インディアンの知恵

 題: インディアンの知恵。
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 コロンブスの発見がきっかけとなったアメリカ大陸は、その後、
白人の論理、及び、キリスト教の論理でいい様にされた。
 私物の如く、なめ尽くされた。
 英国のピューリタンは、自国での宗教トラブルで自国に居られな
くなりアメリカへ逃れ、やって来た。
 1620年の事である。
 オランダは、ピューリタンのその時から遅れること6年の1626年
ころ、アメリカに来た。
 植民地化してニューアムステルダムを建設し始めた。
 英国の初めての入植は、ピューリタンより13年早く、バージニア
に入った。
 最初に入った人は、本国で食いつぶした年季奉公人で、次に、ア
フリカの黒人の方たちが奴隷として入れさせられ、酷使され、大土
地経営のプランテーション型植民地で、家畜同様に働かせられた。
 非人道的経営で事業を拡大して行く。
 道具とされたのは同じ人間の黒人奴隷の方たち(キリスト教聖書
で奴隷が説かれている。利用できる弱者を家畜の様な奴隷として使
うということを)。
 オランダが建設したニューアムステルダムは、約40年後に、英国
に奪われ占領され、名前がニューヨークと変えられた。
 フランスは、ピューリタンの入植の年を遡(さかのぼ)る事12年
の1608年に、ケベックに貿易拠点を作った。
 そして、そこからアメリカの内部地へ進出して行った。
 ローレンス川を遡り、五大湖へ進み、そこからミシシッピ川を下
り、ピューリタンの入植の年から62年の後の1682年にメキシコ湾の
河口へ至った。
 その地をルイジアナ命名した。
 そして、領有権を主張した。
 それから32年後の1717年ニューオーリンズを建設した。
 仏領は英領を取り囲むように展開され、英仏間は、険悪な状態に
あった。
 ヨーロッパ本国同士が戦争状態となり、続けてアメリカの地も戦
争の様相が高まる険悪状態となった。
 スペインも黙って見てはいなかった。
 スペインは、既に、キリスト教徒とそれに同行したキリスト聖職
者たちが、南米・中米・北米メキシコなどで、人非人の様な殺戮に
継ぐ殺戮で、領土を我が物にして来たが、その続きで、アメリカに
ついては、ピューリタン入植より遡(さかのぼ)ること55年の1565
年に、既に、フロリダ半島に砦(とりで)を建設していた。
 そして、ニューメキシコアリゾナに進出した。
 既に、スペインは極悪なやり方でメキシコに拠点を設けていたの
で、アメリカにおいては、1588年にスペインの無敵艦隊が敗れた事
もあり、そして、国力の急激は衰退もあったため、テキサスやカリ
フォルニアに進出するが、入植は少なく、アメリカの地は、実質、
英仏とオランダの間での争奪戦となった。
 この形相は、まったく、国の規模での、私利私欲の弱肉強食の強
盗行為で、地獄の様相の世界だった。
 キリスト教及びキリスト教聖職者たちには、それを押しとどめ、
反省する境地も、考えも教義も、力も、何もなかった。
 キリスト教聖職者は、一緒になって行動し、誰も居なくなった荒
れ地にキリスト教会を建てるという行動だけだった。
 英国は、特に、利益を求め、アメリカに限らず世界各地を跋扈(
ばっこ)した。
 当時、英国は絶対王政であり、商業による利益追求獲得に躍起(
やっき)となっていた。
 貴族層が輸出作物生産用の大土地を獲得し、富を拡大したいと餓
鬼の境涯にいた。
 また、英国内の土地を失った貧しい農民がアメリカの土地を求め、
自作農になりたがっていた。
 その為、年季奉公人が大量に移住した。
 その移住において、移住者の保護の為の本国からの常備軍を常駐
させるという行為はなかった。
 理由は、膨大な費用がかかるためだった。
 植民者自身が生命や財産の防衛をすること、「自衛」によること
を基本とした。
 故に、侵入者(入植者)は自衛のための武器を持った。
 アメリカへの進出の目的に土地を得たいという目的があったため、
既に、アメリカ先住民の「インディアン」との衝突の因は厳然と存
在した。
 当時、アメリカには約200万人のインディアンが生存していた。
 この方々に、これから悲惨な歴史が展開される。
 当初、キリスト教徒の入植の初期、侵入者たちは、少数である事
もあり、また、北米大陸の厳しい冬の気候の越冬方法を知らなかっ
たため、「サー・ウォーター・ローリー」の様に入植に失敗して英
国に帰る例もあった。
 その為、先住民のインディアンから越冬方法を習い、トウモロコ
シの栽培法を習って食いつないで、か細く生活をしていた。
 また、バージニアに入植した「ジョン・ロルフ」の様に、インデ
ィアンの娘と結婚する例もあった。
 (ポーハタン族の族長の娘・ポカホンタス)。
 この結婚は「政略結婚だ」と言われている。
 初期は、この様に、共存の行動がとられたが、しかし、後に、イ
ンディアンは裏切られ、牙(きば)をむかれる。
 キリスト教は、少数の宗派である「クエーカー教徒」の善行の例
をあげて、大々的に声を大きくして美談や言い訳を言うが、まった
くのプロパガンダであり、クエーカー教徒は、少数宗派であり行動
も一部の小規模の行為であり、言い逃れである。
 人々に誤認混同を起こしている。
 本当のこと、真実は、土地強奪の殺戮を伴う極悪行為である。
 その悪行為、キリスト教徒の悪行為を隠すものだ。
 また、インディアンには、争いがあっても相手を残酷に殺戮しな
いという行動があった。
 それは、争いがあっても「相手を滅しない」という考えで、また
それは、少数民族のインディアンの争い方で、先祖からの教え・智
慧であった。
 インディアンと戦ったイギリス人将校がいう。
 その証言で「まず、インディアンと戦って流血が少ない事に驚い
た」と言う。
 そして「インディアンは近づいての酷(むご)い殺し合いは避け
ている」と言う。
 その事が分かったと言う。
 将校は言う「我々ヨーロッパ人は、敵に近づき、銃弾を直射する
が、そして、その行為は、よく、しばしばするが、彼等はしない」
と。
 インディアン社会は生産力も弱く、生産従事者の減少は痛手であ
る事、民族の損失をまず知っていて、民族としての認識の上に共倒
れを避けていた。
 『儀礼的戦争の思想』とも解釈できる。
 キリスト教の編まれた古代の砂漠の地では、飢餓と飢えとの世界
と背中合わせだったが、その様な環境の中で、キリスト教が考えた
事、教え説いた事は、聖書の申命記を見ると分かる。
 その様な時、民族の生存を大義名分として「(キリスト教の)神
の義があれば、人を誅しても良い」という教義・考え方が説かれ、
行動の原点となっていた。
 神の義を錦の御旗として、隣国の富を奪いに行く。
 そして、キリスト教の神は叫ぶ。
 「殺せ、殺せ」と。
 そして、「○○人は皆殺しにせよ」と、そして、「△△人は男だ
け殺せ」と。
 また、神は叫ぶ「生娘は生かしておけ」と、そして「奴隷にせよ、
奴隷にせよ」・・などと。
 インディアンは、苦しくとも、最後は自分たちに戻って降りかか
ってくる悪行為だと理解している。
 キリスト教の教えとの差である。
 そのインディアンの、その後の運命は、ヨーロッパ人の侵入者と
の激しい殺戮で、その相互殺戮の激しさの中でインディアンは激減
し、入植者の数は増え、土地を巡る争いの益々の増加の中に歴史は
展開する事となる。
 今、人類は益々大量に、無差別に、人々を殺戮する兵器を持つ状
態となっているが、次なる兵器は自分以外の人間は全てを全滅させ
るものとなっていくだろう、その道を歩んでいる。
 自分たちだけで何ができると言うのだ。愚かなことだ。
 インディアンの知恵が大切なのだ。
 題:インディアンの知恵。(完)