(増補版)679E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年10月~1897年11月)

題:(増補版)679E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年10月~1897年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
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1897年10月22日、海軍軍医学校が開校した。
  海軍軍医学校は、大日本帝国海軍において、軍人の医
 療・衛生を担当する軍医、および、看護士・薬剤師を養
 成するために設立された教育機関・・
  医学・薬学・歯学の3コースが設定され・・
  また、、海軍病院を総括指導する軍医を養成する普通
 科・高等科・特修科、医療現場で活動する看護士・技師
 を養成する選修科が設置された。
  ルーツは、1872年、海軍病院に「海軍病院学舎」が増
 設され、11名の医師へ、イギリスから招聘したアンダー
 ソン医学博士によって医術の手ほどきをさせた事が始ま
 りだった。
  9年にわたり医術教育は継続されたが・・
  1881年、第1回卒業生が送り出された機に、アンダーソ
 ン博士が帰国した、そのため、教育は続行不能となった。
  高木兼寛医務局副長を中心とする日本人医療スタッフ
 らは自ら教鞭をとった。
  1882年の翌年、海軍医務局学舎が立ち上げられた。
  そして、10名の医師の指導が始められた。
  また、軍医官依託学生制度を新設し、東京帝国大学
 学部生7名を候補に挙げた。
  1886年、「海軍医学校」と改称され、ほぼ同時に、芝
 山へ移転した。
  海軍病院と離れたことから、臨床実験や実習は隣接す
 る東京慈恵医院の協力を得た。
  因みに、高木兼寛は、海軍生徒として英国セント・ト
 ーマス病院医学校(現:ロンドン大学群キングス・カレ
 ッジ・ロンドン医学部)で学んだ。
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1897年10月25日 新橋駅の出発信号機、および、場内・遠方
 信号機と上下本線の転轍器とが、連動方式に切り換えら
 れた(インターロッキング方式)
  インターロッキングは、ある操作を行う時、誤操作や
 確認不足により、適正な手順以外による操作が行われる
 のを防止したり・・
  正常な製造・運転の行われる条件を逸脱した時、自動
 的に当該設備に対する原材料等の供給を遮断するなど・・
  製造や機器の運転を制御するもの・・
  具体的には、インターロック機構として保安上、重要
 な部分の運転を制御する計装回路に組み込まれている。
  例えば・・エレベータで、各階全ての扉が全て閉じて
 いなければかごは移動しないとか・・
  ボイラーで、燃料や水位が低い時には燃焼を始めない
 とか・・
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1897年10月31日、進歩党代議士総会で、松方内閣との協力
 関係の断絶が決議された。
  1897年3月、第10回帝国議会に於いて、行政処分を全廃
 する新聞紙条例改正案が成立した。
  これは、進歩党が、行政処分を全廃する新聞紙条例緩
 和を求めていたからであった。
  しかし、長州閥の山県系の清浦奎吾司法大臣らが反対
 し、野党であった国民協会も全廃には比例的だった。
  この様な状況下で、伊藤の宮中支配を攻撃した「二十
 六世紀」が発行禁止になった・・
  また、これを転載した「日本」も発行停止となった。
  進歩党はこれに反発した。
  また、進歩党と協調を目指した薩摩閥の有力者が同調
 して、新聞紙条例の改正案の成立に至った。
  しかし・・
  1897年10月に至って、松方内閣は、進歩党の要求して
 いた四ヶ条の要求を拒否した・・これに対して進歩党は
 提携断絶を決議した。
  進歩党の要求した四カ条は・・内閣改造、政費節減、
 台湾統治の方針変更、立憲政体の運用の完備(対議会策
 を改め議員の腐敗を予防、選挙法罰則追加、政務官と事
 務官の区別の明確化)
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1897年10月31日、中越鉄道の福光駅~城端駅間が開通した。
  中越鉄道は、富山県で現在の西日本旅客鉄道(JR西日
 本)城端線、及び、氷見線日本貨物鉄道JR貨物)新
 湊線を建設・運営していた私設鉄道のこと。
  城端線(じょうはなせん)は、富山県高岡市高岡駅
 から富山県南砺市城端駅に至る西日本旅客鉄道(JR西
 日本)の鉄道路線地方交通線)のこと。
  氷見線(ひみせん)は、富山県高岡市高岡駅から富
 山県氷見市氷見駅に至る西日本旅客鉄道JR西日本
 の鉄道路線地方交通線)のこと。
  新湊線(しんみなとせん)は、富山県高岡市能町駅
 と高岡貨物駅とを結ぶ日本貨物鉄道JR貨物)の鉄道路
 線のこと。
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1897年10月31日、政府が、休止中の釧路鉄道(標茶駅~跡佐
 登駅間)を買収した。
  釧路鉄道会社と政府の間で19万9000円で買収契約が締
 結され、釧路鉄道は解散した。
  釧路鉄道は、北海道東部の硫黄山で産出される硫黄の
 輸送を目的として鉄道路線を運営した。
  硫黄鉱山の専用鉄道として建設された路線を継承し、
 北海道内では2番目(北海道の私鉄では最初)の鉄道事業
 者となった。
  鉱山を経営していた安田財閥によって建設・運営され
 たが、鉱山を保有した山田銀行(本店・函館)への貸し
 付け分が問題を生じて回収され、安田財閥としての硫黄
 の採掘が中止された。
  そのため、開通から10年足らずで事実上の廃止となっ
 た。
  短期間であったが、安田財閥の強固な財務基盤は、こ
 の釧路の硫黄鉱山によって形成なされた。
  また、硫黄鉱山の開発によって釧路の石炭産業(現:
 太平洋炭鉱)、釧路港根室銀行(後:安田銀行、現:
 みずほ銀行)開設と釧路地域開発がなされた。
  これまでの経緯は・・
  1872年、佐野孫右衛門によりアトサヌプリ山麓の硫黄
   山で硫黄採掘が始まり・・
   佐野孫右衛門の亡き後は・・
   函館の山田銀行に譲渡され・・
  1887年、融資を受けていた安田善次郎に譲渡された。
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1897年10月、李氏朝鮮が、日清戦争での日本の勝利により、
 鎖国体制の幕を閉じ・・清の属国から500余年ぶりに独立
 し、「大韓帝国」を誕生させ、初めて独立国家「光武」
 という年号を使うようになった。
  1907年、純宗(じゅんそう、李朝の第27代の王)は、
   軍隊の解散を命じたが・・
  1909年9月、韓国軍の中から36名を選抜し、日本の中央
   幼年学校に入学させた。
   その中に、後の陸軍中将・洪思翊(こうしよく)も
   いた・・この翌年の・・
  1910年、日韓併合によって日本と併合したが、この時、
   彼らは、対応を協議し、学業を継続し訓練を続行し
   た。
   洪思翊は、陸軍大学を卒業し、中将まで昇進した。
  太平洋戦争中、洪思翊中将は、フィリピンで捕虜収容
 所の所長の任務に当たっていたことから、東京裁判の裁
 判にかけられ、処刑された・・
  日本の軍人として中将まで昇進し、立派に戦い、戦後、
 処刑された韓国の軍人も居たことを・・韓国の加耶大学
 の崔基鎬(チェ・キホ)教授は、自著に記述する・・
  それにしても、捕虜として収容した日本の軍人として
 戦った人を殺すという行為は、捕虜虐待である。
  捕虜を虐待したと言う事で、捕虜にした人間を殺すと
 いう行為が正義として行われた戦勝国側の自分勝手があ
 ちこちでこの蛮行が行われていた。
  勝った国が、捕虜になった敗者側の人間を『勝手に殺
 す正義』などある訳がない。
  また、この洪思翊中将もそうだが、朝鮮出身の日本軍
 人として初めて「金鵄(きんし)勲章・功三級」を授与
 される武勲をたてた金錫源(きんしゃくげん)将軍は、
 ともに創氏改名はしていない。
  これは当時の「創氏改名」が強制でなかったことを証
 明している。
  また、崔基鎬教授も創氏改名をしなかったが、官・公
 吏または会社・銀行などの要職ではなんら差別を感じる
 ことはなかったと記している。
  「強制された」というのは、嘘のプロパガンダである。
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1897年11月2日、松方内閣が、進歩党代議士総会に出席した
 進歩党出身の尾崎行雄志賀重昂らを免官した。
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1897年11月2日、北海道庁官制が改正された(勅令第392号)
  北海道庁に鉄道部を設置し、建設・保存・運輸・会計・
 私設鉄道に関する所管事項を定めた。
  (臨時北海道鉄道敷設部は廃止された)
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1897年11月4日、鉄道作業局福井出張所を金沢に移し、金沢
 鉄道作業局出張所と改称した。
  また、1897年11月17日、同計理部福井派出所を福井出
 納事務所とし、金沢に計理部派出所を設置した。
  1889年、北陸本線が開業した。
  1893年、福井、金沢、富山方面への延伸工事が着工さ
   れた。
  1896年、敦賀駅福井駅間が開業し、北陸線命名
   れた。
  1897年11月4日 鉄道作業局福井出張所を金沢に移した。
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1897年11月5日、入場切符(入場券)が発売される。
  発売駅は、新橋・品川・横浜・名古屋・京都・大阪・
 三ノ宮・神戸・金沢・横須賀、
  料金は2銭、通用は発売当日限り。
  因みに、日本で初めて入場券販売を行ったのは、1897
 年の山陽鉄道(後の山陽本線を敷設した私鉄)であった
 とされている。
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1897年11月6日、大隈重信が、外相兼農商務相を辞任した。
  1897年3月29日、足尾銅山鉱毒事件で批判を受けていた
   榎本武揚農商務大臣が辞職し、大隈が農商務相を兼
   ねることとなっていた。
    大隈は、次官に大石正巳を就任させるなど進歩党
   員を農商務省に送り込み、
    また、古河鉱業に対して鉱害対策の徹底を求める
   一方で、操業は継続させていた。
  1897年10月、松方首相が、地租の増徴を図る方針をと
   ると、大隈と進歩党はこれに反対した。
  1897年10月31日、大隈は辞表を提出した。
  松方内閣は12月25日に倒れ、後継首相は伊藤博文とな
 った。
  伊藤は大隈に農商務大臣、板垣に法務大臣の地位を提
 示して入閣を求めたが、進歩党は大隈を内務大臣とし、
 更に重要大臣のポストを三つ要求するなど強気の対応を
 行った。
  板垣の入閣も行われず、第3次伊藤内閣は政党の支援を
 得られない形となった。
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  (今日の言葉)
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  題:歴史を知って、過去を考え抜いておくことは、現在の事象が「いつか来た道」に当てはまるかどうかで
    未来の危険度をはかろうとする硬直的な態度よりは、はるかに現実的だと言える。
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712年、古事記・・編纂され、天皇陛下へ献上された。
  この日本最古の歴史書太安万侶(おおのやすまろ)
 により編纂され、元明天皇に献上された。
  上・中・下の3巻からなり・・
  天地開闢(てんちかいびゃく)から推古天皇の記事ま
 で記述されている。
  撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉
  訓読文:帝紀を撰録(せんろく)し、旧辞を討覈(と
 うかく)して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)
 へむと欲(おも)ふ。
  歴史とは・・歴史は一回性を特徴とする。
  (参考)一回性:いっかいせい、ある事柄が一回しか
     起こらず、再現できないこと。
  故に、1例として・・
  いくら事例を積み重ねても、次に起こりうる戦争の形
 態がこうだと予測することはできない。
  ただ、歴史を知って、過去を考え抜いておくことは、
 現在の事象が「いつか来た道」に当てはまるかどうかで
 未来の危険度をはかろうとする硬直的な態度よりは、は
 るかに現実的だと言える。
     ・
     ・
1807年、択捉襲撃事件・・日本領の択捉島をロシアが襲っ
 た。
  ロシアは、昔から質(たち)の悪い国だった。
  日本の対外外交も、ロシアの質の悪さから見開きだし
 た。
  江戸文化の華やかさの一方、1807年、日本の国交開始
 の拒否の返事に、ロシアは質の悪い暴力をふるった。
  それが、1807年の日本領への択捉襲撃事件だった。
  これを知った平田篤胤は、「千島の白波」で早くもロ
 シア問題を提起した。
  (参考)千島の白波:平田篤胤の択捉事件に関する公
     私の文書を集めた書。
      事件に巻き込まれた当事者の報告や証言、箱
     館詰めの幕府役人が書き送った書状など・・、
  1861年4月には、重ねてのロシアの悪行・・ロシアの戦
 艦・ポサドニック号が対馬の芋崎浦で日本領を占拠する
 という行為を起こした。
  徳川幕府は、外国奉行小栗忠順(ただまさ)を派遣し
 ロシアと交渉したが、ロシアは不敵にも退去せず、居座
 った。
  イギリス艦隊が対馬に、急遽、駆け付け、強硬に抗議
 し、イギリスの武威に屈したロシアは6ヶ月の占拠の後、
 9月に退去した・・勝海舟がイギリスに頼んだのだった。
  実際、この様な事態が、明治の時代になっても起きて
 いた。
  ロシアが、日本領の樺太から南下すること、また、朝
 鮮半島へ侵入する恐れなどの危惧があった。
  明治時代は、この質の悪いロシア問題が最も大きい危
 惧で危機だった。
  1870年5月、「大(おおい)に海軍を創立すべきの議」も
 この質の悪いロシアが最も警戒すべき国と想定していた。
  建白書の中でも・・
  「ロシアは、ヨーロッパとアジア、二つの大陸ににら
 みを利かせようとしている。
  ロシアは、太平天国の乱と、アロー号事件の対応に清
 朝の地を割取してしまった。
  この様な歴史的事実から、ロシアは「実に皇国に於て
 戒心第一の国である」・・と・・
  (参考)戒心:かいしん、油断しないこと。用心。
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19世紀、キリスト教マインド・コントロールされるヨー
 ロッパ人・・
  まだまだ、キリスト教に洗脳されて、世界に怪物が住
 むと思って航海するヨーロッパ人たちだった。
  キリスト教によってヨーロッパ社会は「アジアやアフ
 リカには怪物が住む」と洗脳されていた。
  大航海時代、ヨーロッパ人たちは「怪物に出会わない
 ことを不思議がった」。
  19世紀に至っても「アジア・アフリカに対する蔑視感
 は抜けなかった」。
  日本は、この19世紀の中頃に、欧米列強に国を開き、
 そして、明治となった。
  この様なアジア蔑視感に洗脳された者たちと関わった。
  東洋人・有色人種などへの人権を尊重するというよう
 な輩たちの時代ではなかった・・
  明治となって、国は強くならなければ駄目だと富国に
 励み、また、、国は強くならなければ駄目だと強兵にな
 ることに励んだ。
  欧米列強のアジアやアフリカに対する観点には「発展」
 を見る眼は無く、育てる気配も無かった。
  19世紀はイギリスを先頭とする西欧が世界の頂点に
 立ち、地球全体を強固に一つのシステムに統合しようと
 していた。
  自分たちの「価値観や制度や文明」を押し付ける行為
 ばかりであった。
  基本にアジア人やアフリカ人に対する「蔑視観」があ
 った。
  対象として尊重し、対等な社会や文化だという「同等
 な価値を有する」「独自な意味が存在する」と見る眼は
 まったく無かった・・
  研究したり考えたりしようという意識はまったく無か
 った。
  人類の一員などという見方はまったく無かった。
  人類的資質にまったく欠けるヨーロッパ・アメリカ人
 たちだった。
  特に、ヨーロッパのみに「発展」を認めるという見方
 は、キリスト教に洗脳され、マインド・コントロール
 れていたとは言え「犯罪的であった」。
  ここから様々な悪行為が発生して行った。
  また、ギリシャ文明に起源を求めて、キリスト教の暗
 黒社会から人間性を復活させたというのは自分たちに都
 合の良い言い方だった・・
  ギリシャ文明に先に目覚めていたのはイスラム社会だ
 った。
  ヨーロッパ社会は、その先生たるイスラム社会から知
 識を簒奪(さんだつ)しただけ・・奪っただけ・・
  イスラム世界はアジアだ、また、アフリカだ。
  アジア・アフリカは、ヨーロッパ文明の先生なのだ。
  また、ビザンチンからも奪っている。
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1865年、トルストイの「戦争と平和」が発表され始めた(
 ~1869年)
  帝政ロシア末期の小説家のレフ・トルストイの小説「
 戦争と平和」は、トルストイが36歳の時に書き始め、
 1865年から1869年にかけて雑誌「ロシア報知」に発表さ
 れた。
  そして、トルストイが、自著「戦争と平和」に書いた・・
  「ルイ十四世は、非常に高慢で自信の強い人であった。
  彼にはあれこれの妾がいた。
  またあれこれの大臣がいた。
  彼らはフランスに悪い政治をしいた。
  ルイ十四世の後継ぎもか弱い人々で、彼らもフランス
 に悪い政治をしいた。
  彼らにもあれこれのお気に入りがあり、あれこれの妾
 がいた。
  そのほかに、いく人かの人々が、この頃、本を書いて
 いた。
  しかし、18世紀の終わりには、パリに、すべての人間
 は自由で平等であると言いはじめた二、三十人の人が集
 まっていたにちがいない。
  そのため全フランスで、人々は互いに殺し合うように
 なった。
  また、互いに川に投げ込むようになった」(エピローグ
 第二篇)
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1870年5月、明晰なる明治の日本の官僚は・・
  万国公法に、「自衛権」がある、故に、日本も自衛の
 ための努力をしなければならないとした。
  この時、兵部省は、「至急大(おおい)に海軍を創立し、
 善く陸軍を整備して護国の大勢を立べきの論」・・が建
 白された。
  その要約は・・
  「最近、各国交際の道が開けて、国々は外面では『公
 議』を唱えているが、内面では『私心』を逞しくして、
 他国を併呑したり貿易港を力によって開かせたりしてい
 る。
  よって各国においては、陸海軍を増強してこれに備え
 ている。
  このような動きは、つまるところ万国公法の「自護の
 権」を大きくしようとしている行為なのである・・云々」。
  自衛権という言葉は、この頃には無く、「自護の権」
 として表現されている。
  万国公法で認められている自衛権のため陸海軍を拡張
 することは「独立国家の権利」であり、やるべき必須の
 こととしている。
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1871年12月24日、明治のこの日の日付の建議書にも、ロシ
 アの質(たち)の悪さは書かれていた。
  第二次世界大戦後、日本は、日ソ中立条約を一方的に
 ソ連(現:ロシア)に破られて、満州の日本人開拓農民の
 方々が、ソ連戦車に踏みにじられて、虐殺され、また、
 日本人女性の方々が、ソ連兵に卑劣に強姦をされ続ける
 という痛ましい卑劣な行為がなされ、起きた。
  この様な質(たち)の悪いソ連(現:ロシア)は・・
 明治の時の日本の指導者たちも、この様な質(たち)の悪
 いロシアであると見抜いていた。
  1871年12月24日付、兵部大輔・山県有朋、少輔・河村
 純義、少輔・西郷従道の三名の建議に記された書にも、
 ロシアは「驕傲猖獗(きょうごうしょうけつ)」とか「北
 門の強敵」と書かれていた。
  また、ロシアはよく他国を裏切る国である。
  クリミア戦争(1853年〜1856年)で、イギリス・フラン
 ス・トルコなどの連合軍に敗け、ロシアは、黒海武装
 化する権限を失った。
  1856年のパリ講和条約には、黒海の中立化条項があっ
 た・・しかし・・
  しかし、こんなことはどこ吹く風と、ロシアは、普仏
 戦争でヨーロッパが混乱している隙に・・
  1870年10月、黒海中立化条約をお得意の破棄を一方的
 に宣言した。
  ロシアは、年がら年中、こんなことをしている。
  また、清国の混乱している渦中には、愛琿条約(あいぐ
 んじょうやく)によって黒龍江以北の満州を奪っている。
  (参考)愛琿条約:1858年、アムール河岸の愛琿 (現
     在の愛輝) で、ロシアと中国・清朝との間に結
     ばれた条約。
      太平天国の乱やアロー戦争で清朝が苦しんで
     いるのに乗じ、東シベリア総督 N.N.ムラビヨフ
     が、黒竜江将軍奕山 (えきさん) に迫って結ん
     だ。
      アムール川左岸をロシア領、ウスリー江以東
     の沿海の地をロシアと清の共同管理と決めた。
      次いで、1860年の北京条約で沿海の地もロシ
     ア領となり、アムール川流域からロシア人を締
     出したネルチンスク条約の効果はまったく失わ
     れた。
     ・
     ・
1941年1月、アメリカ政府が、ドイツがソ連侵攻をするとい
 う極秘情報を掴んだ。
  その極秘情報を伝えたウッズは、既に、この前年の1940
 年8月に、ドイツ人友人からその情報を得ていた。
  だから、ドイツのヒトラーソ連を攻撃するだろうと
 いうことは、その半年も前にアメリカは掴んでいた。
  アメリカは、その有力な証拠を持っていた。
  だから、アメリカ政府は、1941年6月22日に、ドイツの
 ソ連進攻が行われた時、アメリカ政府は驚きもしなかっ
 た。
  1941年1月、ドイツのベルリン駐在商務官のサム・ウッ
 ズからアメリカ政府へ極秘の報告があった。
  ウッズの一人のドイツ人の友人は、ナチスの反対者だ
 った。
  この友人は、ドイツ政府の各省、中央銀行、党の高級
 幹部などに深く食い込んでいた。
  この友人が、ヒトラーの指令部で、対ソ戦の準備につ
 いての会議が開かれているということを、ウッズへ1940
 年8月に知らせたのだった。
  それから数週間の後、この情報はさらに具体的になっ
 た。
  ヒトラーは、「ウラジオストックからジブラルタル
 でドイツ軍で埋(うず)めるつもりだ」と言ったという。
  ウッズは、この友人との情報のやり取りは、この友人
 がある機関を通じて二枚の映画館の指定席劵を買い、ウ
 ッズに二枚の切符を送って来る。
  そして、彼の隣りに座り、薄暗がりの中でウッズのポ
 ケットに情報をすべり込ませた。
  ヒトラーが、イギリス空襲をしたり、イギリス侵攻を
 計画をしているという別の有力な情報は、ヒトラーが練
 り上げたソ連進攻を不意に実施するためのカモフラージ
 ュ情報だという情報も得ていた。
  ドイツは、ロシアの地方政治を担当する組織の計画ま
 でしていた。
  これらの経済顧問まで任命されていた。
  情報操作のルーブル紙も大量に印刷されていた。
.
1945年9月6日、トルーマンアメリカ大統領が「日本降伏
 後における米国の初期の対日方針」を承認し、マッカー
 サーへ指令した。
  また、1948年(昭和23年)2月6日付、「ウォー・ギル
 ト・インフォーメーション・プログラム」との表題の文
 書がCI&E(民間情報教育局)からG-2(CIS・
 参謀第2部民間諜報局)宛てに発せられた。
  戦後のアメリカの日本占領の目的は、「日本という国
 の徹底的なる弱体化」にあった。
  それは、アメリカの国務省、陸軍、海軍の三省が合同
 で作成した「日本降伏後における米国の初期の対日方針」
 に明らかである。
  そして、その重点課題が「日本人の精神的弱体化」だ
 った。
  そのためにやることが「歴史の歪曲」と「アイデンテ
 ィティーの喪失」だった。
  アメリカに、その様な事をしなければならないと思わ
 せた出来事が、第二次世界大戦の末期、日本の見せた戦
 い方だった。
  「神風特攻隊」「沖縄決戦」「硫黄島決戦」などだっ
 た。
  アメリカに、これらのことごとが大きなショックを与
 えた。
  日本の戦闘員の人々が見せた驚異の自己犠牲の精神、
 アメリカに、これが「一番恐れさせた」。
  アメリカは、戦後、この精神を崩すことを最大の目標
 とした。
  ここに主眼が置かれた。
  学校教育の歴史教育がターゲットとされた。
  そのために、1945年12月15日、アメリカ占領軍(GHQ)
 から「神道指令」(国家神道神社神道に対する政府の保
 証・支援・保全・監督ならびに弘布の廃止に関する件・・
 指令)が出された。
  これによって、政治家はキリスト教会などへ行っても
 良いが、神社へ行っては駄目だとされた。
  こと細やかにアメリカは指示した。
  アメリカ自身、政治に宗教的なことがあちこちでやっ
 ているのに、日本はこと細やかに禁止された。
  後に、「神経質な政教分離」で、日本が異常となる素
 地がここにあった。
  アメリカ人や西欧人には、国力の根元には必ず宗教が
 関わっているという見方をしていて・・故に、自国では、
 宗教を神経質に排除するなどという行為は行なっていな
 い・・しかし、日本ではやった・・
  GHQ指令に端を発する政教分離の名における神経質
 な宗教排除をする日本となっている。
  そして、これが、皇室の伝統にまでおよび、その影響
 が蔓延(はびこ)り、広がっている。
  「日本の伝統の破壊」、「国力の弱体化」の目的は達
 しつつある。
  日本は、政教分離条項の特例条項(実施可能条項)を設
 定すべきである。
.
1948年8月、日本人を馬鹿にしたアメリカの指示による識字
 率調査が行われた・・結果は、識字率:97.9%
  アメリカの日本に対する蔑視観から「漢字を廃止せよ」、
 英語化への目論見(もくろみ、くわだて)がなされた。
  「日本語は漢字が多いために覚えるのが難しく、識字
 率が上がりにくいために民主化を遅らせている」という
 のがアメリカの屁理屈・・アメリカの偏見があった。
  アメリカのGHQのジョン・ペルゼルが、日本語の漢
 字を止めて、ローマ字にせよとの計画を出した。
  また、わざわざアメリカは、「アメリカ教育使節団」
 を日本に送り込んだ。
  その報告書に、漢字全廃があった・・
  また、日本の仮名よりもローマ字のほうに利が多いと
 「浅はかな断定」がなされた。
  さらに、ローマ字は民主主義的市民精神と国際的理解
 の成長に大いに役立つと、自画自賛した。
  そこで、日本人の識字率を調べる事となった。
  正確な識字率の調査のため、民間情報教育局は国字ロ
 ーマ字論者の言語学者である柴田武に全国的な調査を指
 示した・・(統計処理は林知己夫が担当)。
  1948年8月、文部省教育研修所(現:国立教育政策研究
 所)により、15歳から64歳までの約1万7千人の日本人の
 老若男女を対象とした日本初の全国調査「日本人の読み
 書き能力調査」が実施された。
  その結果は、驚くべき識字率の高さであった。
  日本は、遠い昔の平安時代の女性に、文学の華が開い
 た様に教育に熱心な国柄・・
  江戸時代にも藩校の多さが素晴らしかったが・・当時、
 世界一の教育国の日本・・
  この調査においても・・その結果は、漢字の読み書き
 ができない者はわずかに2.1%だった・・
  97.9%の識字率・・
  当然の様に、日本人の識字率が非常に高いことが証明
 され、アメリカに知らしめた。
  柴田はテスト後にペルゼルに呼び出され、「識字率
 低い結果でないと困る」と遠回しに言われた。
  しかし、柴田は「結果は曲げられない」と突っぱねた。
  日本語の仮名廃止の、ローマ字化は撤回された。
  (参考)柴田武:しばたたけし、1918年7月14日~2007
     年7月12日、日本の言語学者国語学者
      東京大学名誉教授、埼玉大学名誉教授。文学
      博士。愛知県名古屋市生まれ。
  こんな事をしたアメリカよ、自国のテストをせよ・・
  アメリカ(米語)をテストする・・
  日本の芭蕉の俳句・・
  「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡(あと)」。
  この俳句は10文字から出来ている。
  音は17音である。
  この深い意味をアメリカ語(米語)で表現してみなさい。
  句の奥深い背景も感じさせる様に書いてみなさい・・
  米語で10文字でどこまで表現できるか試してみなさい。
  10文字では全く表現できないでしょう・・
  如何(いか)に米語が劣っているかが分かるでしょう・・
 悟れるでしょう・・
  戦後、アメリカが黄色人種の蔑視で日本語を劣ったも
 のとして、米語にしろと命令したが、そうではないと分
 かったでしょう。
  逆に、「米語を日本語に変えるべきだと悟ったでしょ
 う」・・
  その他でも・・日本の国体を破壊しようという工作は
 しないこと!!
.
1994年、QRコードが発明された。
  QRコードを発明したのは・・日本人・・
  この便利なものを発明した日本人は、この特許権を世
 界に公開した。
  世界の方々が便利に豊かに幸せになればそれで良いと、
 特許権の独占的行使の権利を放棄した。
  世界の方々はそれによってどれ程の豊かさを得たとい
 うのか?
  この日本人に本当に感謝せねばならない。
  この様なことに思いも及ばずに過ごさないこと。
  この様な世界の人々を豊かにする発明をする日本人は
 数多い。
  例えば、青色発光ダイオード、これによってどれ程の
 電気が節電できているというのか?
  多くの電気をこれによって生み出されていると言える。
  この様な日本を「省エネルギーをしていない」などと
 批判してはいけない。
  QRコードは、そのたった一つで「びっくりする位の
 情報量が送れる」。
  たった一つの四角の中に膨大な情報が入っている。
  パターン認識が為(な)されている。
  ある種の表意文字と言える。
  日本語の優れているところは「表意文字表音文字
 持っているところ」。
  情報量の多い表意文字へ導く表音文字で、そのシステ
 ムで、日本語は、豊かな、そして、意味深い情報を送っ
 ている。
  表音文字だけの「米語、英語」の遅れた言語とは違う。
  また、表意文字だけの「中国語」の遅れた言語とは違
 う。
  QRコードへ近づくことのできる無限の可能性を持っ
 た表意文字を持つ日本語。
  この無限の優秀さを秘めた日本語を、アメリカは、戦
 後、日本人に日本語を使用することを止めさせ様とした。
  戦勝国の横暴さで「日本人に日本語を使うことを止め
 よ!!」と言った。
  「日本人は米語を使いなさい!!」の姿勢だった。
  この卑劣な横暴さに泣いた国がフィリピンだった。
  フィリピンは公用語を「米語にさせられた」。
  暴力である・・アメリカの強烈な暴力で強引に米語に
 させられた。
  可哀想に、フィリピンの方々は意思の伝達が出来なく
 なった。
  アメリカは、この様な卑劣な状態を無視し、看過した。
  アメリカは非情だった。
  アメリカは、フィリピンの方々が米語になれば自分た
 ちはそのままで意思伝達が出来るので便利だとそんな卑
 劣な考えにいた。
  後に、フィリピン方々はあまりの卑劣な状態を改善し
 ようと「フィリピンの元のフィリピン言語も公用語とし
 た」。
  アメリカは、逆に、アメリカが使用している米語を日
 本語やフィリピン原語にしてみなさい。
  今まで生活に使用していた言葉を「使用するな」と強
 引に抑えつけられる痛みを実感してみなさい!!
  その卑劣さが分かるだろう。
  また、日本語の優れていることをより深く理解するこ
 とに努めなさい。
  そして、日本語の良さを取り入れなさい。
  日本語は今まで柔軟に他言語の良さを取り入れて来た
 長い歴史がある。
  その経緯の中で、非常に優れた日本語に磨きをかけて
 来た。
  それを見習いなさい!!
  アメリカよ!! 遅れた自分たちが変わりなさい!!

2020年、1時間もあれば、すべてを覚え切ってしまう26文字
 しか知らない民よ! 日本語の表意文字を取り入れよ!!
  それによってより深い表現力が君たちに付くだろう。
  また、より深い思索の領域に入っていくことが出来る
 だろう。
  日本語の表意文字は、その一字一字自体が「QRコー
 ド」のように情報が含まれ深さを表わしている。
  その一字だけで深い意味が秘められている。
  戦後、日本語は文字が多くて劣っていると、アメリ
 が日本語を廃止しようとしたことがあったが、まったく
 愚かな行為で浅はかな見方だった。
  完全に黄色人種への蔑視観があった・・キリスト教
 洗脳された見方があった。
  (参考)QRコード:1994年、日本の自動車部品メー
     カーであるデンソー(愛知県)の開発部門(現:
     デンソーウェーブ)が発明したマトリックス
     二次元コード
      高速読み取りを目的の1つとしている。
      トヨタ生産方式「カンバン」(ジャストイン
     タイム生産システム)において、自動車部品工
     場や配送センター等での利用を念頭に開発され
     た。
      誤り検出訂正の能力が高く、また、オープン
     ソースとされたことから、トヨタのサプライチ
     ェーンの範囲から飛び出して独り歩きを始め、
     現在では日本に限らず世界に広く普及している。
      例えば、発明時には、民間においてインター
     ネットやスマートフォンが普及していなかった
     が、それらを用いる「QR決済」が現在、国に
     よっては主要な電子決済の地位を占めるように
     なっている。
      日本国内のテレビ局が、放送画面上にQRコ
     ードを提示して、自らのメディアであるテレビ
     放送とは異なるメディアのインターネットに誘
     う手法、あるいは、雑誌などの紙媒体にQRコ
     ードを提示してインターネットに誘う手法もし
     ばしば見られ、旧来のメディアと新しいメディ
     アのインターネットとの融合に用いられる例も
     多い。
      デンソー開発部門の原昌宏により1992年から
     新たなコードの開発がスタートし・・ 原が昼休
     憩の時間中に社内で打っていた囲碁をヒントに、
     開発目標としてコードの情報量を増やすだけで
     なく「正確に速く読み取れること」、また、油
     などの汚れがつく自動車関連工場で使われるこ
     とを想定し、汚れや破損への強さにもこだわり、
     2年の開発期間を経て1994年に完成した。
      QRコードが普及するよう敢(あ)えて特許
     をオープンにすることとし、規格化された技術
     に対して特許権を行使しないと宣言した。
      QRコードの開発チームは、2014年に、欧州
     特許庁が付与する欧州発明家賞を日本で初めて
     受賞した。
.
2020年2月5日、逗子の市道脇の崖が崩落し、18歳の女子高
 校生が亡くなった。
  読売新聞によると・・5日午前8時頃、神奈川県逗子市
 池子の市道脇の斜面が崩落し、歩道を歩いていた女子高
 校生(18)が土砂の下敷きになった。
  生徒は約20分後に救出されたが、搬送先の病院で死亡
 した。
  現場周辺はがけ崩れなどの恐れが有る『土砂災害警戒
 区域」に指定されているが、道路を管理する同市には崩
 落の前兆現象などの情報は寄せられておらず、市や県警
 逗子署などが原因を調べている。
  市などによると、斜面は高さ約15メートルで、斜面の
 上にはマンションが立っている。
  市道から約7メートルの高さまで石垣が補強されている
 が、その上にある樹木に覆われた約2~3メートルの民有
 地の一部が幅約13メートルにわたって崩れ落ちた。(中略)
  「凝灰岩」風化、原因か・・神奈川県逗子市の土砂崩
 れは、大雨や地震がない中で突然起きた。
  専門家は、火山灰などが固まってできた「凝灰岩」が
 風化してもろくなり、崩落した可能性を指摘する。
  横須賀市自然・人文博物館の柴田健一郎学芸員による
 と、現場周辺は、火山灰などが約400万~約250万年前に
 堆積(たいせき)してできた凝灰岩が広く分布している。
  東京電機大の安田進名誉教授(地盤工学)は、「凝灰
 岩は地表面で風雨にさらされたり、寒暖によって膨張と
 収縮を繰り返したりすると、風化を起こして崩れやすく
 なる」と話す。
  斜面は通常、大雨で地盤が緩んだり、地震で強い衝撃
 が加わったりすると崩れやすい。
  ただ、風化が激しい所では、風による樹木の揺れや、
 大型車両が付近を通る振動などが引き金になることもあ
 るという。
  安田さんは「今後、同様のことが周辺で起きる可能性
 はある。
  早急に地盤の点検を行い、補強工事など適切な対策を
 取るべきだ」と指摘した。
  この時、小生がテレビの報道を見て、まず、感じた事・・
  題:崖崩れの二次災害を恐れる・・
  逗子で崖崩れがあった。
  可哀想にその崖の下の公道を通行していた18才の若
 者が亡くなった。
  救助の方々が、その土砂の排除に大勢の方々の素晴ら
 しい姿が見られた。
  しかし、映し出されたその崩落したその崩の不安定さ
 が感じられる状況に心配となった。
  二次災害が起きなければ良いがと感じられ、思わず祈
 った。
  この様な状況判断をする体制はどの様になっているの
 か・・と思った。
  万一の「再度の崩落」に備える措置を講じてから救助
 するという方策は準備されているのか・・と思った。
  画面には、自分たちの二次災害の危険を顧みず救助行
 動を一生懸命にされている方々の美しい姿があった・・
  二次災害への配慮の体制や装備は・・どうなっている
 のか・・
  あの崖は地山(じやま)ではないのではないか・・?
  その様に見えるのです・・
  (参考)地山(じやま):人為的な盛土などが行われ
     ていない、自然のままの地盤のこと。
  近接するマンションの建設に伴う「埋め戻し土」であ
 って・・しっかりした地山ではないのではないか・・?
  土と石が混じる崩れ易い埋め戻し土の様に見え、そし
 て、思える。
  事故が再発しなければよいがと祈った。
  だから、マンションのところが崩れた・・と思えた。
  地山のところと同じ形状で崖を構築したのではないか・・?。
  見た目を同じにし、埋め戻し土だという配慮がなされ
 ていないように見えた・・
  (追伸)崖側に歩道があったことが不幸であった。
      マンション建設時に、建物から何メートルま
     で掘削し、崖のどの範囲までが掘削しての埋め
     戻し部なのか?・・
      だから、崖の上部にその埋め戻し土部があっ
     たのではないか?・・
      その部分が崩落を起こす切っ掛けの原因にな
     ったという様な事はなかったのか?
      マンション建設時の掘削振動が崖の地山を弱
     めなかったか?
      今後の対策として、ある程度の「安定のり面」
     にする必要があるのではないか?・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/