気になった事柄を集めた年表・・、

 題::気になった事柄を集めた年表・・、(2014・10・23 改訂)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 気になった事柄を、年代順に並べていたら、以下の様な、
年表が出来上がりました。
 第二次世界大戦前の、アメリカの対日感情は、どうなの
かなどなどを・・お読みください。
 [内容]:::
紀元前10000〜400年頃、日本の縄文時代。偉大なる日本、
 この様に日本の歴史は遡る。→8650年
紀元前1350年頃、エジプトのツタンカーメンの黄金のマス
 ク。→70年
紀元前1280年頃、エジプトのルクソール大神殿のラムセス
 2世時代。→30年
紀元前1250年頃、モーゼが居たとされている。歴史家は、
 その存在を否定しているが、そして、この頃、このモー
 ゼによるエジプト脱出があったとされる。→150年
紀元前1100年、この頃から、キリスト教旧約聖書が口伝
 承で伝えられていたが、文書となり始めた。〜紀元前100
 年頃まで。→379年
紀元前721年頃、北王国・イスラエルは、アッシリア王・
 シャルマナサルによって滅ぼされた。数万のイスラエル
 人が捕えられて、メソポタミアとメディアに連れ去られ
 た。→124年
紀元前597年に、南王国ユダは、バビロニア王・ネブカド
 ネツァルは、エルサレムを包囲し、ユダ王は捕えられバ
 ビロンに連れ去られた。第1回バビロン捕囚である。→8年
紀元前589年に、ユダ王・ゼデキアの時、ネブカドネツァ
 ルは、再び、エルサレムを攻撃し、陥落させ、王・ゼデ
 キアの両眼を潰(つぶ)してバビロンに連れ去った。第2
 回バビロン捕囚である。この時、ソロモンの財宝のすべ
 てが奪われた。→7年
紀元前582年に、第3回のバビロン捕囚があり、750人ぐら
 いの人がバビロンへ連れ去られた。→44年
紀元前538年に、バビロニアは、ペルシャに滅ぼされ、ペ
 ルシャ王・キュロスは、捕囚民の祖国への帰還を許可し
 た。→23年
紀元前515年、バビロンから帰還した民は、エルサレム
 殿の第2神殿を建てた。→115年
紀元前400〜500年頃、旧約聖書の編集が始まる。→70年
紀元前384年〜322年、アリストテレス。62歳。
紀元前330年に、ペルシャが、マケドニアギリシャのアレ
 クサンドロス大王に滅ぼされた。→120年
紀元前250年頃が中国の始皇帝陵の兵馬俑坑(へいばよう
 こう)。→80年
紀元前200年、クムランで発見された「死海文書」に、こ
 の頃の写本が含まれている。→50年
紀元前100年頃、旧約聖書が完成した。紀元前1100年頃か
 ら書き始めたものの完成、旧約聖書39巻が書き終えた。
 それまでは、口伝承であった。→100年
紀元前63年に、ローマの将軍・ポンペイウスによってエル
 サレムは占領された。ローマの傀儡(かいらい)政権の
 下の政治となる。→37年
紀元前4年、イエス、生まれる。→59年
紀元7年、イスラエルの民が、ローマによって滅ぼされる。
 流浪の民となる。→11年
30年頃、イエス、殺される。→20年
50年頃〜100年頃、この頃にキリスト教聖書の福音書が書
 かれた。→4年
54年、ネロがローマ皇帝となる。
64年頃、ペテロがローマ軍に捕えられ、殺された。ペテロ
 はイエスの第一の弟子、ネロの迫害による、このペトロ
 の墓の上に、サン・ピエトロ寺院がたてられたが4世紀に
 ・・、→2年
66年、ユダヤ人が反乱を起こした。ネロ帝は、正規軍を投
 入した。→36年
67年頃までの間に、パウロは死んだのだろうとされている。
67年7月14日、ローマに大きな火事が起こり、6日間、燃え
 続けた。その日が放火ではないかという噂が市民の中に
 広がった。ネロ帝は、キリスト教徒に放火の罪を着せた。
70年、ウェパシアヌス帝の時、その子のティトゥスの大軍
 団がエルサレムを攻撃した。神殿は焼け落ちた。城壁を
 徹底的に破壊し、人が住める痕跡すらもなくなるほど市
 街を壊した。→3年
73年、ユダヤ人の最後の砦であるマサダが、全員玉砕とな
 って陥落した。ユダヤ国家は滅んだ。ユダヤ民族は離散
 の憂き目にあった。以後、1948年のユダヤ国家建設され
 るまで1875年の月日が流れた。→27年
79年、ポンペイが埋没した。
100年頃、キリスト教聖書の「ヨハネによる福音書」が書
 かれた。→0年
100年代(2世紀)以後、キリスト教の殉教実録や殉教物語
 が生まれ、殉教文学として流布された。→100年
200年代(3世紀)の末、ローマ帝国の様々な地域に、あら
 ゆる階層にキリスト教は浸透して行く。宮廷から貧民窟
 まで、大都市から僻地へと広まり、帝国末期の殺伐な人
 心と荒廃した経済事情の中で拡大した。→30年
230年頃、静岡県沼津市にある前方後円墳の「高尾山古墳」
 は、「墳丘の完成を230年頃」とした。全長62mの古墳
 時代最初期と見られている墳墓である。→83年
313年、コンスタンティヌス帝が、ミラノ勅令を出して、
 キリスト教を公認した。→11年
324年、キリスト教ローマ帝国の国教となった。→2年
326年、コンスタンティヌス帝によって、サン・ピエトロ
 聖堂が建てられた。→4年
330年、コンスタンティヌス帝が、ローマを見捨てて、コ
 ンスタンティノーブルに遷都する。度々の火事に見舞わ
 れた。ローマは、すっかり寂(さび)れていった。
397年、キリスト教聖書が現在の形の様に整(ととの)え
 られ、決定された。これまでの約400年間は、キリスト
 教は聖典の無い年月を過ごした。イエスは、アラム語
 話した。そのイエスアラム語が翻訳されている。翻訳
 による齟齬が発生している。旧約聖書39巻、新約聖書
 27巻、計66巻。仏教経典から見るとささやかな経典と
 なっている。→55年
452年、フン族がイタリア侵入と共に、色々な民族がヨー
 ロッパへ侵入した、匈奴と呼ばれるフン族はインドや中
 国へも侵入した→24年
476年、西ローマ帝国が滅亡した。→116年
592年、佛教興隆の詔(みことのり)が出る、→8年
600年、初めての遣唐使、→4年
604年4月3日、17条の憲法を制定、→1年
605年、斑鳩(いかるが)の宮に移り、法隆寺が建つ、
607年、小野妹子遣唐使とした、日出ずる天子、日没す
 る天子の言葉→15年
622年、聖徳太子が病に死す、翌日、妻も亡くなる、
700年代(8世紀)、ベルベル人のタリクの侵入によって、
 スペイン・ポルトガルの地・イベリア半島が征服された。
 以後、約300年支配する。→12年
712年、古事記712年(上)(中)(下)の三巻、→5年
717年〜741年、この年に在位するレオ3世は、コンスタン
 ティノーブルにあったものに聖像破壊運動(イコノクラ
 ムス)を始めた。首都にあった聖像のほとんどを消滅さ
 せてしまった。多くの教会の装飾や美術品は、オスマン
 =トルコ時代のイスラム教の偶像拒否によって徹底的に
 破壊された。ギリシャ正教の総本山であったアヤソフィ
 ア教会においては、イスラム教徒によってモザイクやフ
 レスコ画すべてが漆喰で塗り固められてしまった。→3年
720年、帝紀・・天皇の系譜、稗田阿礼(ひえだのあれ)
 が暗唱していた、720年日本書紀30巻、→109年
829年、9世紀の初頭に使徒ヤコブの遺骨が発見され、教
 皇のアルフォンソ2世が829年に、ヤコブの墓の上に教会
 と修道院を建てた、これが聖地とされているサンティア
 ゴ・デ・コンポステラの始まり。そして、1478年に、教
 皇のシクストゥス4世が、サンティアゴ・デ・コンポステ
 ラの巡礼は、エルサレムへの巡礼と同等の価値があると
 言ってから、この地への巡礼が増えた。因みに、ヤコブ
 は「雷の子」と言われるほど気性の激しい人だった。
990年代(10世紀末)、キリスト教徒は、イベリア半島
 スペイン北部を占領した。レコンキスタという国土回復
 運動の戦いを、イスラム教徒に挑(いど)む。→10年
1000年(11世紀)、11世紀から(聖徳)太子信仰が大き
 く広がった、
1000年代(11世紀)、使徒ヤコブの墓の上に、サンティア
 ゴ・デ・コンポステラが建てられて、巡礼が始まった。
 エルサレムがトルコに占領され、聖地巡礼が危険になっ
 たため。→0年
1000年代(11世紀)、ヴェネティアが独立国になった。
1100年代(12世紀)、遅れていたヨーロッパ。このヨーロ
 ッパに、イスラム世界から最先端の科学が、そして、ギ
 リシャからは、古代ギリシャの哲学などがもたらされた。
  ヨーロッパが、それらの恩恵に浴して、この時代、ル
 ネサンスと呼ばれる知的高揚があった。→81年
1181年、フランシスコが、アッシジで生まれた。裕福な織
 物商人の家だった。→19年
1200年〜1250年、この50年間に、ヨーロッパで、70もの
 大学が設立された。→4年
1204年、キリスト教の十字軍は、コンスタンティノーブル
 を占領した。多くの略奪品を奪った。その略奪品は、ヴ
 ェネティアに運び込まれた。香料・宝石・織物などは莫
 大な利益をヴェネティアにもたらした。略奪品の商売の
 都。→0年
1204年、十字軍が、コンスタンティノーブルを占領した。
 この影響で、コンスタンティノーブルの人々は、西のロ
 ーマカトリックが異端とみなしたことに驚き、敵対関係
 となった。コンスタンティノーブルの目は東に向いた、
 そして、スラブ人の教化となり、キエフ公国のキリスト
 教化、そして、ロシアにおよび、ロシアはギリシャ正教
 を国教とした(1547年)。→1年
1205年、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会の礼拝堂
 の十字架像を祈っていたフランシスコへ「わたしの家を
 再建しなさい」というイエスの声が聞こえたという。
1220年、フランシスコが、指導者の立場を退く。→89年
1309年、ローマにあった教皇庁が、フランス王フィリップ
 4世によって南フランスのアヴィニヨンに移された。ロー
 マは、ますます寂れた。政治も宗教もローマを去った。
1315年〜1317年、ヨーロッパが天候異変により深刻な飢
 饉となる。餓死者多数。1315年には150万人もの餓死者
 を記録した。また、疾病による死者も増加した。→6年
1321年、ダンテが死んだ。→7年
1328年、フランス国王のシャルル4世が死ぬと、王子が居
 なかったため、王位継承をめぐって、フランスとイギリ
 スの間で、100年戦争が始まった。フランスは、家系が
 絶えたので別の家系の王を即位させた。これに対し、家
 系が絶えたフランス国王の血筋のイギリス国王が、フラ
 ンスの王位の継承権を主張し、フランスに侵攻し、100
 年戦争がはじまった。→20年
1348年〜1350年、ペストが流行するが、特に、この頃の
 流行の猛威は凄(すさ)まじかった。ヨーロッパの3分の
 1の方々が亡くなった。全滅した村もあった。死者を埋葬
 する間もなく、次々と死者が出て、町のいたるところに
 累々と死体が積まれた。→29年
1377年、教皇グレゴリウス11世がローマへ帰還する。
1412年、ジャンヌ・ダルクが生まれた。
1416年、ポルトガルが、西アフリカを席巻し、奴隷貿易
 する。→14年
1430年5月23日、ジャンヌ・ダルクが捕縛された。イギリ
 スとイギリスに味方するフランス軍の一部の策略があっ
 た。また、このジャンヌ・ダルクが活躍したイギリスと
 フランスが戦った百年戦争には「戦地を連れ歩く娼婦
 (従軍慰安婦)」が居た。
  ジャンヌ・ダルクを告発したキリスト教の異端審問所
 に、フランス人のキリスト教司祭(ピエール・コーショ
 ン)だった。このキリスト教司教は非人道的方法でジャ
 ンヌ・ダルクを責めた。また、罠(わな)を仕掛けた糾
 弾の仕方をした。また、ジャンヌ・ダルクを罵(ののし)
 りもした。→1年
1431年5月30日、ジャンヌ・ダルクが火刑(焚刑)に処せ
 られた。19歳の若さだった。キリスト教会の異端審問所
 が彼女に下した罪状は「悪魔の喚起(かんき)、様々な
 異端行為、様々な過(あやま)ち、偶像崇拝、その他」
 という、多くの罪状を付けた。卑劣そのものだった。彼
 女は北フランスのルーアンという所の広場で公開で処刑
 されたのだった。処刑される時、彼女は泣いていたとい
 う。キリスト教の聖職者の司祭が取り囲んでいたという。
 また、観衆が大勢の見物人の中だったという。焼かれる
 前に、彼女は「異教徒で、異端で、偶像崇拝者である」
 と書かれた帽子をかぶせられ、また、杭に縛(しば)ら
 れていた。1412年生まれの彼女のはかない一生だった。
 悪の宗教=キリスト教には救いがなかった。城に立て籠
 るフランス軍は積極的に攻めるという姿勢も無く、また、
 取り囲むイギリス軍も積極的に攻めるというわけでなく、
 兵糧攻めの状態だった。そこに、ジャンヌ・ダルク
 援軍で、フランス軍は活気づき、積極的に攻めて勝ち戦
 となった。この北フランス生まれの彼女の功績は何だっ
 たのか?ジャンヌ・ダルクは、男装をしたのを「異端」
 とされた。キリスト教の聖書に「女は男の服装をしては
 ならない」とあるからである。今は隠しているが・・、
1452年、バチカン宮殿が、教皇ニコラウス5世の時、造営
 された。→1年
1453年、東ローマ帝国の首都のコンスタンティノーブルが、
 オスマン=トルコの攻撃で陥落した。ビザンティン帝国
 の滅亡。これによって、多くの学者やキリスト教聖職者
 が、ローマに逃れてきて、ローマの学問や芸術や宗教の
 勃興に大きな力になった。→7年
1460年代〜1499年、一向宗浄土真宗)の蓮如が活躍す
 る。蓮如は1499年に没した。→18年
1478年に、教皇のシクストゥス4世が、サンティアゴ・デ
 ・コンポステラの巡礼は、エルサレムへの巡礼と同等の
 価値があると言ってから、この地への巡礼が増えた。
1483年、ルターが生まれた。→1年
1484年、教皇インノケンティウス8世が回勅(指令)で、
 魔女の逮捕と裁判を異端審問として行うことを正当とし
 た。→6年
1490年頃(15世紀末)、魔女によって殺される女性が多
 く、最盛期の様子となる。この状態は18世紀の末まで、
 長く続くことになる。主に、キリスト教カトリックが行
 ったが、プロテスタントも行い、キリスト教のすべてが
 行った大悪行。
1491年頃〜1556年、イグナデウス・デ・ロヨラ、初めは
 軍人だった。65歳。→1年
1492年、コロンブスアメリカを発見した、→5年
1497年、ヴァスコ・ダ・ガマ喜望峰を通過し、新しい航
 路を発見した、→8年
1505年、ルターが、アウグスティノ修道院に入った。
1506年、教皇ユリウス2世は、最盛期のルネッサンスの天
 才たちを集めて、サン・ピエトロ大聖堂の再建を始めた。
 建築家ブラマンテ、画家ラファエロ、彫刻家・画家ミケ
 ランジェロ。→0年
1506年4月7日、フランシスコ・ザビエルが生まれた。
 〜1552年、46歳。→1年
1507年、ルターが、キリスト教の聖職者の司祭になった。
 彼は、鬱(うつ)気分で、キリスト教内にある序列(ヒ
 エラルキー)や習慣や富の蓄積について批判した。例え
 ば、サン・ピエトロ大聖堂の膨大な建設資金を得るため
 に、ローマ教皇は、免罪符を盛んに売り出した。また、
 地方のキリスト教会も乱れに乱れ、堕落していた。居る
 べき司祭が居ず、名前だけとなっているのに、集められ
 た金は取り上げられた。
  また、キリスト教聖職者が、無気力で無能な身内の者
 を、自分さえよければ良いと、キリスト教会内の役職に
 つかせることが横行した(今・現在でも、この様な事は、
 キリスト教会に限らずあらゆる所で行なわれている)。
  また、裕福で暇なキリスト教聖職者の肉欲に耽(ふけ)
 る姿が、目にあまる状態だった。そしてまた、この様な
 聖職者の美食に耽る姿も多い状態だった。→5年
1512年、教皇ユリウス2世は、ミケランジェロに命じて、
 システィーナ礼拝堂の天井画『天地創造』を描かせ、こ
 の年に完成した。→5年
1512年〜1524年、スペインとフランスが戦争をした。
1517年10月31日、ルターは、ウィッテンベルク城内の聖
 堂に免罪符のおかしさ、疑問を述べた95の疑問を掲(か
 か)げた、「95カ条の論題」。これは、キリスト教ロー
 マ教会の免罪符販売への抗議もあった。これへの同感の
 意思表示が2週間で全ドイツに起きた。
  当時の免罪符の売り方は、キリスト教聖職者が、ロー
 マ教皇の免罪符販売奨励を意味した教皇の紋章の付いた
 十字架を先頭にして、免罪符の教皇の勅書(書状)を金
 のビロードの上に載(の)せて行列を作って歩き回り、
 説教した。教皇は偉大なのだ。地獄での刑罰はどんなに
 恐ろしいかなど・・。「お金が箱の中でチャリンと音を
 立てさえすれば、たましいは地獄の焔(ほのお)の中か
 ら救われ、飛び出してくる」と大声で叫んだ。人々は繰
 (く)られ、争って買い求めた。大司教というキリスト
 教の高い地位の聖職者が、「懺悔をしなくても、免罪符
 を買えば、死者も救われた事になる、有効なのだ」と言
 った。
1518年6月、ルターの裁判が始まった。罪状は、「異端の
 流布」だった。→1年
1519年、マゼランが世界一周した、→2年
1521年、ルターが、ローマ教皇のウォルムス勅令によって
 異端者とされた。そして、追放の処分となった。そして
 また、ルターの本は、焚本にして処分せよとされた。
1521年1月3日、キリスト教のローマ教会(バチカン)は、
 ルターに正式な破門状を発布した。絶対権力を持つキリ
 スト教ローマ教会のこの処置によって、ルターの法によ
 る保護はないという状態へと追放された事となった。
1521年4月初旬、マルティン・ルター(1483〜1546)は、
 「屋根のかわらほどたくさんの悪魔がいる」と言った。
 そして、この頃、権力絶大なローマ教会は、ルターに『
 異端』の宣告がなされた。その宣告文は、「ルターは自
 由意志を否定する異教徒であり、彼の考えは、騒乱(そ
 うらん)・戦争・殺人・キリスト教界の崩壊につながる。
 ・・誰もルターを匿(かくま)うな。いな、またルター
 に従う者も罪に定める。ルターの本も庶民の記憶から根
 こそぎ葬(ほうむ)り去らねばならない」。
1521年12月、ルターが、聖書翻訳を始めた。聖書の原典
 とされたギリシャ語からドイツ語への翻訳だった。→4年
1525年、ルターが結婚した。キリスト教の聖職者の司祭で
 あり、キリスト教の戒律を守らなくてはならなかった立
 場だったが無視した。子供を6人つくった。→10年
1534年、ロヨライエズス会設立、
1535年〜1541年、教皇パウルス3世が、正面祭壇の『最後
 の審判』を描かせた。→5年
1540年9月27日、教皇パウルス3世が、イグナチオ・デ・
 ロヨライエズス会を正式に認可した。→2年
1542年5月、ザビエルがインドに赴任し、ゴアに着いた。
 36歳。ゴアは華やかで活気に満ちた町だった。しかし、
 キリスト教司祭たちの生活は乱れ、道徳的にも荒廃して
 いた。そして、キリスト教徒の救済をするどころか、自
 分たちの懐(ふところ)を肥やすことばかりしていた。
 商売をし、金もうけにうつつを抜かすという状態だった。
 また、生活も怠惰そのものだった。→1年
1543年8月25日、種子島に、ポルトガル船が漂着し、鉄砲
 を伝えた。→1年
1544年1月15日、キリスト教の日本に宣教師として来たザ
 ビエルのこの日の書簡:「・・(キリスト教聖職者にな
 ろうと)大学で勉強している多くの若者達は、教会の高
 い地位や顕職(けんしょく・地位の高い要職)に相応(ふ
 さわ)しい学問を身につけたいと思うよりも、高位、聖
 職禄(ろく)、司教の地位を得たいと願って学問をして
 いるのです」と。→2年
1546年、ルターが死んだ。63歳だった。→1年
1547年、オスマン=トルコのコンスタンティノーブル占領
 後、ロシア教会は独立した総大主教座をモスクワに置き、
 この年、ロシア正教とした。→2年
1549年8月15日、ザビエルが、鹿児島の海岸に上陸した。
 同行者は、トルレス神父、フェルナンデス修道士、日本
 人3人、船員として中国人3人、計9人だった。この日本
 人の一人が、アンジローだった。アンジローは、人を殺
 したので日本にいられなくなり、海外へ逃れたのだった。
1550年7月に、ザビエルが京都へ行った。アンジローは、
 鹿児島に残り伝道をしたが、うまくいかず反感を買い、
 鹿児島に居られなくなり中国へ逃れた。このアンジロー
 は、人を殺して海外に逃れ、ザビエルが京都へ行った後、
 鹿児島に残ったが、いさかいからか、鹿児島に居られな
 くなり、中国に逃れ、その中国でトラブルからか中国で
 もトラブルから殺害されるという、荒れた経歴から、こ
 のアンジローという男の性格や素性のよからぬ姿が見え
 て来る。→1年
1551年1月、ザビエルは、京都に入れたが、天皇の謁見(
 えっけん)も許可されず、また、ザビエルが希望した仏
 教の中心地の延暦寺の訪問もなされなかった。ザビエル
 は、延暦寺の学問所を訪問したかった。
  この様に、ザビエルの京都訪問は散々だった。ザビエ
 ルはあきらめて京都を去った。ザビエルは、いったん、
 平戸に帰り、その後、山口の大内義隆に、2度目の謁見を
 し、布教の許可を得た。1度目は、義隆を怒らせ、布教の
 許可は得られなかった。因みに、ザビエルは日本語がで
 きず、説教をする人のそばに、ただ立っているだけだっ
 たという。、また、ザビエルは、最初の山口の大名の大
 内義隆と謁見したが、大内義隆を怒らせてしまい、追い
 払われていた。→0年
1551年8月末、ザビエルは、ポルトガル船が豊後に入港し
 たと聞いた。また、豊後の領主の大友宗麟からこのポル
 トガル船入港についての助力を請う書状が来たので・・
1551年9月15日、ザビエルが、山口をたち豊後へ向かった。
 このポルトガル船の船長は、ザビエルと知己だった。こ
 の様子を見ていた大内義孝は、ザビエルを歓待し、布教
 の許可も与えた。この直後の・・→0年
1551年9月28日に、山口で反乱がおこり、ザビエルが数日
 前に布教の許可を貰った大内義隆と嫡子の義尊がともに
 自刃(じじん)して果てた。心労と失望に苦しむザビエ
 ルだった。ポルトガル船の運んで来た本国からの書信の
 内容も、不穏さを増した。→0年
1551年11月15日、ザビエルが日本を去った。→1年
1552年12月3日、ザビエルが死んだ。場所:中国・広東の
 上川(さんちゃん)島、享年46歳。→25年
1577年、南蛮寺が京都に建った。→5年
1582年、天正遣欧使節が長崎から出発した、1584年にポ
 ルトガルのリスボンに到着した。→3年
1585年3月23日、天正遣欧少年使節たちが、教皇グレゴリ
 ウス13世に引見し、九州の大名の大友宗麟有馬晴信
 大村純忠の書簡を渡した。この少年の使節たちは、旅の
 途中で、日本人の女性たちが、南蛮貿易で売られている
 姿をあちこちで目撃した。キリスト教に偏するNHKや放
 送大学は、この件はまったく放送しない。→2年
1587年7月4日、豊臣秀吉が、伴天連追放令を発布した。
1592年、キリシタン大名高山右近が、長崎で没した。
1597年2月5日、豊臣秀吉に迫害されたとキリスト教が言
 う「長崎の西坂で殉教の26人」が十字架刑となる。
  これは殉教ではない、禁教令でほとんどの宣教師が帰
 国若しくは長崎に戻ったが、6人の宣教師は法を犯して
 活動していたから罰せられたのだ。日本人の信徒は、そ
 の宣教師にそそのかされて、やはり法違反行為をした事
 により罰せられた。この6人の宣教師はフランシスコ会
 宣教師。日本は、ヨーロッパの様に無実の人を残酷に殺
 すような事はしていない。これを、キリスト教は、しき
 りに「殉教だ」「殉教だ」と嘘宣伝(プロパガンダ)す
 る。法違反者たちなのだ。ちゃんと法に従った宣教師の
 安全は保たれている。ここが大切な所。ヨーロッパの悪
 行為とは全く日本の場合は違うのだ。自分たちに利があ
 るからと、キリスト教は嘘を言うのは止めなさい。嘘付
 きキリスト教を返上して下さい。長崎の聖人像は嘘でで
 きたものです。→3年
1600年代(17世紀)、この頃のヨーロッパでは、黒人や
 インディオの方々が、猿や狒々(ヒヒ)と並んで陳列さ
 れたり、裸の野蛮人として舞台の上を歩きまわらされた。
1600年、イギリスが東インド会社を設立した、→3年
1603年、オランダが東インド会社を設立した、→11年
1614年1月28日、家康が、キリスト教禁教令を発布する。
1614年11月7日〜8日、キリシタン禁教令で、長崎に集結
 したキリスト教宣教師と主だった日本人信徒を乗せた船
 が出港した。法に従えば、日本はヨーロッパの用に酷(
 むご)いことはしなかった。しかし、法を無視して、日
 本に残り潜行した宣教師が40人ぐらい居た。責任は、キ
 リスト教側にある。→23年
1637年12月11日〜1638年4月12日、島原・天草一揆が起
 こる。これは百姓一揆。これにキリスト教が乗っかった
 だけ。キリスト教はこの戦いの殉教を声高に言うが、幕
 府軍も同じような死者数となっているが、これはおくび
 にも言わないで、キリスト教は『殉教だ』『殉教だ』と
 嘘宣伝する。キリスト教に偏するNHKが同様な間違っ
 たプロパガンダ(嘘宣伝)をする。天草四郎は実在した
 との証拠がない、キリスト教宣教師が言いふらした話。
 NHKもキリスト教徒が大勢死んだと、殉教だと、あた
 かもキリスト教の代弁者の様に言う。NHKは、完全に
 キリスト教側だけに向いた放送をし続けている。
1638年4月12日にキリスト教徒側の原城が陥落した。
1685年、ヨハン・セバスチャン・バッハが生まれた。バッ
 ハは、ルターが勉学に勤(いそ)しんだアイゼナハで生
 まれた。ルターの精神を引き継いだバッハは、その音楽
 には、ルターが糾弾したキリスト教カトリックの堕落へ
 の糾弾の響きがある。〜1750年没、65歳。
1689年、英国議会は、信教の自由を認めた最初の「寛容法
 」を採択した。それは、自分とは異なる宗教的、政治的
 な見解の容認を意味した。キリスト教の教義の「異教徒
 は殺せ」の完全な否定であった。相手の意見が相反する
 ものでも、尊重するのは当然なのだ。キリスト教は、こ
 の様な当然が無い宗教。遅れた宗教となっている。
1786年、ゲーテは、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ
 教会を見るためにアッシジに来たという。→68年
1789年、アメリカの初代大統領ワシントン(在任期間1789
 年〜1797年)は、インディアンの方々を猛獣と言い、狼
 と同じだが形が違うと言った。→57年
1789年、英国の詩人ウィリアム・ワーズワースは、フラン
 ス革命の報を聞くとフランスへ渡った。忌(い)まわし
 い絶対王制が一掃されたと思った。反対者を投獄し、公
 正な裁判も無い、議会の投票制度も無い王制が一掃され
 たのだ。これは素晴らしい出来事と思った。ワーズワー
 スは、それが見たかったのだった。しかし、実際の事態
 は、暴徒が王の様に振る舞い、和平と和解の姿は無く、
 低劣な復讐の世界だった。見せしめの裁判、そして、旧
 官僚や貴族、そして王族の公開処刑が行なわれていた。
 各地でギロチンが使われ、死刑執行人が、恐怖政治さな
 がらに、犠牲者の首を高々と掲げ、民主主義の欠片(か
 けら)も無い狂気と憎悪、政敵の無差別処刑だった。期
 待を裏切られ、恐怖におののいたワーズワースは、フラ
 ンスから逃げ出した。(以上、ポール・ケネディ氏・英
 歴史家、読売新聞)。これと似たこと、第二次世界大戦
 後、アメリカは、日本の政治指導者を、裁くべき法律が
 無いのに、裁判らしい事を行い、日本の政治家を死刑に
 した。分類上は私刑(リンチ)となる。
1846年、アメリカが、メキシコと戦争をして、テキサス・
 ネバダアリゾナ・ユタ・ニューメキシココロラド
 狡猾な手段で手に入れた。→8年
1853年、アメリカの海軍提督のペリーが浦賀にやって来た。
 日本へ開国要求。
1854年、中国人の証人禁止処置。アメリカで、白人が関係
 する裁判において、中国人は証人になれないという侮辱
 的な法律が決まった。すでに、アメリカ・インディアン
 の方々にこの措置はなされていた。日本ではこの様な人
 種差別の法律が通ったことは微塵もない。アメリカは遅
 れた国だった。人種偏見はキリスト教から来ている。
1861年、ロシア軍艦対馬占領事件、ロシアの南下政策の行
 動の中で起きた。日露戦争へ繋がる事件。→0年
1861年アメリカの南北戦争。〜1865年にアメリカの南
 北戦争は終結した。→2年
1867年、アメリカが、ロシアからアラスカを購入した。
1867年、アメリカが、アリューシャン列島・ミッドウェイ
 諸島を新領土の植民地として手に入れた。→6年
1871年〜1872年(明治4年〜5年)、この頃、何でも、か
 んでも、「西洋に学べ、西洋に遅れを取るな」の風潮が
 世を風靡した。この叫びが日本全土を駆け巡り、野火の
 様に広がって行った。西洋の何も分からない時代、ただ
 ただ、西洋は進んでいる、西洋から学べとなっていた。
 こんな時、キリスト教が何たるかを知らず、キリスト教
 を良きものと盲信した。→2年
1873年キリシタン禁制高札撤去。キリスト教は、この日
 までキリスト教徒が迫害が続いたというが、これは「真
 っ赤な嘘」。研究者は「17世紀には幕府はすでに黙認し
 ている」と言っている。ほんの一時期の取り締まりだっ
 た。刑場の柵の一部を開けて逃げることもできる様にし
 てもいた「日本の穏健・温厚さ」があった。キリスト教
 が言う「259年も迫害が続いた」と言うのは、よくも言
 うものだの大嘘。嘘付きキリスト教。→0年
1873年明治6年)、岩倉具視の遣欧使節団がベネチア
 到着した、→6年
1879年、アメリカのカリフォルニアの州憲法で、中国人の
 参政権を拒否した。精神異常者と同様な処置とした。
1882年、アメリカが、中国人の移民を禁止した。この後、
 日本人が移民をしだすが、この中国人の後に、日本人が
 移民をしたということが不運だった。日本人に対しても、
 インディアンや中国人に対するのと同様に、『非白人』
 に関する劣った種の人間との意識が根強くあった。キリ
 スト教に感化された意識だった。この意識が、アメリ
 の指導者階級にまで及んでいた。ジョン・ダワーの言葉:
 「彼らは敏感な白人の様には痛みを感じず、彼らによっ
 て生命は安価だというのだった」。→3年
1885年、内村鑑三は、クリスチャンの女性と巡り合い結婚
 をする。しかし、わずか7か月で離婚した。鑑三はアメリ
 カへわたる。しかし、キリスト教国という期待のこの渡
 米にも裏切られた。その反キリスト教的、また、反人道
 的なアメリカをまざまざと見たからだった。鑑三は言う、
 「これが宣教師によりキリスト教の他の宗教に勝(まさ)
 る証拠なりとして教えられし文明なりや」と。宣教師が
 言った「キリスト教は他の宗教より勝っている」という
 のは嘘だったと思う鑑三だった。鑑三は、新渡戸稲造
 ら「高慢」とか、「利己的」とかと批判されていた。ま
 た、ちなみに、鑑三は、二人目の妻を迎えるが、この妻
 も23歳という若さで亡くなっている。→0年
1885年、ロシアが朝鮮から海軍基地(永興湾)の提供を受
 けようとした、朝鮮の李朝はロシアににじり寄った、日
 英中はこの案を潰した。この反動でイギリスは朝鮮の巨
 文島を占領した。ロシアは怒った。そして、ロシアも朝
 鮮を占領すると言った。中国の仲介によってロシアの占
 領がないことを条件にイギリスも占領を止めた。中国は
 朝鮮への勢力圏を意識していた。各国の欲の勢力圏争い
 が展開した。アフリカ分割の大国の欲が展開することに
 もなる。日本はこの頃から、朝鮮半島から中国に手を引
 かせ、朝鮮の独立のための清国との戦争を意識し出した。
 この様な時、朝鮮に農民の反乱が起き、李朝は鎮圧でき
 なかったため、清国に出兵を要請した。日本は、条約に
 基づいて、中国の出兵を認めずに朝鮮へ出兵した。ここ
 に日清戦争がはじまった。〜1894年。→5年
1890年代、アメリカの作家のスチーブンスンは、大陸横断
 鉄道建設の労務者としてアメリカに連れて来られた中国
 の方々や、アメリカ・インディアンの方々が、「見下げ
 た人種」とされて扱(あつか)われていると報告した。
 また、「身の毛がよだつ害虫」とか、「姿を見ると息が
 詰まるような存在」とかと否定されたりしていると報告
 している。→7年
1897年、新渡戸稲造が、札幌農学校を辞職し、アメリカ西
 海岸で療養生活に入った。稲造は、重症の神経衰弱と診
 断され、休養を取るよう申し渡されていた。→1年
1898年、アメリカが、フィリピン・ハワイ諸島・ジョンス
 トン島・グァム島を新領土の植民地として手に入れた。
1899年、アメリカによるフィリピン征服戦争が起きた。〜
 1902年。マッカーサーの父親が参戦している。また、こ
 の父親はインディアン掃討戦もしている。→0年
1899年、アメリカが、ウェーク島・米領サモアを新領土の
 植民地として手に入れた。→1年
1899年11月、新渡戸稲造の「武士道」がアメリカで出版さ
 れた。「日本人の魂」という副題が付けられた。日本で
 の出版は、この翌年。稲造は書く、その武士道の淵源を
 仏教と神道儒教に見い出される・・と。そしてまた、
 書く、「危険や災害に直面した場合の禁欲主義的沈着さ
 は、仏教から来る」・・と、説明している。
19世紀末〜20世紀初頭、外国勢力による中国分割が進んだ。
 満州(ロシア)、山東省(ドイツ)、華北揚子江流域・
 香港(イギリス)、雲南省(フランス)・・、→0年
1900年、新渡戸稲造が、ヨーロッパへ行き、植民政策の勉
 強をし、その後、台湾へ赴(おも)いた。
1900年、ロシアが中国(清)で発生した義和団の乱の混乱
 収拾という名目で満州へ侵攻した。ロシアは満州を植民
 地化することを既定事実化しようとした。日英米の抗議
 によりロシアは撤兵を約束した。しかし、約束を守らず、
 逆に兵を増やした。そして、朝鮮半島への影響力をロシ
 アは増していた。利権を手掛かりにした。鉱山採掘権や
 森林伐採権や関税件の国家基盤の権利などを取得し影響
 力を増した。日本はこれらを買い戻して回復させた。そ
 して、日本は、外交的に衝突を避けようとしたが、ロシ
 アは軍事力で日本への圧力を増していった。中国への外
 国勢力の進出に対する中国の反発。13カ国が出兵した。
  日本も出兵した。ロシアとドイツは日本の3〜4倍の賠
 償金を要求し、取った。ロシアは兵を撤兵させず、朝鮮
 国境に砲台建設をしたり、シベリア鉄道の群の輸送を開
 始した。脅威が増した。→1年
1901年、第26代大統領セオドア・ルーズベルト(在任期間
 1901年〜1909年)は、アメリカインディアンの事実上
 の絶滅を指示支持すると公言した。→1年
1902年、日英同盟。ロシアの南下に自国の権益を守りたい
 という英国は日本と同盟した。英国はボーア戦争で国力
 が弱ってもいたため。→2年
1904年2月8日、日露戦争が開戦した。日本のキリスト教は、
 戦争に協力するとした。そして、これをきっかけに、大
 日本帝国の国家体制への癒着(ゆちゃく)を強めて行っ
 た。→0年
1904年、アメリカが、陸海軍の統合会議で『世界戦略の研
 究をする』ということを決めた。様々な戦争のシュミレ
 ーションがなされた。この中の対日戦略と対独戦略が仮
 想敵国の意識の中に長く残って行く。日本海軍はどのよ
 うに動くかなど、日本がフィリピンや南洋諸島を進攻す
 ることは算定されていた。毎年、研究が積み重ねられた。
 この計画と全く同じに、アメリカは反抗作戦を実施した。
1905年9月5日、日露戦争終結した。この日に、ポーツ
 マス条約により講和した。→0年
1905年、日本とアメリカは、朝鮮の支配とフィリピンの支
 配について、相互承認の覚書を交わした。→0年
1905年、日本とイギリスは、日英同盟を更新した。その折
 に、イギリスは日本の朝鮮支配を承認した。また、その
 代わりに、日本にインド防衛の同盟義務を負わせた。
1906年、サンフランシスコの教育委員会が、日本人の学童
 を公立の小学校から隔離(かくり)する事を決定した。
 『日本人学童は東洋人学校に通わせよ』という決議を採
 択したのだ。この問題を契機にして、日本とアメリカの
 間に戦争が起きるという『開戦説』が燃え上がった。新
 聞は、日露戦争の後に除隊した日本の兵士が大挙してア
 メリカの太平洋側に押し寄せてくることは確実だ、など
 と書きたてた。アメリカ首脳陣の中にも、この様な危機
 感があった。ルーズベルト大統領の発言に「日本が中国
 を改造するのに成功すれば、白色人種に関する限り、世
 界の勢力均衡に大変動をきたすはずだ」と言った。つま
 り、日本の支配の下に中国の資源と中国人のマンパワー
 で白人世界が確実に挑戦を受けるという考えが沸き起こ
 った。発展する日本と中国との連合の恐怖が西洋の歴史
 によくある人種間の対立のイメージとなった。→1年
1907年、日本とロシアの間で、日露協商が成立した。これ
 によって、日本の朝鮮半島南満州の勢力範囲が合意さ
 れ、また、ロシアの外モンゴル北満州の勢力範囲が合
 意された。これで、南下するロシアとの摩擦は一段落し
 た。→3年
1910年、日韓併合。→1年
1911年、日本とイギリスの同盟関係の条約である日英同盟
 が更新された。→1年
1912年、アメリカが、パルミラ島を新領土の植民地として
 手に入れた。→1年
1912年、内村鑑三の愛娘(まなむすめ)ルツ子が亡くなる。
 18歳。病名不明。これによって、鑑三が、再臨信仰にな
 る。終末の時、真のキリストが顕(あらわ)れるという
 信仰。愛娘の死とともに、第一次世界大戦キリスト教
 国のアメリカが参戦に踏み切ったことに対する絶望があ
 った。鑑三には、現実の地上での希望が絶望し行き詰っ
 た。自分の力で何とかなると思うのは間違いだったと思
 い、また、何とかなると思うのは愚(おろ)かだったと
 いう考えだ。後に、鑑三は、この考えは、再臨待望者や
 再臨狂を生むことになりかねないと言った。
1913年、アメリカが、『外国人土地法』によって、日本人
 の移民は土地を所有してはならないとした。日本人移民
 の土地所有権を剥奪した。→4年
1917年、ロシア革命が起きる。→7年
1924年アメリカで『排日移民法』が成立した。この法律
 で日本人は、アメリカへ渡航できなくなったが、この時
 まで、アメリカへ移民できた日本人は、20世紀初頭から、
 同じ時期に、アメリカへ渡ったヨーロッパ人の人数の1ヶ
 月分にもおよばないという僅かな数だった。日本人は、
 2世の方々を入れても、アメリカの総人口の0.1%という
 僅かな人数だった。しかし、アメリカの排日論者たちは、
 日本人が、大群となってやって来たと騒ぎ、西海岸を支
 配し、白人を追い出すと叫んだ。新聞は、センセーショ
 ナルな日本叩きを行った。アメリカ議会の上院では、新
 聞社主のマクラーチーが、日本からの移民を禁止しない
 と、アメリカは、日本のある一つの州にされてしまうと、
 大変、偏向した演説をした。→5年
1929年、バチカンとイタリアの間にラテラーノ協定が締結
 され、バチカン市国となった。→4年
1933年、第32代大統領フランクリン・ルーズベルト(在
 任期間1933年〜1945年)は、日本人が凶暴なのは頭蓋
 骨の形が違うからと本気で信じていた。→6年
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、第二次
 世界大戦がはじまる。→2年
1941年12月8日、日本がアメリカのハワイ真珠湾を攻撃し
 て大東亜戦争(太平洋戦争)がはじまったと言われてい
 るが、実際は、アメリカの軍艦が、日本の先行していた
 潜水艦へ、機雷攻撃をし、すでに戦端は開かれおり、ま
 た、このアメリカ軍艦はこの交戦事実をアメリカ司令部
 へ送信し知らせている。日本の攻撃はこの事実より奇襲
 ではなく、すでにアメリカの知るところの中にあった。
 アメリカは国民世論の操作目的から、日本の奇襲をデッ
 チアゲたかった。→4年
1945年8月15日、大東亜戦争(太平洋戦争)が終わる。
1948年、イスラエルが建国される。新イスラエル国家誕生
 まで流浪の民となっていた。→28年
1976年、教皇パウルス6世は、サン・ピエトロ大聖堂の墓
 で、ペトロの墓を発見したと発表した。→12年
1988年、第二次世界大戦の頃、日本人を『JAP』と呼び、
 帰化不能外国人としたり、土地所有が出来なくしたり、
 「裏から忍び寄るJAPの広告」があったりの人種偏見が
 あったことをアメリカは認めた。→26年
今・2014年
..
 (詳しくは、以下のブログへ)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009