(増補版)107特C3/3:気になった事柄を集めた年表(1602年〜1620年)

題:(増補版)107特C3/3:気になった事柄を集めた年表(1602年〜1620年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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  以下に、この頃の、日本におけるキリスト教の活動と、
 幕府などの対応を、主にまとめました。
  キリスト教会は、日本に迫害があったとひたすら過激
 に言いますが、日本人の穏やかさがこの面でも出ていま
 す。
  また、キリスト教に偏するNHKも、ひたすら殉教だ・
 殉教だと言い、また、放送しますが、幕府は法を犯した
 キリスト教宣教師を取り締まったというレベルです。
  NHKの事実誤認を惹起させる報道姿勢を糾弾します。
1602年7月3日、島津藩島津家久は、貿易をしたいため家
 臣を、1601年に、フィリピンのマニラに派遣した。
  そして、その家臣は、貿易と宣教師派遣に関しての返
 書をもって帰国した。
  キリスト教宣教師の派遣が出来る事が貿易の条件だっ
 た。
  藩主・家久は、貿易がしたかったため、1601年8月22日
 付けで、宣教師を派遣して良いという返書を送った。
  そして、1602年7月3日に、第一次と称するキリスト教
 宣教師団の5名が日本に来た。
  藩主・家久にすれば、貿易だけがしたかっただけなの
 に、この様な条件が付いて来たと、1601年8月22日に許可
 したのだった。
  まだ、関ケ原の戦いが終わったばかりで、江戸幕府
 開設されてないこの時、そして、徳川の政治もこれから
 という時だった。
  この宣教師らは、その様な時代の中を自由に宣教した。
  藩主も許可していたので、まったく自由に動き回るこ
 とができた。
  ここの所の記述において、キリスト教会の記述は、ひ
 たすら迫害されたと過剰に記すが、まったくの嘘の記述
 で、藩主が許可していて迫害など全くなく、自由に動き
 回っている状態だった。
  また、この頃の家康も、キリスト教の真の目的(キリ
 スト教宣教師は、領土獲得の尖兵の使命を受けていた。
 キリスト教本部への宣教師の報告書でも、その事が、記
 述されていて分かる)を知らず、江戸に宣教師を来るよ
 うにとか、京都に教会を建てて良いとかと言っている。
  キリスト教会がいう様な「迫害」などまったくない。
  そして、島津家も、家康へ状況を知らせている、
  そして、徳川家の考えを伺って、その通り行動してい
 る。迫害なんて全くない。
  それをキリスト教会は嘘記述をする。
  村人も、日本人の性格の良さが出ていて、純真で、目
 を患った神父を助けている。迫害なんて全くない。
  キリスト教会は、意地が悪く書く。
  日本は、迫害行為をしているヨーロッパとまったく違
 うのだ。
  キリスト教バチカン政庁に残っている資料が、その
 日本の誠実さを物語っている。
  まだ、何も知らない薩摩藩主も、キリシタン側へ土地
 を提供し、教会や修道院を建ててやっている。
  また、多くの蝋燭や米の寄進を申し出ている。
  ここの所を、キリスト教会は、「貿易があるから迫害
 が無かった、貿易が無ければ迫害は確実だった」とかと、
 日本を悪い方向へと書く。
1607年7月に佐賀に教会と修道院を建設している。それも、
 あちこちに。
  そして、その10年後・・・
  キリスト教についての状況が分かって来ると・・
1616年7月、キリスト教宣教師が、京都から長崎へ移る。
  キリスト教の真の目的を知った幕府は、1612年に、キ
 リスト教を禁止するが・・、
  そして、キリスト教宣教師たちを乗せた追放船を出航
 させるが、
  キリスト教は、卑劣にも日本へ宣教師たちを潜行させ、
  そして、宣教師たちに活動させた。
  第二代将軍となった徳川秀忠は、その為、キリスト教
 の取締りを強めた。
  このため、京都で活動していたキリスト教宣教師が、
 京都に居られなくなり、長崎に移っただけのことを、キ
 リスト教会は、「迫害だ、迫害だ」と騒ぎ立てる。
  本当は、法を犯して宣教活動をしていたので、捕らえ
 られるところなのだが、捕らえられずに長崎に移れたの
 だ。
1616年12月、キリスト教宣教師の潜伏発覚したので、捜索
 が開始される。
  キリスト教宣教師が、幕府の法律を守らないで、日本
 に潜伏していることを知った幕府は、その捜索のため、
 幕府の役人の明石内記が長崎に行った。
1617年5月22日、日本に潜伏し、法律を破っていたキリスト
 教宣教師が、とうとう、処刑された(2名)。
  それでも2名。ヨーロッパはその何百倍、何千倍だ。
  キリスト教には、贖宥(しょくゆう)と言って教会が
 罪を許す事が出来る教義があるが、1616年2月には、日本
 人のキリスト教徒間に、この贖宥が原因したトラブルで
 争いが起きた。
  キリスト教の派閥の争いである。
  この様な経過の中で、大村藩主はキリスト教を捨てた。
 棄教してキリスト教を止めている。
  そして、その棄教の後の1617年4月に、一人のキリスト
 教宣教師が逮捕されている。
  そしてまた、その翌月の1617年5月に、また、一人の宣
 教師が逮捕された。
  この2名が、この日に処刑された。
  ヨーロッパでは、あちこちの町で、何千人と魔女にさ
 れた女性が焼き殺されていた頃の日本だった。
1617年5月23日、キリスト教宣教師が殉教だとひたすら言い、
 間違った宣教をした。
  捕まっていない2名のキリスト教宣教師は、昨日の処刑
 を美化した。
  日本の信徒に間違った美化した宣教を行った。
  日本の信徒も洗脳され激情した。
  これを、今・現在のキリスト教会も美化して報じてい
 る。
  殉教だと、だから宣教するのだと、洗脳的な言葉を言
 う。
  それで、日本の法律を破る行為をやる。当然の結果で
 捕まり処刑されることとなる(2名)。
1617年7月23日、捕まったキリスト教宣教師1名と日本人信
 徒6名が、牢屋に入れられながら、自由に宗教活動が出来
 たという。日本は優しい国だ。
  獄吏の黙認の下にできたのだという。
  だが、10月に厳しい監視をする者が来て出来なくなっ
 たという。日本は本当に優しい国だ。
  キリスト教宣教師を匿(かく)まったり不法の行為を
 した者、活動を助けた者が処刑された(2名)。
1618年2月7日、キリシタンの長崎代官(末次平蔵)が、
 1617年12月に、幕府の金を不正に使ったとして訴えたこ
 とが元で調べられ、逆に、宣教師を匿ったことがばれて、
 この日に、長崎に追放処分となった。
1618年2月、天草地方のキリスト教を捨てた者を、キリスト
 教宣教師が元に戻らせたという。
1618年8月13日〜18日、キリスト教宣教師が、マニラから長
 崎に来た。
  この時、日本の保証人が、お金を出して、朝鮮布教を
 できる様にしていたのが、この時に臨んで、そのお金が
 出なくなったので、朝鮮への宣教師は行けなくなったと
 いう。
1619年3月14日、キリスト教信徒が通報して、キリシタン
 教師が捕らわれた。
  「裏切りだ」と、しきりにキリスト教会は言うが・・、
 法律に則った正しい行為だ。
  そして、翌日、捕らえられたキリスト教宣教師。
  そしてまた、その宣教師の下僕が白状して、別のキリ
 スト教宣教師が捕らえられた。
  キリスト教会は拷問があったのだろうと推測して悪く
 言う。
  ヨーロッパのキリスト教会裁判所の魔女の拷問は卑劣
 だったが、それを想像して、日本も同じだと思ったのだ
 ろう。
1619年3月27日、キリスト教宣教師が壱岐島に配流された。
  比較的自由に生活でき、行動できた。
1619年9月、長崎奉行が、一時的に、牢にいるキリスト教
 教師を、ポルトガル人やスペイン人が援助する事を許し
 た。
1619年12月1日、徳川秀忠が、キリスト教宣教師の宿主をし
 ていた村山当安を処刑した。
  親類縁者も処刑されたという。
1620年1月、キリスト教関係の施設の取り壊しが始まった。
1620年3月には、キリスト教宣教師がマニラに帰っている。
  日本は厳しい取り締まりはしていない。
1620年8月4日、オランダ船が幕府の法律行為を助けるため
 か、キリスト教宣教師2名を連行して、長崎に連れて来た。
  この船は、イギリスの海賊行為を受けていた。
  これは償金目当てだとキリスト教会は悪く言う。
  そしてまた、助けようとしたが失敗したという。
  この頃の長崎は、役人や庄屋までがキリシタン宣教師
 の味方をしたという。
  そのぐらい、穏やかな取り締まりの日本だった。
  キリスト教会は、ひたすら苛酷だとか、厳しい迫害だ
 とかと言うが、全く違う。
  「自由に司祭は仕事に行くことができました」と言っ
 ている。
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