(増補版)34B:気になった事柄を集めた年表(1186年〜1189年)

 題:(増補版)34B:気になった事柄を集めた年表(1186年〜1189年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1186年3月6日、源義経の行方について静御前の尋問をした。
1186年3月27日、この頃まで、北条時政は、頼朝の代官と
 して京都に居た。
  頼朝の代官としての役目は、洛中警備。
  六波羅を拠点として、都落ちした義経の郎党の探索と
 捕縛を行った。
1186年3月、北条時政が、七か国地頭職を上奏す。
1186年3月、頼朝が、関東分国内の年貢運上を誓約、京都
 に申し送った。
  頼朝の考え方:義父・時政に入洛してもらい、洛中警
 護をし、また、近国も統括した。
  そして、朝廷への地頭設置の申し入れもした。
  国地頭には兵糧米の徴収がみとめらていたが、この時、
 西国は飢饉であった。
  百姓の方たちは苦しみ、紛争も多発していた。
  頼朝は、近国37国の国地頭の廃止に踏み込み、兵糧米
 の徴収を廃止した。
  ただし、平氏系の所領には、地頭を置くことを朝廷に
 申し入れていた。
  従来の国地頭に対し、この地頭を荘郷地頭と言った。
  後になって、地頭という名称に統一されていった。
1186年4月8日、釈迦が生まれたこの花祭りの日に、義経
 の側室・静御前(しずかごぜん)が、頼朝の命によって、
 鶴岡八幡宮で舞・うたの奉納をした。
  頼朝は、その舞を見た。
1186年4月30日、この日の日付で、天下の政道のことにつ
 いて公卿に書を送った。
  頼朝は、議奏公卿に期待していた。
  文面には、「天下の政道は群卿の議奏によって澄清(
 ちょうせい、すんできよらかなこと。濁りのないこと)
 せらるべき・・・」云々とあった。
1186年5月、源行家河内源氏)が殺された。
  地元民が密告したことにより見つかり、北条時定の兵
 によって捕らえられ、長男・次男とともに斬首された。
1186年6月、謀反人跡といえども院宣あらば地頭を停止す
 べきことを言上す。
  平家没官領や謀反人の領地にも地頭がいた。
  そして、年貢の納付を義務付けていた。
  その様な領地について院宣があれば停止するとした。
  院宣上皇からの命を院司が出す文書。
1186年9月、地頭の領家側所務を犯すことを禁ず。
  近国37国において、国衙(こくが、国司が政務を行っ
 た役所)の行政に介入することが禁止された。
1186年10月、地頭の非法を停止すべき院宣下され、頼朝、
 それにつき請文を捧ぐ。
  平氏の討伐と言って地頭が置かれたが、その地頭へ勲
 功を与えると称して、不法な事や乱暴が行われる事があ
 った。
1186年12月、天野遠景(あまのとおかげ、武将)が、鎮西
 九国奉行人となる。
  天野遠景の家は、平家の家人であったが、天野家の郷
 が、頼朝が幽閉されていた子供の頃の蛭ヶ小島に近かっ
 たため、源頼朝と狩りや相撲などで交流し、親交を深め
 ていた。遠景は、頼朝挙兵の当初から付き従った。
  平氏追討の大功の12人の内の一人として、頼朝から感
 状を受けている。
  九州における、鎌倉幕府の勢力確立を目的に創設され
 た九州惣追捕使に補任され、
  律令時代の鎮西統治機関の大宰府の機構に関与して、
 実権ある地位に就いた。
  ただ、鎮西での地元の協力は得られなかったようだ。
1187年2月、頼朝の奏請(そうせい、天子に奏上して裁可
 を求めること)により記録所を置いた。
  記録所とは、この年、頼朝の要請によって、訴訟処理
 を主な目的として朝廷に設置された役所。
1187年2月、源頼朝義経の反目により、義経が、奥州の
 藤原氏に身を寄せた。
  「吾妻鏡」によると、1187年2月10日に、義経は、藤
 原秀衡を頼って奥州へ赴いたとある。また、正妻と子ら
 を伴って身を寄せたとある。
1187年8月、千葉常胤・下河辺行平が入京す。
  安房国に上陸した頼朝は、1180年8月に、房総に勢力
 を持つ千葉常胤に加勢を要請していた。
  この様にして味方となった千葉常胤らを、頼朝は、群
 盗を鎮圧してもらいたいとの院宣があったので、京都へ
 派遣している。
1187年10月、藤原秀衡、死す。子の泰衡(やすひら)が
 家督を相続した。
  秀衡は、国衡と泰衡の兄弟が仲よく協力して行くよう
 にと説き、国衡に自分の正室を娶らせ、各々異心なきよ
 うと、国衡・泰衡・義経の三人に起請文を書かせた。
  義経を主君として給仕し、三人の結束をもって、頼朝
 の攻撃に備えよと遺言したという。
  秀衡の正室という人は、藤原基成の娘で、この正室
 娶らせる事によって国衡の立場を強化し、且つ、秀衡の
 後家としての強い立場も持つことになり、兄弟間の衝突
 を回避したいとされている。
  しかし、逆に言えば、父が、これほど心配するほど兄
 弟間の関係は険悪だったと言える。
1188年2月、義経が、奥州藤原氏の本拠地・平泉に潜伏し
 ていることが発覚した。
1188年2月、頼朝が、朝廷に宣旨を下すよう奏上し、そし
 て、義経と基成の追討の宣旨が下された。
  頼朝は、「亡母の供養の五重塔を造営し、殺生はしな
 い」との理由から、年内の軍事行動やしないと表明し、
 義経追討の宣旨を下すよう朝廷に奏上していた。
1188年3月、地頭の非法につき、院が、再び、頼朝に停止
 を要求する。
1188年10月、義経と基成の追討宣旨が、また、発せられた。
1189年1月、源頼朝が、正二位となった。
  頼朝の妹の婿である一条範保が、正二位に叙せられま
 したとの知らせを持って来たとのこと。
1189年1月、義経が京都に戻るとの意思があると書いた手
 紙を持った比叡山の僧が捕まるなど、再起を図っている
 気配があった。
1189年3月、泰衡が、義経追捕の請文を鎌倉に送る。
  請文(うけぶみ):身分の上の者の仰せに対して承諾
 した事を書いた文書。
  奥州の藤原泰衡が、義経を追捕するようにと命ぜられ
 ていたと言える。
1189年4月、源義経が死す。(衣川の戦い)
  藤原泰衡が衣川で源義経を殺した(1159年〜1189年)
  衣川の館は、岩手県西磐井郡平泉町にあった館。
  ここで義経は自刃した。
1189年6月、泰衡は、義経の首を鎌倉へ送り、
  頼朝への恭順の意を示していたが、
  頼朝にとって、泰衡の奥州藤原氏の存在が、
  この背後を脅かす存在の排除が、重要であった。
  また、義経を匿(かくま)う反逆行為があった。
  頼朝は、奥州出兵の準備を進めた。
1189年7月、泰衡追討の宣旨発行をまたず出兵した。
  頼朝は、大庭景義の「泰衡は、家人(家来・けらいの
 意)であり、誅罰に勅許は不要である」の進言を受けて、
 宣旨なしで出兵したとされている。
1189年8月、7月25日に宇都宮社で戦勝祈願し、
  7月29日に白河関を通過。頼朝が、梶原景季に「能因
 法師の故事を思い出さないか」と問うと、
  景季は、「秋風に 草木の露を露を払わせて 君が越
 ゆれば 関守も無し」と詠んだという。
  戦いながら、8月22日に平泉に入る。
  既に、平泉には火が放たれ放棄された後だった。
  8月26日に、頼朝へ泰衡の赦免を求める書状が届いたが
 ・・泰衡は奥地へ逃亡、北海道への渡航も企てたが、9月
 3日が地元の郎従に殺害された。奥州藤原氏が滅んだ。
  各地から参集した軍があって、頼朝軍の総数は、28万
 4000騎になったという。
1189年9月、源頼朝が自ら奥州に発向し、藤原泰衡(やす
 ひら、1155年〜1189年)の一族を滅ぼした。奥州を平定
 した。
1189年10月、頼朝が鎌倉に帰った。
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