時における流行風俗の記録を編集方針としたが、
 創刊当初は、復古調の時流を反映して、江戸研究に重点
 が置かれた。
  絵にふりがな付の文章が載った。
1889年2月11日、大日本帝国憲法(欽定憲法明治憲法)が
 発布した。
  翌年・1890年11月29日に施行された。
  また、同日、皇室典範衆議院議員選挙法、貴族院令、
 議員法、大赦令、会計法を公布した。
  アジア初の近代的な憲法(立憲君主制) で、国号が大日
 本帝国となった。
  ドイツ・プロシア立憲君主制を範としたもので、そ
 の制定は、1881年の政変に際して決定されていた。
  天皇主権を原理とする成文憲法で、7章76か条からなる。
  天皇陛下の大権、臣民の権利・義務、帝国議会の組織、
 輔弼(ほひつ)機関、司法、会計などについて規定される。
  伊藤博文を中心に井上毅(いのうえこわし)らが起草し
 た。
  明治維新にあたり、政府は、五ヵ条の誓文、政体書を
 出し政府組織を整えるとともに、版籍奉還廃藩置県
 身分制の廃止、徴兵令、地租改正等によって近代国家と
 しての体裁を形成していった。
  しかし、西洋諸国との間の不平等条約を撤廃させるた
 めには、富国強兵政策を推進する一方で、文明国にふさ
 わしい近代法典を整備する必要があった。
  勝海舟憲法発布記念章授与(氷川清話)
  勝海舟、勲一等に叙せられ瑞宝章を賜う(氷川清話)
  憲法皇室典範発布(氷川清話)
    内閣総理大臣 伯爵 黒田清隆
    枢密院議長  伯爵 伊藤博文
    外務大臣   伯爵 大隈重信
    海軍大臣   伯爵 西郷従道
    農商務大臣  伯爵 井上馨
    司法大臣   伯爵 山田顕義
    大蔵大臣
    兼内務大臣  伯爵 松方正義
    陸軍大臣   伯爵 大山巌
    文部大臣   子爵 森有礼
    逓信大臣   子爵 榎本武揚
 大日本帝国憲法
  第一章 天皇
  第一条:大日本帝国万世一系天皇之ヲ統治ス
  第二条:皇位皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之
   ヲ継承ス
  第三条:天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
  第四条:天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲
   法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
  第五条:天皇帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
  第六条:天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス
  第七条:天皇帝国議会ヲ召集シ其ノ開会閉会停会及
   衆議院ノ解散ヲ命ス
  (以下、略)
1889年2月11日、 「皇室典範(こうしつてんぱん)」が公布し
 た。
1889年2月11日、 「議院法」が公布した。
1889年2月11日、 「衆議院議員選挙法」が公布した。
貴族院令」公布、
大赦令」公布
1889年2月11日、万歳三唱が始まる。
  天皇陛下が、青山観兵場へ臨幸し、その時、帝大・外
 山正一教授の音頭によって、万歳三唱が始めて行われた。
1889年2月11日、大阪朝日新聞が、憲法全文を東京より電報
 を使って入手し、号外を発表した。
1889年2月11日、新聞「日本」が創刊された。
  社長:陸羯南
1889年2月11日、西郷隆盛へ、正三位が追贈された。
1889年2月11日、文部大臣森有礼、暴漢に襲われ重傷。
  森有礼(もりありのり)、日本の武士(薩摩藩士)、
 外交官、政治家。
  初代文部大臣を務めた他、一橋大学を創設し、明六社
 会長、東京学士会院初代会員、大日本教育会名誉会員を
 務め、明治六大教育家に数えられた。
  正二位子爵。
  2月11日の大日本帝国憲法発布式典のこの日、
  式典に参加するため、官邸を出た所で国粋主義者・西
 野文太郎に短刀で脇腹を刺された。
  応急手当を受けるが傷が深く、翌日午前5時に死去した。
 43歳だった。
  当時の新聞の誤報が原因という話がある(伊勢神宮
 敬事件)
  文部大臣・森有礼が兇徒に倒れる(氷川清話)
  明治22年には文相・森有礼の暗殺(氷川清話)
1889年2月12日、森有礼が死去した。
  享年:42歳。
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  (今日の言葉)
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  題:やむなく、日本は、対米戦争を決意した・・、
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1941年9月6日、種々いろいろと、戦争を避けようと努力し
 て来た日本だったが・・、やむなく、日本は、対米戦争
 を決意した・・、
  ・・が、このことを、
  アメリカは、暗号解読をして、すでに知っていた。
  アメリカ上下院合同真珠湾調査委員会の報告書によれ
 ば・・、
  アメリカは、1941年(昭和16年)9月6日の日本の御前
 会議の内容を暗号解読機「マジック」によって解読し、
 把握していた。
  日本が対米戦争を決意したことや、12月1日を、対米交
 渉の最終期限などのことまでも・・、
  アメリカは、11月25日までに、既に把握していた。
  ドール米陸軍大佐(元ルーズベルトの娘婿)の証言と
 も符合する。
  ドール大佐は、朝食の場で、ルーズベルトが、「明日
 (12月7日(日本時間:8日))戦争が起きる」と発言し
 てたということを暴露している。
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  そして・・、
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1941年、アメリカが、どう言い繕(つくろ)おうが・・、
  何と! アメリカは、第二次世界大戦が、はじまる前
 から日本の交信を傍受し、かつ、その解読に成功してい
 た。
  日本の手の内は、アメリカに、大戦の開始前から筒抜
 けだった。
  しかも、日本は、そのことを知ってか? 知らずか?
  その状態で、戦争末期まで至って行った。
  当然、真珠湾攻撃に至る前の、アメリカの日本大使館
 と日本(本国)の交信内容を、アメリカは把握しており、
  真珠湾攻撃が『奇襲』だと、降って湧いたように「戦
 争が起きた様に言うアメリカの言い方」は・・、
  「ちゃんチャラおかしい『真っ赤なウソ』なのだ」、
  故に、1945年7月頃も・・、
  アメリカ・イギリス・ソ連ポツダム会談が開かれる
 前の頃も・・、、
  日本が、必死に戦争を終結しようと行動している事も、
 すべて筒抜けであった・・、
  日本外務省とモスクワ大使館の秘密交信も筒抜けだっ
 た。
  日ソ中立条約を頼りに、日本は、中立国・ソ連に・・
 「戦争終結の仲立ちをしてもらおうと、必死に行動して
 いた」。
  日に日に増して行く日本のその絶望的な交信量の多い、
 そのすべての交信内容が・・、
  連合国の知るところにあった。
  そして、アメリカの駐ソ連大使のハリマンが、就任直
 後、すぐに感じていたソ連の対応の仕方・・、
  「友好という関係を築くより、現実的な利益を優先す
 る態度」、
  そして、「目的のためには手段を選ばないという態度」、
  この様な、ソ連外交の凄(すさ)まじさは、日本の駐
 ソ連佐藤大使も、「その凄まじさ」を思い知らされた。
  これは、2016年の安倍首相も、プーチンに感じられた
 ことでしょう・・、
  そして、戦争終結ソ連へ依頼して、交渉を続けてい
 た日本の駐ソ連の大使へ、突如、マ反対のこと、「ソ連
 の対日の宣戦布告」がなされた・・、
  仲立ちの話をしに行ったら、宣戦布告をなされた・・、
 日本の大使も、さぞ、びっくりされたことであろう。
  ソ連は、この様な国なのだ。
  アメリカのルーズベルトがエサを撒(ま)いたとはい
 え・・。
  ソ連とは、今後とも、この様な「スタンス」で対して
 行かなければならない国なのだ。
  アメリカのルーズベルトが、他人(ひと)のもの、中
 国や日本の領土をソ連にやっているときは、
  エサを貰っている時は、「蜜月」だったが・・、
  そのルーズベルトも死に、おいしい土産が途絶えると、
 そのアメリカとソ連の関係はおかしくなり、
  アメリカでは、ソ連に対する強い疑惑が湧き、蜜月も
 終わり、その次にやって来たのは共産主義への激しい怒
 りだった。
  ソ連への反撥があった1950年代前半のアメリカの「マ
 ッカーシズム」という激烈な反共産運動だった。
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  そして・・、
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1941年10月頃、昭和天皇陛下が、日本の陸海軍に対し、ア
 メリカ・イギリスへの攻撃を禁じられていた。
  戦後になって・・、
  アメリカのヘラルド・トリビューン誌が・・、
  「ヒロヒト昭和天皇)の1941年における平和への呼
 びかけは、彼を救うかもしれない・・連合軍は、彼を皇
 位にとどめるか」・・という論説記事を掲載した。
  アメリ国務省の公開文書の中に、日本の真珠湾攻撃
 のほぼ2ヶ月前に、天皇陛下が、日本の陸海軍に対し、
 アメリカ・イギリスへの攻撃を禁じていた・・という、
 文書が含まれていた。
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  そして・・、
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1941年11月26日、日本の連合艦隊真珠湾へ出撃した。
  1941年11月23日、大日本帝国海軍第一航空艦隊(機動
 部隊)が、日本の領土・択捉島(えとろふとう)単冠(
 ひとかっぷ)湾に集結し、
  1941年11月26日に、真珠湾攻撃のため、連合艦隊は、
 ハワイへ向けて出港した。
  アメリカは、通信を傍受するなど、この情報を完全に
 掴んでいた。
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  そして・・、
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1941年12月1日頃、ハワイの新聞が、「1週間後に、日本が
 攻めて来る」と報道した。
  日本の秘密情報は、アメリカに筒抜けだった。
  アメリカは、そこまで、日本の情報を掴(つか)んで
 いた。
  アメリカ軍内で、「アメリカ艦隊を、ハワイに置いて
 おいてよいのか?」・・ということが、問題となったく
 らいだった。
  航空母艦は隠した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive