(増補版)458E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年1月〜1888年1月)

題:(増補版)458E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年1月〜1888年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1888年、出来事:
内閣総理大臣伊藤博文:1885年(明治18年)12月22日
 〜1888年明治21年)4月30日
内閣総理大臣黒田清隆1888年明治21年)4月30日〜
 1889年(明治22年)10月25日
・枢密院(すうみついん、天皇陛下の最高諮問機関)が設置
 された。
  伊藤博文が、枢密院を置いて初代議長となり、憲法
 案の審議を司会した。議会開設後、初代貴族院議長を務
 めた。
・国歌「君が代」が制定され、公布された。
大隈重信外相が、条約改正に努力するが失敗した(〜1889年)
・市制・町村制、市町村を定める。市町村制公布。(4月)
・1道3府43県716郡に整理(12月)
海軍大学校が開設された。
・日比谷から青山に練兵場が移転した。
日墨修好通商条約が締結された。
香川県愛媛県より分離した。
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1888年、データ:
・紡績工場の数:24
・自作農33.4%、自子作農46.0%、小作農20.6%
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1888年、産業:
・御木本幸吉が、英虞湾(あごわん)で真珠の養殖を始め
 た。
・石炭無税輸出の件が公布された(7月20日
神戸港以外より米輸出されるに至る(下関・門司・口ノ
 津)
・わが国初の火災保険会社、東京火災保険会社が、営業開
 始した(10月1日)
・品川硝子製造所が、民間に払下げられビール瓶の製造に
 成功した。
・秦孝一郎が、孵卵器の改良をして安価となった。
・伊豆地方の種無し密柑が、和歌山をしのいで東京市場
 賑わした。
・山葉寅楠が、日本製オルガンの製造に成功した。
 山葉風琴製造所(現:ヤマハ
 山葉寅楠(やまはとらくす)が、浜松市に設立し、オル
 ガンの国産に乗り出した。
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1888年、交通:
山陽鉄道兵庫駅明石駅間が開通した(11月1日)
・姫路まで開通した(12月23日)、全通は1901年。
・警視庁が、不潔な円太郎馬車を諭告した。
東京府は、乗合馬車の馭者、馬丁満20歳以下を禁じ、乗
 合馬車が激減した。
・東京に二人乗人力車が多かったが、漸次減少した。
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1888年、衣:
三越洋服店が開業した(1月)
・綿ネルの支那への輸出が始まった。
花柳界より小紋の着物が流行した。
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1888年、食:
天長節の宴会に、大隈外相は、鹿鳴館に1000余名の招待
 状を出した。
日本橋の西洋料理店「新吾妻」玉突場の営業広告を出した。
麒麟(キリン)ビール発売(5月29日)
・非常に暑く、氷がよく売れた。
・東京米津風月堂が、アイスクリームと、ウォーターアイ
 ス(アイスキャンディー)を作り、発売した(5月)
・喫茶店が、はじめて上野黒門町にできた。
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1888年、住・建築:
・皇城二重橋が、二ヵ年を要して竣工した(10月14日)
・国会議事堂の起工式をあげた(10月10日)
辰野金吾設計の工科大学本館が落成した(7月30日)
・神戸電燈会社が開業した(9月)
東京市内に、ガラス障子の家がかなり出来てきた。
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1888年、報道:
アメリカで発行の邦字新聞「世界の魁」は、治安を乱す
 内容があり、輸入禁止した(郵便報知新聞)
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1888年、教育:
東京美術学校が、上野に設立された(12月11日)
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1888年、論・文学・本:
・『日本人』(政治評論雑誌)が創刊された。(4月)
山縣有朋「軍事意見書」論文。
中江兆民「國會論」論文。
勝海舟「海軍歴史」執筆
・「朝鮮地誌略」刊行
・山縣悌三郎「少年園」創刊
・山田美妙「夏子立」
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1888年、美術:
・慈母観音(狩野芳崖
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1888年、歌・流行・世相:
・最初のコーヒー店が、東京の上野黒門町に可否(かっひ
 ー)茶館ができた。
・神奈川県の、海水浴場の男女混泳が区分けされた(7月)
支那カバンが柳行李にかわり流行する
川上音二郎オッペケペー節で人気を博した。
  民権運動家の川上音二郎が、大阪の井筒寄席で、政権
 を揶揄した「オッペケペー節」を始め、大人気を得た。
・「帝国」の語が流行した、帝國○○という会社名が増え
 た。
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1888年、演劇:
・演劇の市村座が新築落成した。
角藤定憲らが改良演劇を上演した。
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1888年、発明:
・下瀬火薬が発明された。
・最初の写真印刷法発明特許、池田早苗出願(12月3日)
・キネトスコープが発明された。
  アメリカのエジソンが、映像の再生可能な機械を発明
 し特許出願した。
  キネトスコープと呼ばれ、のぞき穴式で1度に一人しか
 見られなかった。
・G・イーストマンが、カメラを発明した。
  イーストマンのロールフィルム式の箱型カメラが登場
 した。
・李錦裳が、オイスターソースの製法を発明した。
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1888年、医・衛生:
・パストゥール科学研究所が設立された(11月14日)
・文部省が、学生生徒の健康診断に当たる活力検査を開始
 した(12月28日)
コレラの流行のため「長崎くんち」の奉納踊りがなしと
 なった(10月)
・東京師団に、白米病といわれた脚気患者が出た。
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1888年、科学・技術・学問:
東京帝国大学理学部の観象台を東京天文台に改称した。
 創設は1878年
・静岡〜東京長距離電話試験に成功した(東京〜熱海間電
 話開通)
・那珂通世「支那通史」
牧野富太郎「日本植物志図編」第1巻第1集が刊行した。
・電磁波の発生実験:ドイツのハインリッヒ・ヘルツが、
 火花放電で発生した電磁波を検出する実験をした。
  電磁波の存在は、理論的に証明されていた(2月2日)
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1888年、災害・防災:
磐梯山爆発した。
  噴火した噴出物で、ふもとに多数の湖沼ができ、死者
 461名が出た。
  老衰期火山の水蒸気爆発の典型。
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  (今日の言葉)
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  題:自分さえ利があれば、法律を犯したってやるという
   アメリカ大統領のルーズベルトだった・・、
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1939年4月15日、リンドバーグが、ルーズベルトと会談した。
  アメリカ大統領のルーズベルトが、「戦争を作った」
 と言って始まった第二次世界大戦の約2年半間前のこの日
 に・・、
  飛行機で、大西洋を単独横断を成功させた事で有名な
 リンドバーグは、ホワイトハウスで、この大統領に会う
 機会を持った。
  二人の会談は、わずか15分であったが、リンドバーグ
 は、この時の印象を日記に書いて残していた。
  「大統領は、部屋の隅にある大きな机の後ろに座った
 まま、前かがみになって握手で迎えてくれた」・・と、
  そして、「足が悪いなどとはまったく気づかせないそ
 ぶりに感心した」・・と・・記述し・・続いて・・、
  大統領の話しぶりが、驚くほどスムーズで、しかも、
 もの柔らかい・・と、書いた。
  魅力に溢れていた・・と、書いた。
  しかし、リンドバーグは、そのあまりに居心地のよい
 語り口に、逆に、『何か違和感を感じた』と書いている。
  そして、それも・・話の内容が、日常よくある「たわ
 いない内容」であるのに・・とも言う・・、
  リンドバーグは、この前年、パリのアメリカ大使公邸
 に滞在した時のことを・・思いを重ねていた。
  この時、リンドバーグは、ウィリアム・ブリット大使
 から『奇妙な相談』を受けた。
  それは、このルーズベルト大統領が、秘密裏に、アメ
 リカの法律を破る行為をしようとしている・・というこ
 とだった。
  ブリット大使が、「極秘に・・(してもらいたい)」
 という前置きで話したことは・・、
  それは・・、アメリカは、その時、中立法という、ア
 メリカに有るこの法律によって、交戦国には、武器を輸
 出する事が出来なかった・・、
  しかし、ルーズベルトは・・、
  「戦闘機や爆撃機を、本格的に(フランスへ)渡す計
 画を進めている」・・ということだった。
  ドイツと交戦する可能性が高かったフランスには、法
 律違反となる行為だった。
  そこで、ルーズベルトは、カナダに工場を建設して、
 そして、やろうとしている・・と・・、そうすれば、本
 格的に支援が出来ると・・、
  リンドバーグは、一応、相談に応じるとしたという。
  アメリカが、完全に、戦争介入するという「脱法行為」
 の悪計(あっけい、わるだくみ)だった。
  アメリカ大統領という立場で・・ルーズベルトは、こ
 の様に、法を犯してまでも「違法行為を平気でやる」と
 いう性格の大統領だった。
  自分に利があれば、アメリカ国民の方々に対してウソ
 の行為となっても、
  その嘘をつき続けるという・・アメリカ大統領ルーズ
 ベルトだった。
  (参考)脱法:だっぽう、法律に触れない様な方法で
     法律で禁止していることを行なうこと。
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  そして、次の(今日の言葉)
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  題:もったいない事に・・この年に、松方コレクションが・・焼失した・・
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1939年10月8日、松方コレクションが焼失した。
  ロンドンの「パンテクニカン」に保管されていた。
  記録には3点を除き、すべてが焼けた・・とある。
  その3点の行方(ゆくえ)は不明となっている。
  国立西洋美術館は、松方コレクション復元目録の作成
 をしている。
  この焼失は、まったく惜しい事である。
  実業家の松方幸次郎〈1865年〜1950年)は、個人とし
 ては指折りの美術品を収集していた。
  このうち、パリに保管されていた分は、現在、多くが
 東京・上野の国立西洋美術館に収蔵されている。
  イギリス保管分が、まったく残念だったが、最近、そ
 の作品リストが確認された。
  イギリスのテート美術館が発表した。
  そのリストは、953点(現在の評価で250億円)。
  マネ・ゴッホ・ドラン・シャバンヌなどの巨匠もある。
  イギリス人画家ブラングィンが、約半数の450点ある。
  ちなみに、パリの18点は、フランス政府が返還を拒否
 している。
  そして、約22点は売却などをしたとの事。
  まったく無責任。
  また、日本にあるコレクションは、浮世絵約8000点で、
 これは、帝室博物館(現:東京国立博物館)に。
  西洋美術の約1000点は、国内外へ逸散した。
  (読売新聞、2016年9月6日)
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