未来の人類のためにも、残してはならない。

 題:未来の人類のためにも、残してはならない。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 キリスト教聖職者の書く本の中の一説に、
 「ユダヤ人の長い歴史のどの一こまをとってみても、彼
等(ユダヤ人)が苦難に会わなかったときは無かった。
 聖書全体が、ユダヤ人の苦難の歴史そのものだと言って
もよい。
 苦しみを経験して初めて、人間らしい人間が生まれる」
・・・とある。
 ユダヤの方々が苦難の環境に居たということは同情され
るが、
 このキリスト教聖職者の「苦しみを経験して初めて、人
間らしい人間が生まれる」という論理には賛成しかねる。
 どちらかというと、これは、我田引水的な言い方だ。
 苦難の環境に居たという事と、「買ってでも苦労しろ」
との教えは同じではない。
 ものごとは挑戦することが大切。難しいことに努力して
立ち向かうことは大切。
 しかし、ユダヤの方々の死ぬような戦乱の環境を『人間
のためには良いのだ』と言うキリスト教聖職者の言い方は
我田引水の論理だ。
 本当は、本論は、ポジティブに良いことを言い、そして、
教え、育てなければならない。
 科学的にも、『ポジティブに言う方』に軍配が上がって
いる。
 褒め、育て、見守っていて、そして、いつも寄り添い、
 その時その時に、その子や人々に役に立つことを、
 知ってもらって、理解してもらって、そして、行かなく
てはならない。
 だから、本当は、会わないでも済む苦難は、「会わない
方がよい」・・が、正論である。特に、死ぬような苦難は
起きてはならないのである。特に、戦争は悲惨そのものだ。
ユダヤも戦乱が引き続く地だった。
 苦難と『立ち向かうべき壁』とは違うのである。
 そして、この聖職者は、「苦難の中に生き抜く生命力を
この身に体得することでなくてはならない」・・と言って
いる。
 ものは言いようである。死ぬような体験が役に立つとい
うのである。しかし、リスクの大きいことをして、死んで
はおしまいである。例えば1例、みんながみんな、エべレ
ストに登るのが良いという論理は成り立たない。
 キリスト教はネガで出発するから怖い。
 全体がネガなので出発は必ずネガからの出発である。
 話は少し外れるが、ネガからの発想の出発は、認知症
もなる確率が高いという結果もある。
 南米のインディオ・・・、
 南米のインディオは殺されてしまっている。
 殺すところまでやっている。
 全滅させられてしまっている。
 死んでしまっては何にもならない。
 パレスチナ・カナン・イスラエルの地も、血を血で洗う
地であったが・・・、
 何をか言わんやである。
 愛する我が子が、死に直面し、死ぬようなことでも「厭
(いと)わず」とでもいうのでしょうか?
 その一方、キリスト教は矛盾したことをしている宗教だ。
 今、キリスト教組織は、「頑張るな」のキャンペーン運
動をしている。
 NHKの討論番組でも、このキリスト教の運動に則(の
っと)って、この類いの討論番組をやっている。
 国際基督教大学の教授が、名前は匿名にするが、この番
組に参加している。
 教授は、この論点のみによって「討論に参加し」、討論
番組であるのに、この論点だけを以って、何の論点の広が
りもないまま、宗教的に、教示的に、この事のみを言い続
けた。
 何の論理の広がりもないNHKの討論番組を、延々と、
長時間、放送し続けた。
 受信料が払いたくなくなってしまう番組であった。
 それにしても、NHKは、キリスト教に偏する。
 何で、こんな人選をするのか?
 論点の深まりもないまま、
 キリスト教の演者も、論点の広がりも、何ら披露する事
が出来ずに、番組は進んだ。
 討論番組としては成立しない大失敗。
 この討論に出席されていた文部科学大臣から「頑張り、
そして、その頑張った結果が、正しく評価される社会でな
ければならない」という正論を言われ、
 キリスト教は、何ら反論もできない状態であったが、
 この事例の様なピントのずれたことを良くする宗教であ
る。
 キリスト教は、3つの共観福音書というものを持ってい
る。
 そして、その共観福音書以外に「ヨハネによる福音書
という福音書を持っている。
 合計4つの福音書を持っているが、
 この毛色の変わった「ヨハネによる福音書」を、「捨て
よう」との話し、論理の展開があった。その様な動きがあ
った。
 逆に、共観福音書より深い「ヨハネによる福音書」こそ
大切にしなければならないのに、
 『異端抹殺』の性癖のあるキリスト教は、この様に、聖
書の領域までも、この様に考える。
 「異教徒は殺せ」のキリスト教の教義のように、違う意
見を、直ぐ、抹殺する性癖のキリスト教は、すぐこの様な
思考を展開する。
 底の浅い宗教の原因となっている。また、愛など全く存
在などしない。
 この「ヨハネによる福音書」にも、キリスト教の限界が
見える。
 その1例は、(「ヨハネによる福音書」14・6)に、
 「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでも
わたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」
とある。
 結局、キリスト教は、『排他』の宗教性から抜け切れて
いない。
 信じない者を、信じられない者を、信じていない者を、
異端とし、異教徒とし、その様な目で見て、その決定事項
のみによって、判断し、膨らみもない視点で、固定的な判
断基準で、狭い『自己中』の中で、排除し、殺して来た。
その様な、考え方・教義・哲学である。
 キリスト教徒同士でさえ、異論を異端とし、「異端審問
所」を存在させて、なんと多くの方々を殺したと言うのか。
 馬鹿め!
 「一神だから」という言葉で、『だからこの様なことぐ
らいはあるのよ』と言う。
 洗脳されたキリスト教のこの言葉が印象的に残って、記
憶にあるが・・・、
 何が愛の宗教と言うのか。
 キリスト教は異端を殺す事を容認し、
 キリスト教のこの壁・限界を乗り越えられずにいる。
 恐ろしいことに、これを正しいものと誤認混同している。
 わずかに居るオカシイと思う信徒の人たちも、『それで
いいのだ』という気持ちにさせている。
 増上慢である。
 常に、寄り添い、導(みちび)き、喩(さとす)、佛教
の姿に学びなさい。違っても受け入れるのだ。
 「(キリスト教の)神の義があれば、人を誅してもよい」
とまで言う。
 他民族を、異教徒の方々を、どのぐらい殺したら気が済
むというのか?
 卑劣な宗教が、悪行を、いつの時代も、好きなだけやっ
て来た。
 背景に陰湿な「終末思想」の怨が見え隠れしている。
 イエスもこの思想にまみれていたが・・。
 長い歴史の中で、無念の内で殺され、亡くなって行く方々の
無念の姿を思いやり、見ることができない宗教。
 未来の人類のためにも残してはならない。
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   (詳しくは、以下のブログへ)
URL:http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /