生き延びている宗教の『態』

 題:生き延びている宗教の『態』
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 イエスの教えが意味を持つのは、『紀元前20年〜紀元
70年の間においてだけ』・・という主張がある。
 この主張は、イエスの思想は『今・現代において意味を
なしていない』という主張であって、
 1例をあげれば、
 イエスは、当時のユダヤ教の「清浄規定」に反対した。
 その時代は、第二神殿の再建と増築によって霊性と聖性
をますます強調する動きが拡大した時代であり、
 その時代において、ユダヤ地方と下部ガリラヤ地方での
ユダヤ教の宗教生活を定義づけるものは、「ミクヴァオー
ト」(ユダヤ教の祭儀に用いられる浴槽)であった。
 さらに、「石の器」が習慣的に造られ、売られ、買われ
たのは、その時代のみであった。
 霊的清さを確かなものとする「ミクヴァオート」と、
 その中身が汚れに染まってしまわないように守る「石の
器」は、エルサレム神殿の祭司たちによって展開された、
極端なユダヤ教の「清浄規定」に基づいて要求されたもの
であった。
 その様な背景において、イエスは反対運動をした。
 イエスは言う。「みなさん、私の言う事を聞いて悟(さ
と)って下さい。外から人の体に入るもので人を汚すこと
が出来るものは何もありません、人の中から出るて来るも
のが、人を汚すのです」・・と。
 これは、民をいじめていた、ただ、山のてっぺんに神殿
を建てて、君臨していた宗教権力。
 それでなくても、武力で征服したローマ政府の権力組織
の圧政を受け、苛(さいな)まれていた民をターゲットに、
ひと儲けしようという行為だった。
 民に、何ら、ためにならない宗教権力を誇示するだけの
エルサレム神殿宗教権力」に放った「イエスの怒り」だ
った。
 「神殿税」という重圧を民にかけ、
 更に、無益な、当時の宗教教義から来ている「清浄規定」。
 イエスは、揶揄(やゆ)った。
 馬鹿馬鹿しい「清浄規定など止めてしまえ」の気持だっ
た。
 イエス特有の理屈っぽい言葉を放った。
 変な「清浄規定」なんか作って、民を惑(まど)わせ、
民を不安に陥(おとしい)れ、
 「ミクヴァオート(浴槽)」買わすとは・・。
 キラキラとした作られた権威、
 空虚な権威をちらつかせ、
 迷信を信じ込ませ、
 民から金を巻き上げて。
 「そんな浴槽で体を洗ったって、清浄なんかになるもの
か」・・。
 「外から人の体に入るもので、人を汚(けが)すことが
出来るものは何もないのだ」・・。
 浴槽で清浄になんかする必要は無いのだ。
 あなたたちは知らないが、
 「人の中から出てくるものが、人を汚すのだ」。
 イエスは、当時の「神殿の宗教権力」にこの様な言葉で
対抗した。
 イエスの言葉は、民の苦しさを知る心から発した。
 『当時の、社会事情においての言葉』だった。
 今・現代にない、神殿の宗教教義に抗した。
 イエスの思想は、この言葉の例のように、BC20年〜AD
70年のあいだ「のみ」に意味を持っている。
 この間の期間にだけ、意味を持っている言葉なのだ。
 経時(時の経過)の劣化が明らかなのだ。
 この言葉を、現代のキリスト教聖職者が、「尾ひれ・は
ヒレ」を付けて話したら、それは、イエスの言葉を借りて、
利用して、自分の宗教観、「この聖職者の独自の宗教の披
露行為となる」。
 自分の話に自分が酔っている。
 救う宗教の体をなしていない。人々を幸せにする態をな
していない。キリスト教ではない。
 この様に、キリスト教聖職者が、勝手に自分の好きなよ
うに、キリスト教を演じているから、キリスト教は、四分
五裂して、分派がいっぱいの状態になっている。
 キルケゴールは言う、「キリスト者とは信仰の飛躍をす
る者」だ・・と。
 キリスト教は、四分五裂し、形を変えて(キリスト教
ないキリスト教が)生き延びている。
 教義が破綻した宗教が起こす現象の『これは一端』なの
だ。
..
(追伸)前記した、イエスが言った言葉だという、
 「みなさん、私の言う事を聞いて悟(さと)って下さい。
外から人の体に入るもので人を汚すことが出来るものは何
もありません、人の中から出るて来るものが、人を汚すの
です」・・は、
 イエスの衛生観念や衛生に関する知識についても教えて
いて興味深い。
 実は、本当は、衛生のために浴槽に入って身体などを洗
い、清潔さを保つというエルサレム神殿の「清浄規定」は
正しいのである。
 イエスが間違っている。
 イエスは、やはり古代人なのだ。
 イエスは、「細菌の存在を知らない人」なのだ。
 イエスの言葉の「外から人の体に入るもので人を汚すこ
とが出来るものは何もなく・・」という言葉は、『大間違
い」。
 外から入るものこそ、清浄にし、衛生的にしていなくて
はならないのだ。
 イエスの考えている事とまったく逆なのだ。
 病気の原因の細菌を知らないイエスなのである。
 イエスの「外から入るもので、人を汚すものは、何もな
い」は無邪気な無知識だ。
 イエスは、人々に「間違った『宣教』をしている」。
 イエスは、人々に「私の言う事を聞いて悟りなさい」と
言っているが、真実を聞いたら、恥ずかしくて、イエス
顔を真っ赤にするだろう。
 「知ったかぶりをシテ、人々に無知な事を言ったと恥じ
る」だろう。
 イエスは、「人の中から出て来るものが、人を汚すのだ」
と言っているが、
 キリスト教聖職者が、ここを美しく「人が発する『言葉』
を含めて話をする場合が考えられるが、これは「エルサレ
ム神殿の『ミクヴァオート(浴槽)』の売り付け行為の
「清浄規定」に関する場合なので、人の発する言葉を含め
た話に仕立てるのは脱線である。
 例え、「人の発する言葉を入れたとしても、確かに、人
が発する言葉は「人を汚す場合」もあれば、「宣教の言葉
の様に『ロゴス』となって人々を導きもする」。
 イエスの「人から出るものが汚す」は、細菌など目に見
えない「真に汚すもの」を知らない人間の言葉で、
 このイエスの言葉は、「目に見え得る『糞尿』について
言った言葉だ」。
 ここには、イエスの古代的知識しかない。
 『イエスの限界』はやむを得ないが、現代人には何ら
示唆など、当然、与えないという結果となっている。

   (詳しくは、以下のブログへ)
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /
URL: http://32983602.at.webry.info/