同民族を・・強く意識する宗教・・、

 題:同民族を・・強く意識する宗教・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 キリスト教は、『同民族を強く意識』する『民族宗教
の態を持っている。民族宗教です。
 そしてまた、キリスト教は、諭(さと)し、教える宗教
ではない。「駄目なら殺す」の宗教である。
 「ソドム」と「ゴモラ」もこれ、
 堕落したから殺すしかないと滅ぼされてしまった。
 本国のキリスト教から、人ではないと言われ殺され、全
滅の憂き目に合うインディオスの方々は、筆舌につくせぬ
多くの人々が殺された。
 キリスト教は、この様な宗教。「愛はごまかしである」。
 キリスト教聖書の(「創世記」19)をご覧いただきたい。
 これにも酷(ひど)い話が記されている。
 キリスト教の神は、神に「救ってください」と祈ったも
のだけを助けている。
 祈らない者は、「異教徒は殺せ」と同じ、殺して良いの
だのキリスト教の論理・教理である。この様な考え方であ
るため、それ以外の人は殺す。
 惨(むご)い話、惨いことに、広島・長崎の人々を殺し
たのは、早く戦争が終わってアメリカ兵士が救われたの論
理である。何ら戦争に関係のない方々の命を奪い取り、
戦争に従事している人の命と引き換えにする。卑劣なキリ
スト教の論理である。
 キリスト教の聖書には、この様な話がいっぱいある。読
んで何らためにならない。人殺し論理が、曲がった論理が
いっぱい書いてある。
 その1例。キリスト教の神は、その祈った者を救うために、
町の人々の上に火を降らした。しかし・・、
 事もあろうに、キリスト教の神は「ソドムとゴモラ」を
殺そうと、祈った者たちも殺した。
 「ソドムとゴモラ」も死んだが、何ら関係のない町の人
々もお構いなしに、キリスト教の神は極悪行為をした。
 キリスト教の神へ祈る行為をしてない町の人々もいただ
ろうが、その町の人々の命を無視した。
 虫けらの如(ごと)くに考えた。
 命を大切にしないキリスト教、虫けらの様に殺される人
々がキリスト教聖書のあちこちに記されている。
 子供たちが、この様な話に洗脳されることを恐れる、心
が痛む。
 「広島の原爆」「長崎の原爆」、これによって戦争が早
く終わって「アメリカ兵士」が死なずに済んだと、キリス
ト教の神に祈る人の少ない人々という観念で広島・長崎を
見ていた。今・現代でも、この見方だ。
 キリスト教以外は悪だと・・。
 そう言う、キリスト教こそ悪だと言いたい。
 今・現代、日本の企業はこの呪いの言葉におびえている。
 今・現代でも、この筋の通らない論理を言っている。
 広島・長崎の人々は、キリスト教の神には、配慮外の人
々、目の中に入らない『他の民族の人々』だった。
 創世記に記されているキリスト教の神も、卑劣にも、草
木もろとも、人々を滅ぼしてしまった。
 あちこちに惨(むご)い記述の聖書、そのキリスト教
論理に洗脳されて、戦争が無くなる訳がない。
 次世代に残してはいけない宗教、人類は救えません、
 あなた方も幸せにはなれません。
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 そして、次の話。
 熱心なキリスト教信者の作家・加賀乙彦氏は・・、イエ
スについて言う、
 「俗世の中に出て行き、無一物となって他人のためにお
のれをむなしくして尽くした」・・と、美しく言う。
 作家らしく美しい文となっている。
 しかし、イエスは無一物ではない。
 イエスの生まれ故郷の人が『うらやむほど』の物持ちで
あった。
 加賀氏は、熱心のあまり「言い過ぎて、結果、嘘となる
事をよく言う人」だが・・、
 イエスは、金銭的に恵まれた富裕者だった。
 日本の行脚(あんぎゃ)の仏教の聖人の様な、『本当の
無一物』で行脚した日本の聖人、宗教人とは全く違う。
 エルサレムの人々からも、「大酒飲み」とか、「大飯食
らい(おおめしくらい)」とかと、蔑(さげす)み言われ
ていた人だった。無一物の姿はまったくない。
 加賀氏も、この事を知っていて、よく言うものだと思う。
 イエスは、エルサレムの人々が羨(うらや)むほどの恵
まれた生活をしていた。
 また、イエスの幼少の頃からを知る故郷・ガリラヤの人
たちは・・イエスの事を・・、
 「予言者とは、うまい事をやってるな」と言っている。
 当時、エルサレムには、収入が多く得られる職業だった
予言者が多く居た。イエスもその一人だった。
 イエスの収入は恵まれ、優雅な生活だった。弟子たちと
の最後の晩餐風な会食はよくやっていたのだろう。外食を
喜ぶ子供ではないが・・、
 また、街の富裕層の人、裕福な生活をしている取税人の
家に上がり込んで飲み食いし、エルサレムの人からの上記
の様な罵声(ばせい)となっていた。
 キリスト教研究者によれば、イエスはやせ細った姿に、
今・現代、印象付けられているが、実際は太っていただろ
うという。
 イエスは、宗教家としての行いもしない、托鉢もしない
人だった。
 逆にいえば、宗教家の行もしない、恵まれた状況に居た
人と言える。
 しかし、キリスト教は、この一切を隠し、嘘の美化まで
して、イエスを偶像化している。
 キリスト教が忌み嫌う「偶像化」をしている。
 キリスト教偶像崇拝宗教と言える。
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