仏教の 今日的、未来的な 意義

 題 : 仏教の今日的、未来的な意義

    自己を愛する者は 他人を傷付けてはならぬ。 

    前田專學 東京大学卒、東方研究会理事長東方学院長
                  との対話から
     (出典:日本経済新聞抜粋 平成21年7月2日)

 『 すべての者は暴力におびえ、
               すべての者は死をおそれる。
      己が身にひきくらべて、
       殺してはならぬ。
       殺さしめてはならぬ 』
              仏典 : ダンマパダ より
    ・・・(略)・・・
 自己中心的で我執の強い人は、
     他人の立場に立って考えることができない。
     他人の立場にたって考えることが大切。
    ・・・(略)・・・
 我執の強い人ほど
     自分は他人から独立した、
          隔絶した存在であるという風に
               考えがちである。
 しかし、
    隔絶した〈個〉というものはあり得ない。
 仏教では、
    無数に働いている原因・
     条件の因果の網が
       われわれの生を支配し、
         人間存在はすべて目に見えない
           つながりの内にあると考える。    
   ・・・(略)・・・
 他人から切り離された個人というものは
 フィクションにすぎない。
  
 日本の教育は、
 このような仏教思想を排し、
 西洋的な自我の確立を『よし』としてきた。

 昨年の秋葉原の無差別殺傷事件に代表されるような、
 自分勝手な理屈にとりつかれた
 忌むべき犯罪の横行する社会状況を生んでいるのではないだ
ろうか。
    ・・・(略)・・・
 ラフカディオ・ハーン小泉八雲)は、
 仏教の代表的考え方の一つである『無我説』こそ
 道徳的に価値高い重要な教義であると言い。
 それに対し
 西洋人は、考えている〈我(エゴ)〉を、
 我々の感情、観念、記憶、意思を意味し信頼できるものと
 しているが、
 仏教は、反対に
 『 西洋で〈我〉と言っているものは、ことごとく偽りである 』
 としている。

 仏教は、
 〈我〉というものを、人間の肉体的・精神的経験によってつ
 くられた感覚・衝動・観念の
 ほんの仮に結ばれた集合体に過ぎないと考える。
 つまり、
 西洋は、〈我〉とか〈自我〉とを、
 実在する最も信ずべきよりどころと信じている。 

 仏教は、
 そういう〈自我〉は幻影、夢、幻のごときものであるとする。

 ハーンは、
 西洋に根強く見られる思想を取り上げて
 「 これが、いかに多くの人類の不幸を引き起こしたかを記
している 」 
 「 西洋流の永遠不滅の自我を認めてゆけば、
 性格、階級、民族の差別を認めない仏教(無我の立場に立つ
仏教)と大きな隔たりがでてくる。

 自我というものがあったら、
 慈悲というような考え方は生まれて来ないし、
 相手の立場に立つという事もできない 」

 「 一時期、自我の確立などと言われたが、
 その行き着くところは
 人類の滅亡以外の何ものでもないのではないか 」

 「 自我を張り上げている限り、
 その先には紛争や戦争以外の 
 何ものも起こらない 」

 「 義にして妬むもの、
 といわれる神を戴く西洋の宗教に由来する、
 永遠不滅の自我という観念によっては、
 罪は贖うことができず、
 罰は切り捨てがたいという不寛容の思想が導かれる 」

 ハーンは、
 これら西洋の観念を
 「 近代、および、これからますます進歩する 未来の人類の
道では、お払い箱になる 」 と。
 この様な西洋的な観念が、
 一日も早く衰微し、
 明るい結果を招くことが望まれる。
 でなければ、
 本当の意味の寛容の精神など
 生まれるわけがないし、
 世界愛の目覚めも起こらない。  
     ・・・(略)・・・
 (我 注記) :  西洋哲学の多くが、キリスト教の影響
 を大いに受けているが、
  ニーチェは 『 キリスト教邪教です 』 という著作を
 残している。
  また、ハイデガーは、 
 『 もし10年前に この様な素晴らしい仏教の聖者が 
 日本に居た事を知っていたら、 
 自分は、
 ギリシャラテン語キリスト教:筆者注)の勉強もしなかっ
 た。 
  日本語を学び、仏教聖者の教えを知って、
 世界中に広める事をしたであろう。
 だが、遅かった 』
 の言葉もある。
 また、
 上記の前田專學氏は 
 ハーンの作品 『 涅槃 』 の深い感銘を 
 「 100年も前にハーンが、仏教の今日的、未来的な意義を
 見出していたのに驚嘆する 」の
 言葉で吐露されている。