(増補版)105C3/3:気になった事柄を集めた年表(1614年〜1615年)

題:(増補版)105C3/3:気になった事柄を集めた年表(1614年〜1615年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1515年5月、かぶき者を取り締まる
  「かぶき者」の風俗が、この年に、幕府の取締り令の
 対象になった。
  その風俗は、髪は大びたい、大なでつけ(総髪)、大
 すりさげ。
  口から下にひげを生やし、刀は長太刀・長脇差を差し、
 朱ざや、大つば、大角つばを帯していた。
  また、ある者は、冬は紺縮緬の大綿を入れて、丈は三
 里つまり膝の下ほどに短く、そこに鉛を入れて、裾がは
 ね返るようにしていた。
  そして、当時、流行の煙草を、長きせるで吸う。
1615年5月、大阪との講和が決裂し、ふたたび戦端が開かれ
 る状況となる。
1615年、大坂の役にあたり、徳川秀忠は軍役規定を定め、
 諸大名に動員令を下した。
1615年、大阪夏の陣
  冬の陣から4か月後に始まる夏の陣の結果は、既に、戦
 う前から分かっていた。
  城を出て戦う術(すべ)しか大阪方には無かった。
  真田幸村は、家康の本陣深く切り込み、家康の旗を崩
 して、家康を蒼くさせたが、遂に、幸村のほか、後藤基
 次、木村重成(しげなり)らの勇士は、多勢の徳川方に
 圧倒されて難波の露と消えた。
  徳川15万5000は、豊臣5万5000の兵を突き崩し、人口20
 万人と言われていた近世都市・大坂の城下町に突入して
 来る。
  淀殿は、千姫を徳川方に送り届けて、最後の助命を願
 ったが、既に、そんな願いは、功名を争い怒涛の如く押
 し寄せる大名連合軍の歓声に消された。
  わずかに、梨子地緋縅(なしじひおどし)の具足に身
 を包み、太平楽(たいへいらく)という黒駒を引き立て
 て、本丸南の桜門まで出たが、城中に寝返りの不穏な空
 気があるとのことで、すぐ引き返した。
  秀頼は、千畳敷御殿に戻ると、夕方、天守に登り、自
 刃を決意したが、側近が押しとどめた。
  淀殿と秀頼の二人は、二の丸の庭を山里に模して造っ
 てある山里輪の蔵に籠った。
  既に、城内は、相手に内応した放火で火の手が上がり、
 一面の火の海であった。
  キリスト教イエズス会の「日本年報」には、「逃げよ
 うとすると敵の刃に出会い、多くの人々が城壁から飛び
 降りて、地面の石にくだかれた」と記されている。
  慶長20年(1615年)5月7日、淀殿は蒸し暑い蔵で、ま
 んじりともせぬ一夜を明かした。
  太閤秀吉の権威をもって、秀頼を守り、何処までも徳
 川の風下に位置する事を嫌って、誇り高く生きた淀殿
 った。
1615年5月7日、関ケ原の恨み
  大阪城が最後を迎えている戦いの中にあったが、この
 日に、大阪城以外の場所である河内八尾(かわちやお、
 八尾市)で、一つの戦いがあった。
  大坂方の土佐勢が、東軍の藤堂勢と戦いを起こしてい
 た。
  「関ケ原の恨みぞ」と、死に物狂いで突進して行って
 散々に打ち破っていた。(参考:竜馬がゆく・1)
1615年5月8日、淀殿、秀頼・・自害
  翌8日、城内はすでに徳川方に押さえられ、城内検視の
 井伊直孝(いいなおたか)らの一隊が、隠れ家の蔵に鉄
 砲を撃ちかけて来た。
  千姫に託した助命の望みを砕く砲声と淀殿に聞こえた。
  速水甲斐守(はやみかいのかみ)が介錯に立つ。
  秀頼は、臆すること無く刃を腹に突き立てて、23歳の
 命を絶った。淀殿も秀頼に続いた(1567年〜1615年)。
  火が放たれ、大野治長ら二人に最後まで従っていた男
 女30人も、それぞれに白刃を突き交わして、淀殿と秀頼
 に殉じた。
  「日本年報」は、
  「大阪城の巨大な天守は、火事が火薬庫に接すると空
 中に飛び上り、大きな爆音とともに破裂してしまった」
 と記した。
  燃え上がる大阪城の炎は、40キロ離れた京都からも望
 め、京都御所では公卿(くぎょう)らが清涼殿から色々
 な思いをはせて見ていた。
1615年5月9日、おねの嘆き
  翌9日、戦闘を逃れた人々が、京中に押し寄せた。
  京都東山の麓、高台寺(こうだいじ)に居たおねは、
 大阪の空に向かって静かに祈っていたという。
  大阪・夏の陣から京都に帰還した伊達政宗に宛てた「
 おねの手紙」は、
  「大阪の御事は、なにとも申し候はんずることの葉も
 御入候はぬ事にて候」とある。
  大阪の今日の出来事は何と言ってよいのか、申し上げ
 る言葉もございませぬ・・と、政宗に痛い心の内を告げ
 ている。
  夫・秀吉と築き上げて来た色々な事々も思っていただ
 ろう。
  おねは、この後、9年の年月の後、寛永1年(1624年)、
 高台寺に77歳の人生を閉じた。
1615年7月、禁中並公家諸法度武家諸法度寺院諸法度
  幕府は、豊臣氏が滅亡した後、「禁中並公家諸法度
 を発布した(17条ある)。
  朝廷の権威増大を警戒し、抑制する目的があった。
  幕府は、天皇の政治上の行為の制限と、栄誉付与の権
 限も抑制し、幕府の承認を得て初めて有効と規定した。
  そしてまた、幕府は武家諸法度13条、および、順次、
 寺院諸法度も発布した。
1615年8月7日、一国一城令
  幕府は、一国一城令を制定した。
  立案者は、大御所の徳川家康だった。
  内容は、一国(大名の領国、後の藩)に大名が居住あ
 るいは政庁とする一つの城郭を残して、その他の城は、
 すべて廃城とする。
  ただ、大藩もあり、施行は弾力的だった。
  ただ、安土桃山時代に3000近くあった城郭が、約170
 まで激減した。
  そして、家臣団や領民の城下町への集住が進んだ。
  徳川氏の大名統制と支配が強化された。
  法令の目的から、西国の外様大名の地域に徹底された。
1615年9月、[ 貿易 ]、日本は鎖国ではない。
  日本は、金銀が豊富に産出した。
  その金銀で、日本は外国との取引を活発にした。
  大阪での戦いまでは、日本に大きな危機感が存在し、
 輸入品は主に武器などの軍需品であった。
  新興の武家が買い求めた。
  後に、豪商などの絹・毛織物・革製品が主要輸入品と
 なっていく。
  国内の戦争の危機が薄れて、輸入品も豊かな品々へと
 変わって行ったが、金銀産出量の減少も見えて来て、輸
 入品の品も見直されて行った。
1615年、豊臣氏のその後
  大阪城を逃れた人々、
  秀吉の血のつながりは絶えたのか?
  秀頼と千姫との間には子供は無かったが、側室に、国
 松という男の子と、もう一人の女の子が居た。
  7歳の女の子は、千姫の養女となった。
  しかし、8歳の男の子は捕らえられて刑に倒れた。
  その二人の母・松の丸殿は、国松の遺体を引き取り、
 誓願寺に葬った。
1515年、情報伝達手段として、三度飛脚による江戸〜大阪
 の通信と、町飛脚が開始された。
1515年魔女狩りで、ストラスブルグで5000人が焼かれた
 (1615年〜1655年)、その他、ヨーロッパにはあちこち
 にある。
1615年、日本の鉄の優秀さ
  イギリスの東インド会社の日本商品に関する期末報告
 書に、日本製の鉄の優秀さが記されている。
  他の国の鉄は、まったく相手にされないと・・、
  日本製の優秀さを知った買い手は、日本製を求めたの
 で、外国製の鉄を買わないので、イギリスの東インド
 社の成績が落ちたという。
  それほど、日本の鉄が最良のものだという事を示して
 いた。
  日本は、基幹の大切な銅や鉄の重要な原料生産国だっ
 た。
  日本は、その様な基幹の原料だけではない。
  この頃のキリスト教宣教師の記した報告に、日本の紙
 の種類の多さは驚くべき数だと言っている。
  このイエズス会の宣教師は、日本の紙の種類は、ヨー
 ロッパの10倍はあると言っている。
  鼻をかむティッシュの様な柔らかい紙まであると言っ
 て驚いている。
  当時、蛮なヨーロッパ人は、鼻をかむのに、服の袖で
 拭(ぬぐ)っていた。
  アメリカ人が、ティッシュを発明したと悦に入ってい
 るが、日本人は、すでに、300年以上も前に、ティッシュ
 を日常使っていたのだ。
  中国のマカオで、1637年に、別のイギリス人が、日本
 人がティッシュの様な紙を使っていることに驚いている、
 感心している。
  このイギリス人は、日本人が懐(ふところ)から小さ
 くたたんだ紙でスマートに鼻をかむ姿を見て、そして、
 その紙を「使い捨て」で処分した姿を見て、日本の文化
 の高さに感心して、おどろいている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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または
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