(増補版)236D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1849年〜1850年)

題:(増補版)236D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1849年〜1850年
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1849年(嘉永2年)1月18日、甲州街道日野宿に大火事があ
 った。
  これがあの新選組を生む遠因(えんいん)になったとは・・
  新選組の副長になった土方歳三は、1835年5月に、武
 州多摩郡石田村(現在の日野市石田)に生まれた。
 この石田村は、多摩川と浅川の合流する近くにあり、
 水田の広がる15、6軒の小さな村だった。
  村は、すべてが、土方(ひじかた)の苗字で、
  区別がつかないので、それぞれの家は、家号をつけた呼
 名で呼ばれていた。
  歳三の生まれた土方家は、村では「大尽」と呼ばれて
 いた。
 歳三は、この大尽の何代目かの隼人義諄の末っ子に生
 まれ、兄が3人、姉が2人いた。
  歳三の父は、歳三の生まれる数ヶ月前に病気で亡くな
 っており、母も、歳三が6歳のときに亡くなった。
  その為、歳三は、兄夫婦に育てられた。  
  歳三が、13歳の年の1846年6月、大雨が降り続き、
  歳三の家は、多摩川が洪水となったため、流されそう
 になった。
  そして、その後、江戸へ、丁稚として奉公に出された。
  しかし、歳三は、番頭と喧嘩をして帰ってきてしまっ
 た。
  また、歳三は、18歳のとき、また、上野広小路にあ
 った伊藤松坂屋へ奉公に出た。
  が、これも長続きしなかった。
 歳三の生家・土方家は、農業の傍ら「打ち身や挫き」
 に効く「石田散薬」という薬を作って、売っていた。
  この薬は、土用の丑の日に、近くの多摩川や浅川に生
 えている「牛革草」という野草を採って、日影に干し、
 黒焼きにして、粉にしたものだった。
 この牛革草の採集には、村中の人が手伝いに来た。
  この大勢の人を指揮するのは、歳三が、一番上手だっ
 たと伝えられている。
  この頃の歳三は、家で作ったこの「石田散薬」を売り
 歩いたりしていた。
  また、遠縁にあたる谷保村(現在の国立市)の本田家
 へ「米庵流」という書道を習いに行ったりしていた。
  そしてまた、暇なときには、姉・のぶの嫁入り先であ
 る甲州街道の宿場だった日野宿の名主・佐藤彦五郎の家
 へ遊びに行ったりしていた。
   彦五郎は、歳三より九歳年上の従兄弟で、歳三を弟の
 ように可愛がっていた。
  1849年のこの日野宿の大火事で、佐藤家の近所から火
 事が起こったため、佐藤家も焼けてしまった。
  この火事の最中におこった事件で、佐藤彦五郎は、あ
 やうく斬られそうになった。
  この様なことがあってから、彦五郎は、自分の身を守
 り、また、黒船渡来後、騒がしい世の中から、宿場の治
 安を守るためもあって、「天然理心」の剣術師範・近藤
 周助を招いて、剣術を習い始めた。
  彦五郎は、しだいに剣術に熱中し、自宅の長屋門の一
 部を改造して道場を造り、宿の若い者たちを集めて剣術
 の稽古に励んだ。
  1858年の秋には、鎮守(現在の八坂神社)に剣術上達
 を祈願する額を奉納するまでになっていた。
  歳三も、佐藤家に遊びに行くうちに、次第に、剣術を
 習うようになり、非常に熱心に稽古したためみるみる上
 達した。
  この頃、剣術修行で知り合ったのが、近藤周助の養子・
 近藤勇沖田総司井上源三郎山南敬助たちだった。
  後の、新選組同志たちだった。
1849年2月、眼科・外科のほか蘭方医術を禁ず
  官医に外科のほか蘭方を用いる事を禁ず(氷川清話)
1849年3月、将軍、小金原に鹿狩りす(氷川清話)
  将軍の家慶が、下総国小金原(今の千葉県松戸市)あ
 たりに狩りに行き、本郷奉行が、将軍よりイノシシを頂
 戴したという(これを記載した石碑が残されている)。
  この奉行は、何か良いことをしたらしく千石の旗本だ
 ったが、出世して若年寄を務め、1万石の大名までに取り
 立てられたという。
  祖父の代から何やらと将軍と関係のある家だった。
1849年3月、私に洋書を訳する事を禁ず(氷川清話)
1849年3月、英船、浦賀に来る(氷川清話)(閏4月説あり)
1849年3月、和蘭、初めて牛痘菌を伝う(氷川清話)
1849年4月、葛飾北斎(かつしかほくさい、浮世絵師)が没
 した(1760年〜1849年)(89歳)
  狩野派・土佐派・住吉派・琳派(りんぱ)・洋風銅版
 画など、和漢洋の画法を広く取り入れた。
  画域も広く、日本の誇るべき絵師・画家。
  北斎の作品の一つである「北斎漫画」には、約3000余
 図が載せられており、
  絵の百科事典ともいえるもので、
  古くからヨーロッパにおいても「ホクサイスケッチ」
 と言われて、多大な影響を及ぼしている。
  ヨーロッパの後期印象派の発生に大きな影響を与えた
 人だった。
  富嶽三十六景は、北斎の才能が輝いている。
  北斎の言葉:
  九十歳よりは、又々画風をあらため、百歳の後に至り
 ては、此道を改革せんことをのみ願ふ(絵本彩色通)
1849年5月、異国船打払令復活の可否を諮問。
  幕府は、1844年〜1853年の間に、異国船打払令の復活
 を三度も試みた。
  この年の5月 幕府は、三奉行・大小目付・海防掛・
 長崎・浦賀両奉行・江戸湾沿岸警備4藩などに、
  外国船打払令復活の可否を諮問した。
  会津藩松平容敬、同令の復活不可を答えるなど・・、
  海防不十分を理由に否とされたが・・
  過去に、水戸藩の前藩主である徳川斉昭は、強硬論を
 唱えていた。
  斉昭が、老中の阿部正弘に出した書簡には・・嘆息い
 たし候(そうろう)と書かれている。
  下記は、1846年 2月 29 日付のその書翰・・、
  「異船に是迄漂流と申は承り及申さず候は、畢竟打払
 候を恐れ、日本近く船を寄申さざる故、漂流もこれ無き
 事と存じ候所(割注略)、打払止候えば、自ら日本海
 くを乗廻し候わんも量られず候(中略)打払御止は、近
 来の大不出来と拙老(斉昭)は毎度歎息致候」
1849年6月、再種痘のため、モーニケが頼んだ注文の苗痂
 (牛痘痂)を蘭船が大切に積んで入港(長崎)した。
  江戸町の阿蘭陀通詞会所にて、蘭館医モーニケが、バ
 タビアから取り寄せた牛痘苗で種痘を行なう、
  わが国で牛痘苗での種痘が成功する
  モーニケは、楢林宗建と協議し、小児に接種すること
 を決め、
  モーニケが、江戸町の阿蘭陀通詞会所で、種痘を始め
 る。
  そして、吉雄圭斎・柴田方庵に種痘術を伝授。
  この年の12月27日までに、モーニケが種痘した者は、
 391人にのぼった。
1849年7月、幕府が、松前藩主の松前崇広や、福江藩主の五
 島盛政らに、海防強化のため新城築城を命じた。
  福江藩五島藩ともいい、五島列島の藩)に、「城を
 築き、海岸防衛を厳重にせよ」と築城許可を与えた。
  五島氏の半世紀にわたる築城への願望が成就した。
  翌月の1849年8月に、着工した。
  幕府は、経費の2万両のうち、1万両を貸し付け、早
 急に完成するよう指示した。
  1863年に至り、約15年の歳月を費やして、石田陣屋の
 跡に石田城(福江城)が完成した。
  城郭は、東西160間(約291メートル)、周囲740間(約
 1346メートル)野面積みで、堅牢な石垣を持ち、城郭の
 三方を海に囲まれ、異国警備という使命を持った海城と
 なった。
  そして、城の完成後、藩主は、40歳以下の領民に、禁
 酒令を出すなど、藩の財政建て直しに懸命となった。
  明治になって、1872年(明治5年)、石田城は、新政府
 に収納された。
  城と備えつけの武器や馬具の一切が売り払われた。
  石田城の生命は、わずか10年足らずと短く、時代の変
 遷にふりまわされた。
  石田城は、江戸時代を通じて築城を許された例外であ
 り、わが国最後の築城となった。
1849年8月、楢林宗建が佐嘉藩内で種痘を実施する。
  佐賀藩は、肥前佐嘉郡佐賀の藩名とある。
1849年9月10日《07/24》、江戸町の阿蘭陀通詞会所に、伝
 習所兼種痘所がおかれ、
  モー二ケが、吉雄圭斎、柴田方庵に実地指導した。
 蘭医・楢林宗建は、自分の三男と2人の幼児を実験台
 として送った(ジェンナーと同じ)
  モー二ケは、幼児たちの両腕に新しい牛痘痂を接種し、
 大成功となった。
 以後、これを種として、次々と種痘が行われた。
1849年10月29日、勝海舟、次女孝子誕生、後、疋田氏に嫁
 す(氷川清話)
1849年12月、諸藩に海防の強化を命ず。
  幕府は、打払令復活を予告し、諸大名に防備の強化を
 命じ、四民には海防への協力を命じた。
  また、この年は、海防策についての意見書を幕府に提
 出する者が多数いた。 
1849年12月、外国船への薪水給与令を厳しくした。
1849年、吉田松陰(19歳)が、この年、家職の山鹿流軍学
 師範となった。
1849年、成島司直(なるしまもとなお、幕府奥儒者)らの
 『徳川実紀(とくがわじっき)』が成った(1778年〜
 1862年
  司直は、将軍の侍講となり、政治改革の上書を奉るな
 ど活躍したが、1843年に、免職謹慎と命じられていた。
  理由は不明となっている。
  徳川実紀は徳川家の歴史書、516巻、1809年に着手した。
  将軍の一代ごとに言行、逸事などを叙述している。
1850年嘉永3年)、世界人口が、11億人になる(10億人の
 記述もあり)
1850年1月、佐藤信淵(さとうのぶひろ、経世家)が没し
 た。
  『混同秘策』と『垂統秘録』で、経済危機解消のため
 の統一国家の構想と、日本中心思想の上に立つ海外侵略
 方策を展開している。
1850年2月、幕府が、勘定奉行の石河政平らに、江戸近海の
 巡視を命じた。
1850年3月、各藩に海鼠(かいそ、ナマコのこと)などの密
 売を禁ず。
1850年4月、イギリス捕鯨船が、蝦夷地マヒルに漂着する。
1850年5月、幕府が、海防掛に機密の漏洩を禁じ、また、民
 間でみだりに海防について雑説を唱えることを禁じた。 
1850年6月、和蘭、再び欧州の形成を告ぐ(氷川清話)
  オランダ船が、長崎に入港し、米人の通商を求むる企
 てあるを告ぐ。
1850年9月、江戸市中での練兵を許可。
  幕府が、江戸市中における鉄砲の四季打を許し、旗本・
 諸藩士の修業を奨励した。
1850年9月、勝海舟、父小吉逝く、牛込赤城下の清隆寺(
 日蓮宗)に葬る(氷川清話)
1850年9月、勝海舟、私塾を開き蘭書を講じ、西洋兵式の講
 義を始む。杉純道(亨二)が塾長(氷川清話)
1850年9月、蘭書翻訳取締令(らんしょほんやくとりしまり
 れい)
  1849年から1850年にかけて、幕府が出した一連のオラ
 ンダ語などのヨーロッパの文献に対して行われた翻訳、
 及び、刊行に関する規制。
  18世紀後半から、蘭学が急速に広まって来たが、同時
 に、その思想的影響が幕藩体制に対して悪影響を与える
 という危惧する意見も高まった。
1850年10月、佐賀の反射炉成る。
  築地反射炉(ついじはんしゃろ)、佐賀県佐賀市にあ
 った反射炉
  海防の必要性が高まったので、鉄製の洋式大砲を鋳造
 するため佐賀藩によって築造された。
  この年に、日本初の実用反射炉として完成した。
  翌年の1851年に、日本で初めて鉄製の大砲を鋳造した。
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 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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