キリスト教聖書は、必然的に、当然として・・・

題 : キリスト教聖書は、必然的に、当然として・・・
.
 キリスト教聖書は、必然的に、当然として、すぐに今の姿に
なったのではない。
 今現在、キリスト教にあって権威のある方達も言います「極
めて疑わしい基準によって、古代の文献類から寄せ集められて
作られた」と。
 そして、その選択する基準についても疑問を言う。
 「『使徒的権威』『教えの正統さ』などの基準も疑わしい限
りだった」と。
 故に、「それ以後の歴史は、その選ばれてしまった文献集(
聖書)の権威付けをする歴史であった」と。
 偽名で書かれた手紙をどう扱うか?・・の問題など。
 偽とするか、偽パウロとするか、いずれにしても、宗教的に
良い形にしたいという意思が働く、そこには個人的な意思が入
っていく、入り込まざるを得ない状況の中に置かれる。
 もうここまで来ると訳者が宗教を作っていると言える。
 訳者のキリスト教である。
 そこには既存の宗派、大小を問わず、それらの宗派には都合
の悪い訳出になる所も出て来る。
 それは、「キリスト教の原点には、今の宗派と違うもの・考
え・教義があった」という事。
 故に、それらは、必然的に生じる、実態・事実の結果なので
ある。
 キリスト教の教義は、この様な薄氷の上に存在しているもの
なのである。
 この様な教義から、過去に多くの戦争が生まれた、多くの方
々の命が失われた、そのことが、悔やまれる。