エゴ(自我) から 争い へ

題:エゴ(自我)から 争い へ


☆(キリスト教の教義の根幹をなす エゴ(自我)から争いへ)
 個人のエゴ・・人間が生きていくうえで、
                エゴは必要悪なのである。
 自己のエゴをそのまま是認してしまえば、
                 堕落が始まる。
 教養と問えば、剥き出しのエゴに多少とも磨きをかけ得る品性の
                 ことと言える。
 我々は、
  おのれのエゴの醜さを恥じ入り、
   それを少しでも控え目にさせることによって、
     辛うじて
       人の道を踏み外さずに
        生きていくことができるのであろう。・・・

 時に、
  エゴは、
    存在感を高めたり、
      自己の目的達成のために、
        しばしば宗教を利用する。・・・

 強烈なエゴを持った人物が、
 そして、
     強欲な人間が
        狡猾にも宗教を利用し始めると、
           その被害は甚大なものになる。・・・

 (ナチスの例)・・・
 特定の民族や集団は、
   長期間にわたって抑圧を受けると、
    その屈辱感が心的外傷となって、
     幾世代にもわたって
    集団の心理的DNAの内部に留まることになる。・・・

 それが、
   特定の条件下におかれると、
     眠っていた集団的記憶が蘇り、
       爆発的な力を発揮する。・・・
      その典型的な例がナチス・ドイツである。・・・

 ナチスは、
   あえてキリスト教
     ドイツ民族の優越性を唱え、
       約600万人の異教徒ユダヤ人に対して
    ホロコースト(『完全に焼き尽くす」という意味)を
                      やってのけた
 (キリスト教法王は
        ナチスに反対しないどころか、
                   なびいていた)・・

 デマゴーグ(扇動政治家)の最重要任務・・
   きわめて巧みに
      過去の歴史の古い敵を、
        現在の紛争の相手にすり替えてしまう・・・

 エゴが
   人前に現れる時、
       たいていは「 正義という名 」の
         「 美しい仮面 」をかぶっている・・・

 「 正義の名の元 」に
      制裁(争い)が起き、
         一種の「 魔女狩り 」が始まれば、
             とめどないものになる可能性は
                    十分にある・・・

 「 正義 」とは
      「 誤謬(間違えること) 」であると
            断言してもよいのではないか・・・

 争いは「 正義の主張から 」起きることが
                ほとんどではなかろうか・
      .... (参考文献:「なぜ宗教は平和を妨げるのか」
                  講談社α新書より 

キリスト教の「人間は生まれながらにして原罪がある」という
 教義と、
「天に召されることを喜びとし、目的とする」という
 信条から、
 現実の人生に於ける
         生きる意味も目的も見失い、
 現実活動や社会建設の意欲を失い、
 また、
 そのような活動に励むものを見ても喜びを感じなくなった
 との声も聞く。
 この様な方の救済もせねばならない。 (新聞投書欄より)

☆ダグラス・アダムズを追悼して
    「庭が美しいことさえ分かれば十分じゃないのか? 
         花の下に妖精がいるなんて信じなくても」 
      〔『銀河ヒッチハイク・ガイド』第16章より〕