(増補版)453E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年7月〜1887年8月)

題:(増補版)453E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年7月〜1887年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年7月12日、洋画家・山本芳翠(やまもとほうすい)が、
 フランスから帰国した。
  伊藤博文などの肖像画が著名で、日本洋画の父と呼ば
 れている。
  1850年嘉永3年)7月、明智町(現在の岐阜県恵那市
 で生まれた。
  幼少期、絵が好きで、絵を見れば手当たり次第模写し
 たと、後年芳翠は回想している。
  寺子屋である安住寺で、象先和尚に学んだ。
  1865年、15歳の時に、ふと北斎漫画を手に入れ、感銘
 し、絵の道を志した。
  1872年(22歳)横浜に出る、困窮する、ふと町で飾ら
 れていた絵に生きているようだと感銘し、その門に入る、
 洋画に転向する。
  1878年明治11年)28歳、パリ万国博覧会を機にフラ
 ンスに留学、絵画技法を学んだ。
  1887年(明治20年)(37歳)に帰国し、版画家・合田
 清とともに画塾「生功館」を主宰。
  1894年(明治27年)(44歳)に黒田清輝がフランスか
 ら帰国すると、黒田が結成した白馬会に参加した。
  代表作に「裸婦」(1880年ごろ)、「浦島図」(1895年
 ごろ)がある。
  アカデミックな画風で、フランスで本格的に修得した
 画法を黒田に先だって日本に伝え、多くの洋画家を育て
 た功績は大。
  1906年明治39年)、56歳で没した。
1887年7月15日、板垣退助、参内して遂に受爵す。
  (7月8日に、天皇陛下の特使が来たときに、天皇陛下
 の御心に感激して、受爵を決意していた)
1887年7月16日、黒磯駅郡山駅間が開業した。
  日本鉄道の黒磯ー郡山間が開業し、上野駅郡山駅間が
 7時間45分で結ばれた。
  東北本線の線区上の起点は東京駅であるが、1885年の
 開業以来、東北本線在来線列車の始発駅は上野になって
 いた。
1887年7月18日、第27回 条約改正會議
  外務大臣井上馨外相が、この条約改正会議で、裁判
 管轄条約案修正のため本会議を、12月まで延期すること
 を発表した。
1887年7月23日、東京火災保険会社が設立された。
  後の安田火災海上保険(現、損害保険ジャパン
  1887年(明治20年)に、柳川清助らが、有限責任東京
 火災保険会社を設立し、
  1888年の翌年、日本初の火災保険会社として営業を開
 始した。
  その後、大火続発で業績が悪化、
  1893年に、安田善次郎が再建を図り、株式会社となっ
 た。
  他方、同年・1893年安田善次郎らにより帝国海上
 険株式会社が設立、海上保険中心に経営基盤を築いてい
 った。
  1944年(昭和19年)東京火災保険、帝国火災海上保険
 第一汽罐(きかん)保険の3社が合併、安田火災海上保険が
 発足した。
  1950年代の第二次世界大戦後は貿易の進展に伴い、海
 上保険の拡大策を打ち出し、
  1960年代には、モータリゼーションの到来のもと、リ
 スクを伴う反面、大きな成長も期待できる自動車保険
 積極拡大策を展開した。
  火災保険でも、長期総合保険を戦略的商品として新市
 場を開拓した。
  1971年(昭和46年)に、販売網強化を目ざし、プロ代
 理店養成のための代理店研修生制度も発足した。
  1976年には、新宿の本社ビル内に安田火災東郷青児(と
 うごうせいじ)美術館(現損保ジャパン東郷青児美術館
 を開館。
  1980年代に入ると、顧客の貯蓄型商品志向のもと、積
 立保険が最大の種目に成長、同社の総合金融機関化が急
 速に進展していった。
  2002年(平成14年)日産火災海上保険と合併し、損害
 保険ジャパンとなる。
  合併前の資本金584億円(2002年)、正味保険料9636億
 円(2002年)。[
1887年7月25日、文官試験試補及見習規則(ぶんかんしけん
 ほおよびみならいきそく)が公布された。
  アメリカも猟官制度(公職の任免を党派的忠誠や情実
 によって決める政治慣行のこと)を改革し、
  公開競争試験を規定した公務員法(ペンドルトン法)が
 1883年に成立した。 
  日本でも、この年・1887年に、「文官試験試補及見習
 規則」が公布され、
  1888年の翌年に、奏任官には高等試験(高等文官試験。
 いわゆる高文)、判任官には普通試験が実施されるように
 なった。
1887年7月26日、谷干城が、農商務相を辞職した。
  裁判管轄条約反対で辞職した。
  7月3日、農商務相・谷干城が、裁判管轄条約案に反対
 し、条約改正は国会開設後に延期せよとの意見書を伊藤
 首相に提出し、7月26日に辞職した。
1887年7月29日、不平等条約の改正交渉を無期延期を政府が
 決定し、井上馨外相が、各国公使へ通告した。
  不平等条約の改正に失敗。
1887年7月30日、官吏服務規律(かんりふくむきりつ)を改
 正した。
  この法律は、一般官吏の義務を規律した勅令で・・、
  1871年太政官職制設置に伴い、官吏の休暇や勤務時
 間について太政官達が出され、
  1879年には、服務心得が布告された。
  1882年に、次いで、自由民権運動への対応に苦しむ地
 方官統制のため、地方巡察使派遣規定に特色をもつ行政
 官吏服務紀律が制定された。
  1885年には、さらに、内閣制度創設に伴い、
  1887年、これを全文改正され、官吏服務紀律となった。
  軍人、警察官、裁判官などはその対象外にあった。
1887年7月、洋画家・原田直次郎が、ドイツから帰国した。
  東京外国語学校で、山岡成章や高橋由一に洋画の指導
 も受けている。
  ドイツ・ミュンヘンでは、森鴎外と親交し、鴎外の『
 うたかたの記』の主人公・巨勢は、原田がモデルとされ
 ている。
  帰国の翌年1888年、本郷の自宅にに画塾鍾美館(しょう
 びかん)を設けて、後進を指導し、
  1889年、明治美術会創立に参加した。
  翌年1890年の第3回内国勧業博覧会には、大作「騎竜観
 音」を出品した。
  鴎外の『於母影』などの挿絵や、『めさまし草』の表
 紙絵も描いている。
  代表作「靴屋のおやじ」「騎竜観音」など。
1887年8月7日、木曽の三川の治水が行われた。
  木曽三川分流工事(きそさんせんぶんりゅうこうじ)
 は、1887年(明治20年)〜1912年(明治45年)の25年間
 にわたって行われた木曽三川完全分流工事。
  オランダ人技師ヨハニス・デ・レーケが作成した計画
 に基づいて施工された。
  木曽川長良川揖斐川が、この工事によって、完全
 に3つの川が分離された。
  三川の流域は、古くから洪水による水害が多く、三川
 も大洪水によって分流・合流を繰り返していた。
  地元の陳情により、明治政府は、10人の御雇い外国人
 を招聘し、この技師のうちヨハニス・デ・レーケが、1877
 年に派遣された。
  翌年・1878年明治11年)に、三川と周辺の地形を調
 査し、
  1885年(明治18年)に、分流計画書を作成、
  1887年(明治20年)に、着工された。
  木曽三川の完全分流工事の主な目的は、以下の3つだっ
 た。
  (1)洪水対策
  (2)輪中堤防内の排水改良
  (3)堀田の改善
1887年8月8日、気象台測候所条例が公布され、東京には中
 央気象台が設置された。
  この頃、気象事業の効果が認められる至っていたが、
  そして、そのための施設が、全国各地に、測候所など
 が設けられていたが、
  私設であったり、県営であったり、管理運営がまちま
 ちだった。
  このため、1887年に、国営の気象台・測候所、府県立
 の測候所、民営の測候所の設置し、
  および、それぞれの業務に関する規律を、体系的に定
 めた気象台測候所条例を公布した。
  東京気象台は、このとき中央気象台と改称された。
  初代台長は、測地学者で、気象官僚の荒井郁之助(いく
 のすけ)で、当時の定員は25人であった。
  気象観測、測器検査、天気予報、暴風警報のほか、地
 震、地磁気、空中電気(大気電気)の験測を行った。
1887年8月10日、逃亡犯罪人引渡条例が公布された(明治
 二十年勅令第四十二号)
  逃亡犯罪人引渡条例(勅令第42号)は、逃亡犯罪人引
 渡法(昭和28年法律第68号)により廃止された。
1887年8月11日、福陵新報(ふくりょうしんぽう)が創刊さ
 れた。のちの九州日報。
  『福陵新報』は、玄洋社頭山満を中心に福岡で刊行
 された新聞。
  福沢諭吉の門弟で、『時事新報』で健筆を振るってい
 た川村惇が主筆として迎えられた。
  1898年(明治31年)、『九州日報』に改められた。
1887年8月14日、伊藤博文が、黒田清隆大隈重信を外相に
 つけるよう大隈と交渉させる。
  大隈は、議会開設後、8年以内の政党内閣制樹立を条件
 に出し、伊藤はこれを拒否し、説得失敗した。
  第1次伊藤内閣(だい1じいとうないかく)が、1885年
 12月22日〜1888年4月30日まで続いたが、
  この年、および、この後、自由民権派による三大事件
 建白書(1887年10月)や、大同団結運動(1887年〜1889
 年)、保守中正派(天皇親政派)と見られた谷干城農商
 務大臣の辞任を招くなど、政府批判が一気に高まった(
 「明治20年の危機」)
  そこで、伊藤は、やむなく井上を辞任させて、政敵と
 言える大隈重信黒田清隆をそれぞれ外務大臣・農商務
 大臣として入閣させ、保安条例を制定して自由民権派
 の対策に乗り出したが、
  憲法皇室典範の制定事業に専念するために、
  1888年明治21年)に、総理大臣を辞して新設の枢密
 院議長に転じた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:ダーウィンの進化論
.
1859年11月24日、ダーウィン(50歳)が「種の起源」を出
 版した(11月22日説あり)
  ダーウィンは、エディンバラ大学で良い結果を残せず、
  1827年(18歳)に、父は、ダーウィンキリスト教
 牧師とするために、ケンブリッジ大学クライスト・カレッ
 ジに入れた。
  ダーウィンは、、キリスト教聖職者なら多くの研究の時
 間があるからと、父の提案もあって、この考えを受け入れ
 た。
  しかし、この学校でも必修ではない博物学や昆虫採集に
 熱中した。
  そして、音楽や狩猟を趣味とした。
  この大学は、1831年(22歳)、「中の上」の成績で卒業
 した。
  そして、この年・1831年の末、イギリス海軍の測量船ビ
 ーグル号に乗ることとなる。
  ビーグル号では、幾度か、艦長と意見対立をした。
  後に、ダーウィンは言う、「艦の中では、艦長に対し
 て 通常の範囲で意見表明するのも反乱と見なされかねな
 かった」・・と。
  1832年12月(23歳)には、ダーウィンは、寄航した島か
 ら若い男女を連れ帰るという怪しい行動をしている。
  ダーウィンは、この島の島民は、穴を掘ったような所に
 住み、まるで獣(けだもの)の様だと書いている。
  (この頃のイギリスの探検隊などは、この事例のように、
 まったく簡単に、現地の方々を拉致している。
  まったく有色人種蔑視で、「人間ではない」とキリスト
 教のバチカンは言ったが、この様な行為・対応が普通に行
 われていた)
  当時、囚人流刑地だったガラパゴス島には、1835年9月
 (26歳)に着いた。
  鳥類などを収集した。
  1836年10月2日(27歳)に、ファルマス港に帰着した。
  5年の航海だった。
  1837年6月(28歳)に、航海記を書き終えた。
  翌年・1838年(29歳)、姉が結婚すると、ダーウィン
 結婚を意識し始め、
  この頃のダーウィンの結婚観がノートに記されている・・、
  「永遠の伴侶、年をとってからの友人……いずれにせ
 よ犬よりまし」・・、
  「本のためのお金が減る、おそろしいほどの時間の無
 駄」・・、
  その翌年・1839年1月(30歳)、結婚する、
  そして、この年に、ビーグル号の艦長の著作と合わせ
 て、航海記録を出版した。
  この頃、ダーウィンは、「種が固定されていない」と
 いう証拠に気付いた。
  (キリスト教の神の創り賜いし種は固定されていない、
  キリスト教の神の創ったものは、その後に変わるとい
 う考え方だった)
  当時、この考えに至る種々の論があり、ダーウィンは、
 この論理に気付いた。
  この考えの細部を洗練する調査をした、10年以上、こ
 の考えはあたためられた。
  ダーウィンの生計は、父や叔父の残した財産を運用し
 て成立していた。
  1849年〜1859年(40歳代)、ダーウィンは、この40歳
 代の時に、キリスト教を棄てている。
  1854年(45歳)、再び、種の理論の研究を始めた。
  生物は存続のために争い、これを繰り返すという考え
 を持った(自然選択説)。
  この考えは、当然、その争いに勝つ強いものが残るとい
 う一元的考え方だった。
  また、突然変異について見落としていた。
  また、生存に役立ちそうにないクジャクやゴクラク
 ョウの長い尾羽は、鳥に審美眼があるので発達するので
 はないかと考えた。
  新たな種が形成されることを「種分化」と呼んだが、
 この問題は追求する事を避けた。
  (彼の死後、自然選択だけで種分化は起きるのか?と
 いう議論が起こった)
  1858年7月(49歳)、共同論文の形で、学会で代読発表
 された。
  1858年8月(49歳)、学会誌として印刷された。
  翌年・1859年(50歳)、学会長は、演説で、革命的な発
 見は何もなかったと言い、ダーウィンの発見を見落とし
 た。
  また、ダブリン大学の教授は、「新しい考えは、すべて
 誤りだった」とさえ言った。
  1859年11月22日(50歳)、ダーウィンの本が、ジョン・
 マレー社から発売された。
  ダーウィンは、この書の中で、「進化」を意味する「
 変更を伴う由来」という言葉を使った。
  そして、キリスト教に強く影響されたダーウィンは、
 やはり、「キリスト教の教義・考え方」の影響を受け進
 化論を説いた。
  キリスト教は、平和を求めるとしても「シャローム
 という考え方・教義で、
  「異端の完全撲滅」「異教徒の完全撲滅」の後に平和
 が来る、それを理想としている。
  ダーウィンは、進化論を説くとしても、強者が、強い
 者だけが生き残るのだ、生き延びるのだという「強者生
 存」の考え方を示した。
  キリスト教の考え方・教義に捉(とら)われていた。
  結局、弱者が駆逐される「弱肉強食の進化論」だった。
  強者のみが『適者』『適する者』だとしか見れなかっ
 た。
  ある一面だけの強者に捉われた、狭いキリスト教の考え
 方だった。
  そして、キリスト教は、その強者が(キリスト教の)
 神に選ばれし者との考え方だった。
  故に、その弱者を、「(キリスト教の)神の義によっ
 て、誅するも良し」とした。
  ダーウィンの進化論は、この考え方の中にあった。
  「適合しない者は殺してもよい」「異教徒は殺せ」の
 キリスト教の教義に影響されていた。
  自然に多くある、当たり前にある『共生』の進化論は
 見い出せていなかった・・
  未熟な進化論、未進化の進化論と言える。
  自然に多くある『不善を善にする』『助け合い』の中
 の進化論が、見えなかった。
  例えば1例:落ち葉が落ち、そこにいる微生物によって、
 微生物も生き、それによって腐植土が出来、木も生育し、
 繁茂し、
  繁茂する木々によって、鳥や昆虫などなど、あらゆる
 生物が、生きとし生ける生物が、あらゆる場所において・・
 恵みを受け、輪廻・再生・共生する世界が・・自然が・・
 普通に見られるが・・
  小学校でも、その一部の、「蟻とアリマキ」を習うが・・、
  世界は、「共生だけの世界」が真実だと言ってもよい
 世界なのに・・
  キリスト教の間違った正義の教義に捉われていた。
  不適合者の不適応・抹殺があった。
  弱者だったら、弱者が悪いのだ・・だった。
  殺された側を悪者にして・・平然としている、その様
 な未熟な考え方だった、その様な宗教下あった。
  勝てば何でも正義だった。強ければ正義だった。
  キリスト教は、さらに・・、
  「(キリスト教の)神の創(つく)りたまいし神の創
 造物である人間や動物が、進化したり、変わったりする
 はずがない」と・・言った。
  「(キリスト教の)神が、その神の創ったものが、進
 化したり、変わったりするという『不完全なもの』を創
 るわけがない」と言った。
  進化はここで止まった・・。
  キリスト教の考え方・教義の狭い範囲では・・、
  『共生の社会』を創り上げられ得ない・・
  『助け合いの社会』は出来ない。
  結局、人間を信じてない性悪説キリスト教は、『人
 類へ害悪を与えている』。
  歴史に、「悪の結果」しかない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive