(増補版)492E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年8月〜1889年9月)

題:(増補版)492E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年8月〜1889年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1889年8月15日、大同倶楽部、大同協和会、保守中正派、紫
 溟会、玄洋社、および「日本」「日本人」の関係者が、
 非条約改正委員会を開いた。
  1888年明治21年)2月、大隈重信外務大臣に就任し、
 各国との条約改正交渉を進めるにあたり、国際会議方式
 ではなく、国別交渉方式で臨む方針を固めた。
  まず、1888年11月、メキシコと修好通商条約を締結し、
  1889年、アメリカやドイツなどと交渉を進めた。
  当初、大隈の条約改正案の内容は秘密にされていた。
  しかし、その要旨が『ロンドン・タイムズ』に報道さ
 れ、国内各紙に訳載されるや、
  国民の間に激しい反対論が沸き起こった。
  特に、問題視したのが、外国人被告事件で大審院に外
 国人裁判官を任用することを定めた点だった。
  大隈の条約改正に最も強硬に反対したのが、新聞『日
 本』だった。
  1889年4月5日から、「日本外交論」を掲載、対等主義
 による条約改正でなければならないと主張した。
  さらに、5月末に、『ロンドン・タイムズ』の論説を記
 載、
  6月5日には、混合裁判の構成と泰西主義の法典とをも
 って、治外法権の撤廃を買うものだと批判した。
  『東京新報』も反対の立場を鮮明にしたが、6月28日に
 発行停止にされた。
  これら反対論に対し、大隈派の矢野文雄を主筆とする
 『郵便報知』は改正案擁護の論陣を張った。
  『東京毎日新聞』『朝野新聞』『読売新聞』なども擁
 護論を展開した。
  玄洋社は、直接、黒田清隆内閣に訴える策を練った。
  頭山満は、谷干城、三浦梧楼、鳥尾小弥太らと謀り、
 頭山が大蔵大臣松方正義に、谷が逓信大臣後藤象二郎に、
 鳥尾が外務大臣大隈に、それぞれ説得に当ることにした。
  頭山は、松方に対し、「条約案は、金甌無欠(きんお
 うむけつ、傷のない黄金のけめのように、完全で欠点の
 ないこと)の国体を毀損するものなり。
  今日の策は、他無し、条約改正を中止するに在るのみ。
 ……余は国論を代表して閣下の決心如何を聞かんと欲す
 るものなり」(『来島恒喜』153)と詰め寄った。
  松方は、襟を正して「余は誓(うけい、神に誓うこと
 によって)て足下の言に負かざらんことを期す」と言っ
 た。
  玄洋社は、頭山が中央で反対運動を展開するとともに、
 福岡において筑前協会を組織し、香月恕経、平岡浩太郎、
 進藤喜平太らが中心となって、反対運動を展開した。
  また、大井憲太郎ら大同協和会は、7月に入ると反対運
 動開始を決めた。
1889年8月25日、条約改正反対派は、東京で全国連合大演説
 会を開催した。
  (東京日日、明治22.10.2)の記事には・・、
  新演説号外第二政談大演説会筆記、十月八日臨時発行
  定価八銭、郵税一銭(郵券代用は必ず一銭切手の事)
  九月二十七、八、九の三日間新富座に開かれたる政談
 大演説会は実に国家重大の一問題たる条約改正に賛成な
 る愛国忠君の傑士九十名が満腔の熱血を濺ぎ吐露せられ
 たる一大演説なれば(已に本月八日臨時発行せし号外第
 一の条約改正に正反対なる全国同志聯合政談大演説の筆
 記と同じく)再び十月八日に於て特に号外第二を発行し
 以て憂世愛国の諸君をして曩(さき、以前)の号外第一
 (反対論)と比の号外第二(賛成論)とを比較対照する
 の便に供すべし是れ新演説発行の趣旨に所謂双竜玉を争
 ふの状況を明かにするの本意なり
  新演説
  第十一号十月一日発行、第十一号目次
  ・条約改正の断行を望むは日本国民の輿論なり…大江
   卓演説
  ・国体論…高橋安爾演説
  ・国民の主操…諸岡正順演説
  ・対等論…林林次郎演説
  ・外交意見一班…曽田愛三郎演説
  ・主務大臣と政治問題…林包明演説
  ・独立国の大権を論ず…前田下学演説
  ・国民の元気…山田寅次郎演説
  ・深思せよ熟考せよ…植木枝盛演説
  ・条約改正論…田口卯吉演説
  雑録数件
  ・雄弁法講義…福陵生
  定価一部八銭、六部前金四十五銭、十二部前金八十五
 銭外ニ郵税一部一銭宛(郵券代用ハ一銭切手之事)
  発行所 東京市日本橋区大伝馬町二丁目 大成館
  ・大売捌 全国諸新聞雑誌売捌
1889年8月26日、江戸開府三百年祭
  江戸開府から300年は、1603年に幕府が開かれているか
 ら、1903年ということになる。
  しかし、祝賀の催しが行われたのは、徳川家康が江戸
 に入った年(1590年)から数えて300年を迎える年の前年、
 1889年(明治22年)だった。
  この年・2月に、大日本帝国憲法が発布された年で、
  また、この年8月26日には、上野公園で盛大な催しが開
 かれた。
  イベントの企画者・賛同者は、前島密ら旧幕臣を中心
 に、実業界、芸能界、政治家など各界の有力者の面々だ
 った。
  委員長は、榎本武揚・・、委員には政治家をはじめ渋
 沢栄一、岩崎弥之助大倉喜八郎らの実業家も顔を揃え
 た。
  入場券は1枚1円。
  芝生の広場に各国の旗章が飾られ、来賓席は江戸城
 宮殿を模した装飾がなされた。
  江戸町火消しの名残をとどめたはしご乗り、猿若狂言
 競馬、獅子手古舞、近衛軍楽隊の奏楽、鍵屋の花火など、
 にぎやかな催しが続いた。
  また、このイベントと別に、都内各所でも様々なお祝
 い行事が行われた。
  この祝典の背景には、消えていく江戸、失われつつあ
 る江戸への回顧があった。
  また、旧幕臣たちの鬱積した感情もあった。
  因みに・・、
  女性の方々が少ない江戸の町のはなし・・、
  江戸の町には、江戸初期の頃はもちろん・・中頃にな
 っても、極端に女性方がすくない・・男ばかりが多い町
 だった。
  1733年(享保18年)の人口調査では・・、
  江戸の町民53万6000人のうち・・男性は34万人で、
 女性は19万6000人(36.5%)。
  町民3人のうち、男性が2人で女性1人となり・・男の
 半分には女性方が居ないという状態だった。
  江戸の町の形成は・・労働者や露店の主人などはもと
 より、大きな商家も奉公人のほとんどすべてが単身の男
 子で、いわゆる男所帯だった。
  しかも、この数字は町民だけの人数で、約50万人とい
 われた武家の人口は入っていない。
  その武家は、参勤交代の武士の大多数が単身赴任の男
 性。
  この時期・・江戸には・・男性が84万人、女性が19万
 6000人(18.9%、江戸総人口103.6万人)となる。
  男4.3人に、女性方が1人という状態。
  江戸の町は・・男だけが道を歩いていた(女性方は、
 家に居られる状況でもあっただろうから・・)
  だから・・時代劇は・・大間違い・・です。
  圧倒的な「男の町」だった。
  女性方が増えて来てくれる時代は・・?
  江戸後期の天保年間(1830年〜1844年)頃から・・、
  男はストレスを抱えて道をあるっていた・・その様な
 町だった。
  喜多川歌麿の美しい女性方の浮世絵が売れる下地は、
 この様な所にもありました。
  (地方は女性天国でした、地方活性化策・・?)
  (今、地方の若い女性の方々が東京を目指すから・・)
  (地方の女性の方々へ、特別優遇策を・・)
1889年8月、十津川大水害など、紀伊半島南部で大雨被害が
 発生した。
  十津川大水害(とつかわだいすいがい)は、熊野川
 十津川)流域で起きた大規模水害で、
  奈良県吉野郡十津川郷(現:十津川村)に壊滅的な被
 害をもたらした。
  奈良県吉野郡十津川郷では、大規模な山腹崩壊が1080
 ヶ所で発生した。
  秋雨前線が日本付近に停滞しているところへ、台風が
 南海上から接近し、8月18日〜8月19日にかけて、和歌山
 県から奈良県南部の範囲に大雨をもたらした。
  台風は、19日午前6時過ぎに高知県東部に上陸し、まっ
 すぐ北上して四国地方及び中国地方を縦断、
  8月20日に、日本海に抜けた。
   和歌山県の記録では、20日午前3時頃から西南風が強
 く吹き、711mbの低気圧に風速40mをともなって県下に襲
 来した。
  雨は9月7日まで降り続いた。
  記録に残る和歌山県での最大雨量は20日に現:田辺市
 元町で観測した日雨量901.7mm、時間最大雨量は169.6mm。
  奈良県吉野地方では、19日の雨量は1,000mmを越え時間
 雨量は130mmと推定された。
  記録的な大雨で崩れた土砂は、谷を埋め、37か所で天
 然のダムを造り、多くの堰止湖が出現した・・が、
  その天然ダムが欠壊し・・それにともなう洪水により
 甚大な被害となった・・一気に大量の水が押し寄せるダム
 決壊は怖い・・
1889年8月、大磯で水着を着た婦人が話題になった。
  この月の朝野新聞に、「女性が水着で泳ぎ始める」と
 題した記事が載り、大磯海水浴場で泳ぐ婦人の水着姿が
 話題となった・・今では・・
1889年9月1日、山陽鉄道兵庫駅神戸駅間が開通し、官有
 鉄道と接続した。
1889年9月9日、和仏法律学校
  東京仏学校東京法学校が合併して、和仏法律学校
 改称した(現=法政大学)
  東京法学校明治法律学校との争い
  明治法律学校は、政府公認の準官学的な法律学校とし
 て出発したはずであったが、
  当時、高まりを見せていた自由民権運動の影響を受け
 て、急速に、野党色を強めて行った。
  特に、自由党を支える人材を生むことになった。
  明治法律学校の校舎となった旧松平忠和邸の三楽舎で
 は、フランス革命の影響を受け自由と権利の拡張を主張
 する学生たちにより演説会が盛んに行われ、
  政府からは自由民権の牙城とみなされるようになった。
  明治法律学校に対抗して設立された同じ仏法系の東京
 法学校が、司法省の強い影響下にあったのと対照的状況
 となった。
  両校は、学生の獲得をめぐって授業料値下げなどの競
 争・対立がなされた。
  そして、共倒れ寸前に至った。
  明治10年代末にようやく和解が成立した。
  その後、帝国大学(現:東京大学)を中心としたドイ
 ツ流法学の台頭を背景に、
  1888年末に、東京法学校東京仏学校との間で、これ
 に対抗し・・同じ仏法系学校として合併しようとする構
 想が起こった。
  そして、東京法学校・仏学校は合同し、和仏法律学校
 となった。
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  (今日の言葉)
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  題:アメリカは、中国が好きなのか?・・または、繰られているのか?
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1928年12月7日、アメリカ上院議会において、パリ不戦条約
 の『批准の是非』が討議された。
  この中で、アメリカが、第二次世界大戦で「日本を経
 済封鎖」したが、
  『経済封鎖は、戦争行為そのものだ』という見解が、
 断言されていた。
  ケロッグ国務長官は、アメリカ議会上院の不戦条約批
 准の是非をめぐる討議において、「経済封鎖は戦争行為
 そのものだ」と断言した。
  アメリカが、第二次世界大戦がはじまる原因となった
 日本を経済封鎖する1941年を遡(さかのぼ)ること13年
 前のことである。
  日米戦争について、日本ではなく・・アメリカこそが
侵略戦争の罪で裁かれるべき』とされる由縁である。
  パリ不戦条約は・・、
  1928年8月、フランスの外相ブリアンが、アメリカに対
 し、戦争放棄を目的としたフランスとアメリカ間の仏米
 協定締結を提案した。
  それを受けたアメリ国務大臣ケロッグが、多角的な
 国際条約にする必要があると各国に働きかけ・・、
  ドイツ、日本も含む15ヶ国が参加して、パリで調印し、
 成立した。
  後に、63ヶ国が参加し、全世界的な国際条約となった、
 「経済封鎖行為が戦争行為とされた」記念すべき会議だ
 った(これを、アメリカは侵すのである)
.
1930年6月17日、スムート・ホーリー法が、アメリカで成立
 した(極端な保護貿易策)
  これは、関税に関する法律で・・、
  1000品目以上の輸入品に最高800パーセントという記録
 的な高さの関税をかけた。
  昨日の値段の『8倍以上の値段となる』という馬鹿げた
 状況だった。
  また、20000品目に、40パーセントの関税をかけた。
  世界中の国が、当然、『報復措置をとった』。
  アメリカ商品に高い関税率をかけた。
  その結果、アメリカの輸出入は『半分以下』に落ち込
 んだ。
  (トランプさんも、自分に都合よさそうな事、アメリ
 カ国民の方々に心地よく聞こえる事を言っているが? 
 落ち着いて・・よく考えて下さい)。
  この時も・・『愚かなる・・世界恐慌』の原因の一つ
 となった。
  恐ろしい世界恐慌がやって来るのである。
  そして、ここからどうしても抜け出せなくて、ルーズ
 ベルトという大統領は「戦争需要の麻薬に手を出すので
 ある」。
  そして、日本を相手にした戦争が始まるのである。
  冷静に、事を処せないアメリカが・・最初に起こした
 原因アクションで、世界中がシッチャカメッチャカとな
 った。
  『愚かな歴史の教訓』となった。
  アメリカという国は、感情的に、この様な愚かなこと
 をする国なのだ。
  日本の安倍首相は、2017年2月、トランプ・アメリカ大
 統領の頭を冷やそうと、フロリダでのゴルフを誘った・・
 応じたトランプ氏も一息入れて・・自分の足元を見るだ
 ろう・・素晴らしい日本の政治家の行為が歴史に刻まれ
 ただろう。
  この時、アメリカは、第一次世界大戦中に、債務国か
 ら債権国なったにもかかわらず、ほぼ1920年代にわたっ
 て自分にだけ都合の良い『保護貿易政策』がとられた。
  これは、大戦によってアメリカに債務を負ったヨーロ
 ッパ諸国の負担を『より深刻なものにさせた』。
  第二次世界大戦の予兆を作ったアメリカだった。
  (参考)予兆:よちょう、きざし、前触れ、前兆、
.
1938年以降、イサク・アフメーロフ(ソ連諜報員)が、ア
 メリカや日本の諜報にかかわる。
  モスクワ大学を卒業と同時にNKVD(人民委員部=
 KGBの前身)に入り、1932年から対外情報部員、1934
 年中国駐在の非公然工作員
  1935年、偽パスポートでアメリカに潜入。
  1938年、ソ連スパイのチェンバースがFBIに駆け込
 んだ頃はモスクワに一時待避。
  1942年〜1945年、アメリカ内非公然組織のトップで、
 アメリカのスパイ組織立て直しに成功する。
  対日諜報作戦にも関わった(スノー作戦)
.
1939年7月26日、アメリカが、突如、日本へ、「日米通商条
 約」を廃棄すると通告した。
  この時の、アメリカの大統領は、フランクリン・ルー
 ズベルトだった。
  日本とアメリカは、まだ戦争もしていないというこの
 時に、アメリカは、『準宣戦布告』というべきこの様な
 過激な行為を日本に対して行った。
  当時の日本は、全輸出額の『半分近く』がアメリカ向
 けであったので、大きな打撃だった。
  『日本を追い詰めて行く』ルーズベルトの方針もあっ
 たが、中国ロビーのアメリカでの活動の結果でもあった。
  また、この中国ロビーの下で支えたのがキリスト教
 YMCA組織があった。
  このキリスト教組織が、大々的に中国を支援していた。
  この頃、中国に派遣されていたキリスト教宣教師たち
 は、本部に対して宣教活動が上手くいっていると偽レポ
 ートを出していた。
  また、ルーズベルトアメリカ大統領のサイドにも、
 中国支援の理由があった。
  ルーズベルトの母方の祖父は、中国とアヘンを含む貿
 易を手広く行っていて財を成した。
  その関係から、ルーズベルトは、中国に対して愛着を
 持ち、友好的に思い、「悪く思う訳はないだろう」と発
 言する始末だった。
.
1941年7月23日、アメリカのルーズベルト大統領は、日本
 本土を爆撃せよと命令し、命令書にサインした。
  これは、『宣戦布告』であった。
  秘密にされた・・、
  この決定は、アメリカ国民の方々へも、卑劣にも秘密
 にされた。
  ここに、ルーズベルトの頭の中に、「先に日本に手を
 出させる」があった。
  アメリカに定着している卑劣な考え方「ファイトバッ
 ク」「銃の早撃ちの殺し屋が、農夫を正当に殺す方法」
 が、このルーズベルトの頭の中にあった。
  牧場経営に邪魔な農夫は、この様な「金で雇った者」
 によって、卑劣なこの方法・考え方で処理された、排除
 された。
  日本も排除された。
  アメリカは、この自分勝手な考え方で、屁理屈で、世
 界のあちこちで、歴史の上で常に行って来ている。
.
1948年、国務長官になるアチソンは、この年に、ソ連スパ
 イで告発された高官のヒスを強く擁護した。
  ディーン・アチソンは、ルーズベルト大統領の財務次
 官や国務次官補を経て、1945年〜1947年に国務次官を務
 め、
  そして、1949年から1953年には国務長官を務めたとい
 う政権中枢の人だったが・・、
  1948年に、アチソンは、国務省の元高官のヒスがソ連
 スパイとして告発された時に援護した。
  アメリカ国民の方々は、これが、アメリカ政権、国務
 省への共産主義の浸透を許したとして強く非難した。
.
1977年1月20日ジミー・カーターが、アメリカ第39代大統
 領になった。
  この大統領選にカーターの外交政策のアドバイザーを
 務め、カーター政権発足後に、国家安全保障問題担当大
 統領補佐官に就任したブレジンスキーは、
  2006年秋に、ワシントンでの公開の外交シンポジウム
 で・・、
  「米中間には、日本人にだけは核を持たせないという
 密約がある、存在する」と発言した。
  米中政府間に、「日本から自主防衛力を剥奪しておく
 ため、アメリカ軍は日本駐留を続ける。
  たとえ、日本の周辺国がすべて核武装しても、日本人
 にだけは核を持たせない」という合意がある・・と。
  しかし、これは、ワシントンでは、すでに『公然の秘
 密』となっている・・という。
.
1992年2月、日本は、「米中両国の潜在的な敵性国家」・・
 故に、自主防衛能力は与えない・・このアメリカ政府の
 本音が暴露された。
  そして、アメリカは、史実を捻じ曲げた。
  1991年12月、ソ連が崩壊し、ソビエト連邦が解体され
 て・・、
  そして、ロシアが生まれ、資本主義が急速に進行して
 行った。
  そして・・その頃・・、一極となったアメリカは・・、
  1992年2月、アメリカが、冷戦後の方針(戦略プラン)
 を策定した。
  それは以下だった・・、
  (1)アメリカが世界を一極支配する。アメリカだけが
    世界覇権を握る。
  (2)ロシアを速やかに武装解除する。
  (3)今後、アメリカのライバルとなるような能力を持
    つ国が出現することを許さない。
  (4)第二次世界大戦の敗者である日本とドイツには、
    自主防衛能力を与えない。
     日本が、アジアにおいて地域的なリーダーシッ
    プをとることを阻止する。
  ・・以上は、機密とされた。
  ・・が、しかし、この機密は漏れた。
  3週間後に、『ニューヨーク・ダイムズ」と「ワシント
 ン・ポスト」が掲載した・・暴露された。
  大騒ぎとなった。
  日本とドイツは、共同歩調をとって、約半世紀・・50
 年を経て・・この時になっても、「仮想敵国扱い」をさ
 れていた・・という事実が・・「ばれた」のだった。
  アメリカ政府は・・、
  「それは、試案の試案、そのまた試案のようなもの」
 と慌てた・・変な言い方で弁解に必死だった。
  しかし、これは本音である・・事実である。
  新聞が、秘密をばらしたと言っても、このアメリカの
 基本的な考え方が変わるということにはならない。
  また、今・現在もこの記事は読むことが出来るが、し
 かし、アメリカ政府に都合の悪い所は書き換えられてい
 る。
  1992年3月8日から3月13日の原本は書き換えが行われて
 いる。
  例えば、日本を露骨に仮想敵国とした文は、かなり削
 られた。
  そして、削除・訂正がかなりある。
  しかし、アメリカの本音は、「米中両国の潜在的な敵
 性国家」。
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2003年秋後半、アメリカが、韓国防衛に、核使用も辞さな
 いと言明した。
  アメリカと韓国の間には、1953年に、相互防衛条約が
 締結されていて、アメリカは韓国防衛の究極の保証人と
 なっている・・そして・・、
  2003年秋の後半、ドナルド・ラムズフェルドアメリ
 国防長官は・・、
  「必要であれば、アメリカは、韓国防衛に核使用も辞
 さない」と明らかにした。
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2011年、フーバー元アメリカ大統領の回想録「フリーダム・
 ビトレイド(FREEDOM BETRAYED、裏切られた自由)」が
出版された。
  この本が出版されると、世界中で大きな話題となった。
  因みに、この本は・・
  1949年、ダグラス・マッカーサーGHQ司令官が、日
 本での翻訳と、出版は禁じたという本だった(卑劣な口
 封じ)
  フーバーは、ルーズベルトの前任のアメリカ大統領だ
 が、
  この書の中では、多くのルーズベルトが犯した間違い
 や、犯罪的事実が記していた。
  第二次世界大戦に至る事実が記され・・、
  その戦争が、本当に愚かなことから発生した悲劇だっ
 たことが分かる。
  また、人類史における未曾有の惨劇だった。
  日本とアメリカの戦争は、明らかに、アメリカが仕掛
 けた戦争で、まったく不必要な戦争だった。
  その責任は、アメリカに存在した。
  この書の説明文を以下に記すと・・
  1941年12月8日、日本は遂に対米開戦に追い込まれる――。
  アメリカ大統領ルーズベルトが、日本が非戦を唱えな
 がら、日本を対米開戦に追い込む過程を膨大な資料を元
 に容赦なく暴き・・、
  1948年に発刊されるも、直ちに「禁書」同前に扱われ、
 占領下の日本でも翻訳されることのなかった政治・外交
 史の大家の『幻の遺著』が、遂に全訳刊行!
  著者は、米政治学会会長や歴史協会会長などを務めた
 第一人者、チャールズ・A・ビーアド元コロンビア大教
 授(1874年〜1948年)
  順次解禁された米側の外交公文書や連邦議会議事録な
 ど膨大な資料を詳細に調査・分析し、
  1948年4月に、米国内で発刊されたものの、政府側の圧
 力などによって激しい不買運動が起き、事実上の禁書扱
 いとなってしまった「幻の名著」だ。
  いわゆる「ルーズベルト陰謀説」が終戦直後に、米側
 公文書などによって裏づけられていた意味は大きい。
  因みに、1951年5月3日、アメリカ上院軍事外交委員会
 において、「日本の真珠湾攻撃は正当な『自衛権』の行
 使」とマッカーサー元帥は証言している。
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2017年1月26日、韓国の「帝国の慰安婦」の著者が無罪とな
 った。
  この日の読売新聞によると・・、
  著者である朴裕河(パクユハ)教授に無罪判決が言い
 渡された。
  事実認定には踏み込まなかった。
  ソウル東部地検が虚偽とした記述に・・、
  「少なくとも『強制連行』という国家暴力が朝鮮人
 安婦に関して行われたことはない」・・とある。
  判決は、無罪。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive