生きるか死ぬかの中に居たのではない・・。

 題:生きるか死ぬかの中に居たのではない・・。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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 作家の遠藤周作氏は、キリスト教徒であった。
 キリスト教に題材を求めた作品「沈黙」は、
 日本に来た宣教師が、キリスト教を捨てるという話であ
る。
 この「棄教の主人公」が、殉教をしようとする人を救う
ことができないという『キリスト教の神の無力』を描いて
いる。
 「キリスト教の神の無力」について悩んでいる。
 この小説の様に、実際、当時、日本に来て棄教した宣教
師は多かった。
 例えば、イエズス会の日本副官区長のペドロ・マルケス
のグループは、遠藤周作の小説の主人公のモデルとされた
ジュセッぺ・キアラを含めて、多くの宣教師が棄教した。
 キリスト教は、得意のプロパガンダ(嘘宣伝)で、美し
く語るが、事実は棄教宣教師だらけだった。
 キアラが日本を目指したのは、そもそも、キアラの師の
クリストヴァン・フェレイラも、キリスト教を棄教した事
を知り、フェレイラを信仰に立ち戻らせようとした事に始
まる。
 フェレイラは、当時の日本司教代理兼イエズス会日本管
区長で、
 日本の『最高位の人』の棄教に、イエズス会は大きな衝
撃を受けた。
 棄教したフェレイラは、その後、沢野忠庵(ちゅうあん)
と名前を変え、日本人として生きた。
 そして、キリスト教宣教師と『逆の行動・行為』をした。
 キリスト教を『棄てさせる活動』である。
 ここに何があったのか?
 少なくとも、キリスト教を自分が持ち、信じ、保つに価
(あたい)しないとの結論に至ったことは間違いない。
 また、キリスト教が、ことさら大きく、日本におけるキ
リスト教への弾圧を『誇大にプロパガンダ(嘘宣伝)する』
が、
 後に、ヴァリニャーノが日本にいた頃を回想する話に、
 まず最初に、「あの頃は、私たち宣教師は、日本で絹の
修道服を着るべきか、木綿の修道服を着るべきかを真剣に
議論し合ったものだ」と回想している。
 これは、キリスト教に規則の「清貧に、裸足で、木綿の
服を着る」に反するが、威厳を保つために「絹の服を着る
べきだ」との意見と対立したことを言っていて、
 結局、彼らは、キリスト教の規則を犯す方への断を下し
「絹の服を着る」。
 この事はまた、日本の弾圧など、キリスト教が必死にプ
ロパガンダ(嘘宣伝)して、悲惨な話を過度にでっち上げ
るが、事実は以上の様なことだった。
 キリスト教宣教師は、弾圧で『生きるか死ぬか』の中に
居たのではない。
 キリスト教は、この様に、あらゆる所で、この類いの嘘
宣伝行為をしている。
 その他、日本人が嫌がる肉食を続けるかの問題を討議す
るとかの程度だった。
 今でも、キリスト教は嘘を言い続けている。
 言わざるを得ない教義のお粗末さから来ることなのだが。
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