(増補版)35B:気になった事柄を集めた年表(1189年〜1193年)

 題:(増補版)35B:気になった事柄を集めた年表(1189年〜1193年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1190年2月、安田義定を下総守に選任(転任、降格)す。
  六条殿造営公事(おおやけごと、朝廷の政務・儀式・
 行事など)の怠慢のため降格された。
  しかし、翌年、従五位上に昇格した。
1190年3月、伊沢家景を、陸奥留守職とす。
  奥州総奉行:この年、奥州の御家人統率や幕府への訴
 訟取次の目的で設置された。
  奥州総奉行の設置時に、1189年9月22日の説があるが
 疑問(この時は、頼朝が奥州の合戦中)?
  奥州における合戦の戦後処理のために置いた臨時の職
 で、守護相当の職制と考えられるが不明。
  御家人統制は葛西清重が、訴訟関係は伊沢家景が司ど
 った。
  伊沢家景の役目を「陸奥留守職」と言った。
  陸奥・出羽には、守護が置かれなかったため設置され
 たものだが、その職掌に関しては不詳。
  室町幕府はこれを廃して、奥州探題を設置している。
  これによって、頼朝は、「奥州羽州地下管領」という
 べき権益が与えられ、律令制度下の国衙機構を動かすと
 いう行政権をになう根拠を得た。
  伊沢家景は、「鎌倉殿」の意のままに、陸奥国衙を統
 制し、国務全般を取り仕切る権限を持ったと言える。
  日本は穏便に事を運ぶ国だ、平氏を倒したからと革命
 的に鎌倉幕府の設立へ至ったのではない。朝廷と調和し
 ながら時代が経て行った。
1190年3月、西行が没した(1118年〜1190年)、僧であ
 り、また、歌人でもあった。
  伊勢神宮を参拝したときに詠んだとされる「何事の 
 おわしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼ
 るる」がある。
1190年10月、頼朝が、上洛のため鎌倉を進発す。
  畠山重忠が、先陣にと頼朝に命じられたとか、53番が
 小野寺太郎道綱だの記録があり、また、後陣の輩は未だ
 鎌倉を出ずなどの記録がある。
  長い大軍列で上洛して行ったと考えられる。
1190年11月7日、源頼朝が、精兵を引き連れて、午後に、
 入洛す。この日、雨降るが、午後の一時、晴れ、その後、
 風烈しとある。
1190年11月9日、後白河法皇に謁す、次いで参内。
  権大納言(ごんだいなごん)・右近衛大将(うこんえ
 のだいしょう)となる。
  頼朝は、朝廷から歓迎を受け、また、公卿および市民
 の頼朝への期待が高まった。
  ただ、頼朝が、征夷大将軍の宣下を望んだが、後白河
 法皇より拒否されたという。
  権大納言:定員外の大納言。右近衛大将:令外の官(
 りょうげのかん)。右近衛府の長官。
1190年12月、頼朝が、後白河法皇より任じられた両職を
 辞任した。
1190年12月14日、頼朝が、帰東のため京都を発し、29日
 に、鎌倉に帰着した。
  頼朝は、京都に居る間に職を辞任していた。
1190年頃、絵画:12世紀末〜13世紀初めに神護寺が所蔵
 する三福の肖像画がある(神護寺三像・国宝)。
  平重盛像・源頼朝像・藤原光能像(藤原隆信筆)
1191年1月、公文所を政所と改める(政所に吸収されたか
 ?)(1185年説もある)。
1191年4月、佐々木定重ら延暦寺と対立。
  年貢の未納を口実にして乱入し、殺戮行為をした。
  延暦寺の衆徒は強訴した。佐々木定重は対馬流罪
 死罪の説もあり)となった。
1191年5月、頼朝が、延暦寺の求めにより重定を梟首す。
1192年、栄西が帰国し、51歳の時、臨済宗を広めた。
1192年、建築:浄土寺浄土堂(兵庫)
1192年3月13日、後白河法皇崩御した(1127年〜1192年)
1192年7月12日、鎌倉幕府が開かれた。
  源頼朝は、後白河法皇崩御によって征夷大将軍に任
 ぜられ、鎌倉に幕府を開いた。
  保元・平治の乱より幕府開設までの30余年は、戦乱の
 歴史であったが、ここに収まりに至った。
  第一代将軍・源頼朝(1192・7・12〜1199・1・13)
1192年8月、政子が、源実朝を生む(1192年〜1219年)
1193年5月、曽我祐成と時致兄弟が、富士裾野の巻狩(5
 月)で父の仇敵工藤祐経を討ち取った(曽我兄弟の仇討)
1193年8月、範頼が、頼朝から謀反を疑われ、鎌倉から伊
 豆に配流され、伊豆修善寺に幽され、殺された。
1193年、北方十字軍(バルト十字軍)。
  北ヨーロッパ、および、バルト海沿岸の異教徒に対し
 て行われたキリスト教徒の遠征軍。
  キリスト教の最高責任者のローマ教皇が、1193年に、
 呼びかけて始まった。
  それ以前からも行われていた。
  それで、1154年には、スウェーデンキリスト教
 なっている。
  また、バルト海沿岸に移住していたスラヴ人との武力
 衝突は、この十字軍以前から何世紀ものあいだ、常態的
 に戦われていた。
  北方十字軍による『武力による布教』は、不定期的に
 16世紀まで行われた。
  十字軍の暴力による布教は、春になると到来し、秋に
 なると本国へ帰っていくという季節的な行動だった。
  行動は、キリスト教の布教という宗教の布教活動とは
 程遠い、酷(むご)い殺戮と収奪の行動だった。
  愛の宗教というにはほど遠い行動だった。
  殺戮という、血と共に進軍する殺人の布教集団だった。
  布教行為ではなく、砦を築いたらうまく行ったの集団
 で、『滅ぼした』の言葉を喜ぶ集団、「征服に貪欲」の
 集団だった。
  常に十字軍はこの様な状況で、ローマ教皇は、『死の
 執行者』となっていて、話し合いもできないという、劣
 悪な行動だった。
  1240年に、ロシアのプスコフを征服の例の様な征服
 が、似合う野蛮な集団だった(赤ん坊を火の中に投げ込
 むという残虐行為など)、キリスト教は血の宗教となっ
 ていた。
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