アメリカの独立への道、そして、翻弄されるインディアンの方々

題:アメリカの独立への道、そして、翻弄(ほんろう)されるインディアンの方々
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 イギリスは、7年戦争に勝利したものの重い戦費負担に苦しんだ。
 そこでアメリカを圧迫した。
 種々の物品に課税した。
 また、茶の販売権を独占した。
 それらを英国本国だけで決定した。
 アメリカは『習慣的な自治権の侵害だ』と強く反発した。
 「アメリカの代表が居ない所での課税決定は決定事項ではない」
との論理であった。
 納税の拒否やイギリス製品の不買運動をし、事態は険悪になった。
 その様な経緯の中で、1773年にボストン茶箱事件が起きた。
 (ボストン港に停泊中の東インド会社の船舶から茶箱が海に投げ
捨てられた。イギリス本国は、罰としてボストン港封鎖を決定した)
 翌年の1774年より、アメリカの各植民地から代表が集まり、会議
が持たれた。
 会議では、『自治権を守ること』と『武力による抵抗も辞さない』
ということが決定された。
 翌1775年、ちょっとしたことで武力衝突が起きた。
 ボストン近郊で、アメリカ抵抗派の武器を押収しようとしたイギ
リス軍と、駆けつけたアメリカ植民地民兵との衝突である。
 これがアメリカの独立戦争の発端となった。
 アメリカ側は、制海権がイギリスに握られているのでヨーロッパ
からの武器輸入がままならなかった。
 アメリカは、各地の戦いに惨敗した。
 司令官のワシントンは、フランスやスペインの参戦を期待した。
 ニュージャージーに進軍したイギリス軍が略奪や強姦をするとい
う愚行も起きたりした。
 この様な中、北米植民地で発行されていた4つの新聞は、最初は
(不思議なことなのだが)3分の1しか独立を支持していなかった。
 新聞メディアは独立に反対の姿勢だった。
 しかし、だんだん独立支持へと変わっていった。
 1777年に、アメリカは連合規約を締結し、国名を「アメリカ合衆
国」とした(批准成立は1781年)。
 それまでは、邦(憲法で州が発足するまでの呼称)の各々が、兵
の動員や物資の調達や将校の昇任などがバラバラだった。
 イギリス国王は、『7年戦争後のアパラチア山脈以西へのイギリ
ス人植民者の入植を禁止した宣言』を出していたため、先住民のイ
ンディアンの方たちは、この宣言が「7年戦争の後には、イギリス
人の入植がない」ということで、「自分たちの土地が守られている
」と解釈し、この戦いにおいて、インディアンの方たちはイギリス
側について戦った。
 イギリス軍は、このインディアンの方たちとドイツ傭兵なども加
え戦っていた。
 しかし、戦いの長期化で食糧不足に陥っていた。
 この状況はアメリカ軍も同様で、1777年から1778年においての
厳冬にアメリカ軍の兵の2000人が栄養不足や疫病で死んだ。
 この数は兵の約20%にあたる高率な数字となっている。
 イギリス軍は、だんだん最前線への兵の補充も滞(とどこお)っ
て来た。
 前線の兵も減少していた。
 一方、アメリカは民兵が近隣から駆けつけるという状況だった。
 ニューヨーク邦でイギリス軍が降伏したりする様になった。
 1778年に、今まで、静観していたフランスが、イギリスをたた
く機会だと、アメリカの独立を承認し、アメリカと同盟を結び、参
戦した。
 (この様な事は日本の関ヶ原の戦いでもあった)。
 海軍力を持つフランス軍とイギリス軍との海戦も起きたりした。
 1779年、フランスの要請でスペインも対英参戦した。
 このアメリカ独立戦争のフランスの参戦は、戦域が国際的に拡大
して行った。
 ヨーロッパ、カリブ海、西アフリカ、インドなどへ及んだ。
 大西洋の制海権もイギリスだけのものでなくなった。
 しかし、良いことばかりではない。
 アメリカは民兵の給料が払えないとか、食料も遅配するとかで、
民兵の不満は高まっていた。
 一部民兵が反乱を起こすこともあった。
 1781年、フランスは財政悪化から和平の斡旋に乗り出した。
 アメリカ司令官のワシントンは、和平交渉で有利な条件を得よう
フランス軍と連合してイギリス軍を攻めた。
 フランス海軍も協力してイギリス軍への補給を断ったりした。
 1781年10月、イギリス軍で信頼されていたコーンウォリスの部
隊が孤立し、とうとう降伏した。
 この名将の降伏は、イギリス本国に衝撃を与え、ノース首相は「
ああ、これで万事休すだ」と叫び、イギリス王のジョージ三世は、
戦争継続論であったが、イギリス議会はこれに抗して「終戦を決議
」した。
 1782年11月から、和平交渉が開始され、
 1783年9月に、アメリカの独立が承認され、講和条約が調印され
た。
 この時、アメリカは、「ミシシッピー川以東の広大な土地」を購
入した。
 (イギリスが譲渡、先住民のインディアンの方たちの権利を無視)。
 この戦いは、将校の狙い撃ちを避けたりした『限定戦争』であっ
た。
 この時からアメリカは、「戦後処理」と「建国」の期間となる。
 1788年に初代大統領に選出されたのはワシントンだった。
 ワシントンは就任すると、まず、先住民・インディアンの方々と
の関係調整を行なわざるを得なかった。
 それは、ワシントンの就任の年の1年前に制定された「北西部条
例」に関する事だった。
 この1787年の北西部条例の制定によって、新領土がアメリカ人に
開放されたからだ。
 先住民・インディアンの方々は反発した。
 紛争が多発した。
 ワシントンは、議会に軍事支出を承認させ、『新民兵法』を制定
させ、民兵の兵力動員をした。
 そして、遠征隊を結成し、インディアンを掃討を始めた。
 派遣した軍は、先住民・インディアンの方々を破り、先住民の方
々の村落や田畑を徹底的に破壊した。
 焦土作戦を強行した。
 弱い者いじめの様相だった。
 先住民・インディアンの方たちは降伏し、居住区域はオハイオ
流域以西に押し込められた。
 ここに退去せざるを得ない状況に置かれた。
 この時の終戦処理に、条約締結という手法がとられた。
 この様な条約の締結は、対象となる先住民の方々を、形式的には
「独立した国家」と認めたというものであった。
 しかし、多くの場合、その条約は、アメリカ人側によって無視さ
れることが多かった。
 悲しいことに、この事が、また、新たな紛争を生み出して行った。
 題:アメリカの独立への道、そして、翻弄されるインディアンの方々(完)