(増補版)440E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月〜1887年1月)

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題:(増補版)440E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月〜1887年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年、産業:
・綿作の中止拡大する。
  養蚕を広めるためだった・・、
  そして、この頃、外国産の綿製品が、日本に流入した
 ぐらい「外国産の綿」が優れていた。
  特に、アメリカ産。
  江戸時代、西日本を中心として綿作が盛んとなった。
  特に、畿内はその中心地であった。
  幕末になると、「開国」によって外国産の綿製品が日
 本に流入して来た。
  この事によって、日本の綿作は危機にさらされた。
  その後、日本の綿作は衰退して行くが・・、
  その日本の綿作の衰退については二つの説がある。
  外国の綿製品の流入によりそのまま衰退したとする説
 と、
  外国産綿製品と日本産綿製品とは品質が違うので、ス
 トレートに衰退したわけではない・・とする説である。
  綿作は、明治期がその分岐点となった。
  その一方、「開国」によって、日本は、外国へ主とし
 て生糸を輸出する方向へなって行った。
  そして、養蚕・製糸業は、輸出産業として活況を呈し
 て行った。
  明治期は、まさに、衰退していく綿作と、成長する養
 蚕とが交差する時代であった。
深谷市上敷免(じょうしきめん)に、日本で最初の煉瓦
 製造会社が創立された(1888年説あり)
  日本煉瓦製造株式会社(にほんれんがせいぞう)は、
 1888年明治21年)に、現在の深谷市上敷免において、
 操業を開始し、
  2006年(平成18年)までの120年間にわたり存続したレ
 ンガ製造会社で、
  ここで焼成された煉瓦は、東京駅をはじめとする建築
 物に使用され、
  日本の近代化に大きな役割を果たした。
  明治政府は、銀座周辺を近代的建築による官庁街とす
 る「官庁集中計画」を立ち上げ、
  1886年明治19年)に、臨時建築局を設置した。
  建物群は、西洋風のレンガ造りとするため、多量のレ
 ンガが必要となった。
・勧工場(かんこうば)多し
  勧工場は、日本独特の百貨商品陳列所で・・、
  一つの建物の中に、多くの店が入り、いろいろな商品
 を即売した所で、デパートの進出により衰えた。
  1877年、上野公園に開設した第1回内国勧業博覧会で、
 閉会後、出品者に売れ残りの品を返したが、
  出品者の希望によって、その一部を、残留陳列して販
 売することになり、
  翌年・1878年、商工業の見本館が開設された(これが
 勧工場のはじめ)
.
1887年、経済・金融・貿易:
・国産石鹸の支那向け輸出が始まる。
  この頃の石鹸は、高価な贅沢品であった舶来物か、
  廉価で、手に入りやすいが品質の劣る国産のどちらか
 だった。
  1905年の「清国広西省梧州視察復命書」があるが、
  それに、以下の記述がある(翻訳文)
  「石鹸ハ日本、獨逸、佛蘭西、製多ク、殊ニ日本ノ佛
 製模造品賣行最モ好シト。
  梧州地方の人は、一般的に湯で体を拭く習慣があり、
 タオルの使用が広く流行していた。
  そのためタオルの需要は多く、輸入額も急増した。
  ところが、日本製のタオルも梧州市街のいたるところ
 の店頭に見られたが、
  その輸入額は、総額の三分の一にも満たず、イギリス
 製と称するドイツ製のものが多額を占めていた。
  また、フランス製を模造した日本産の石鹸が好まれ、
 その他に輸入額が多い日本製品については次のものがあ
 った。
  日本品ニシテ當市場ニ輸入セラルヽモノ多シ、蓋シ綿
 毛織物類ヲ除キ外國品中最多額ヲ占ム、其重ナルモノハ
 綿布、綿縮、燐寸、海產物等ナリ。
  因みに、花王石鹸は、この3年後の1890年に創業された。
.
1887年、交通:
新宿駅に改称
  日本鉄道品川線「内藤新宿」駅が「新宿」駅に改称さ
 れた。開業は1885年だった。
.
1887年、衣:
皇后陛下の婦人服制に関する思召書が発布された。
  1887年1月に、皇后陛下が、洋服を奨励する思召書が出
 された。
  「勉めて我が國産を用ひんの一言なり。もし、能く國
 産を用ひ得ば、傍ら製造の改良をも誘ひ、美術の進歩を
 も導き、兼ねて商工にも、益を與ふることおおかるべく」
 ・・と、国産の洋服の着用を呼びかけられている。
・陸海軍将校が、儀式・宴会に夫人同伴の時は、洋装する
 ことも申合す。
  鹿鳴館と男子洋装の位置づけは、女子の場合ほど明確
 な意味は持たなかったが、
  夫人同伴のダンスと、飲食を伴う社交の場で、洋服が
 着用されたのは画期的な変化だった。
  鹿鳴館を中心とした欧風化により、さらに、洋装化が
 促進された。
  新聞報道がこの事を裏付け、また、世間の認識を、急
 速に改めさせた。
  朝野新聞の「洋服全盛の時代」や、郵便報知新聞の「
 洋服流行」の記事などがある。

大阪市内学校の一部で、「洋服裁縫」の授業を始める。
  世間は「洋服流行」の中にあった。
  この様な中で、洋服の注文に応ずる洋服裁縫師が、多
 忙を極めていた。
  学生たちにも洋服が受け入れられ、
  1885年(明治18年)には、大学予備門の生徒が、一同
 申し合わせの上、モヘルの洋服を着用することを決め、
  慶應義塾生徒も過半数が一斉に洋服に改めた。
・三井呉服店が、フランス人裁縫師を招く
  1872年(明治5年)の正月、三井首脳陣は、大蔵大輔・
 井上馨の邸に招かれ、
  そこで「三井家は呉服業を分離して、銀行設立に専念
 せよ」と内命を受けた。
  銀行設立を一番の目標としていた三井首脳陣はこれを
 了承した。
  ・・とはいえ、伝統の家業をおろそかには出来ない。
  東京・京都・大坂の重役が集まり、協議した結果、
  越後屋呉服店を大元方の所管事業から切り離した上で、
 新たに「三越家」を興し、
  三井家が、三越家へ呉服業を譲渡する形をとり、分離
 独立させることにした。
  1874年(明治7年)、日本橋駿河町に三越家経営の越後
 屋が新たに開店した。
  1886年明治19年)には、洋服部を新設し、
  1888年明治21年)に、洋館建物「三越洋服店」をオ
 ープンさせた。
  この頃、1883年(明治16年)に「鹿鳴館」が完成し、
 華族と在日外国人の社交場として洋装の発信地になって
 いた。
  また、越後屋のライバル・白木屋も、先んじて明治19
 年に洋服店を開いていた。
  しかし、洋服は、一般庶民にまでにはなかなか浸透せ
 ず、三越洋服店は閉鎖となった。
  1893年明治26年)の商法施行に際し、三越得右衛門
 を三井姓に戻し、越後屋を合名会社に改組。
  再び、三井家の事業とし、「三井呉服店」と改名した。
  ここに、三井高利から続いた「越後屋」の店名は失わ
 れた。
  高利が、1673年(延宝元年)に、江戸で越後屋を開い
 てから230年、もはや、呉服業は三井の主流事業ではなか
 った。
  1895年(明治28年)、三井銀行大阪支店長・高橋義雄
 が三井呉服店の理事に就任した。
  高橋は、アメリカの百貨店を研究しており、ガラス張
 りショーケースの陳列や、「意匠部」を新設するなど、
 三井呉服店の近代化を図った。
  高橋は、中上川彦次郎を通じて、三井銀行本店副支配
 人の日比翁助に三井呉服店入りを勧め、
  1898年(明治31年)日々は、三井呉服店副支配人とな
 り、近代化改革をさらに推し進めた。
  1904年(明治37年)12月、三井家の事業再編の中で、
 三井呉服店は、再び分離され、
  株式会社化した上で「三越呉服店」と名称を変更した。
  三越の専務となった日比は、設立された同月・12月、
 「デパートメントストア宣言」を、全国主要新聞に広告
 掲載し、日本初の百貨店としての道を歩み始めた。
  1906年明治39年)、日比は、欧米を視察し、イギリ
 スのハロッズ百貨店を目標に決め、同年・1906年、洋服
 部を再開した。
  靴、洋傘など、三越ならではの輸入品を販売し、品ぞ
 ろえの幅を広げて行った。
  また、宣伝にも工夫を凝らし、有名は広告コピー「今
 日は帝劇、明日は三越」も生まれた。
  1914年(大正3年)、三越呉服店の本店(現:日本橋
 越本店)は、鉄筋5階建ての新店舗となり、日本初のエス
 カレーターが設置され、全館暖房となり、時代をリード
 する百貨店となった。
  (三井広報委員会ホームべージを参考にした)
・柳原古着屋に女性用の洋服が、ぶら下がるようになる。
  柳原土手通りが古着市場となっていた。
  柳原土手は、神田川下流の浅草御門(現在の浅草橋付
 近)から、筋違御門(現在の万世橋昌平橋の中間付近)
 までの南岸に築かれた土手で、
  柳の木が植えられていた。
  古地図には、浅草御門から「是ヨリ筋違迄ヲ柳原通リ
 ト云」と書かれている。
  明治時代に、この土手は壊され、今はないが、街路樹
 の一部に柳の木が植えられている。
  柳原土手は、夜鷹が現れる場所として小説に登場する。
  その様な、神田川の南岸に沿って築かれていた柳原の
 古着屋街。
  それは、最初は、総延長1.5km弱の土手に沿った通りに、
 土手を背にして屋台店が並んでいた。
  軒数は不明だが、明治初年に、同所での店営業の許可
 が検討されるが、その許可軒数は約550軒くらいだった。
 成立年代は不明だが・・、
  店の場所全体は、八つの区画に分かれていて、それぞ
 れの区画ごとに、幕府からの営業認可を受けていた。
  その認可は、18世紀前半に順次出されたが、それ以前
 から無認可の営業が存在しただろう。
 古着市場の成立年代もはっきりはしないが、ここの古着
 商売への史料の言及は、1730年代以降に出て来る。
  店の場所が、幕府から認可された18世紀前半頃に、柳
 原土手通りの古着市場も形成されたのだと考えられる。
  古着を扱う店数は、100〜200軒程度だったのだろう。
・編物が、神戸にも流行する。
  明治19年代から20年にかけ編物の流行を思わせる記事
 がある 。
・商人が、鳥打帽子を使い始める。
  鳥打帽子(とりうちぼうし)は、狩猟などに用いた所
 から出た名で、前びさしのついた丸く平たい帽子(ハン
 チング帽)
  明治の取り入れられた頃は、和服姿にも似合うと親し
 まれた。
・中折帽子を、地方の役人たちが被るようになる。
  中折帽子(なかおれぼうし)は、もっぱらフェルト製
 で、ソフトハットとも呼ぶ。
  第二次世界大戦前頃まで一般的に使用され、当時の公
 務員や会社員に愛用されていた。
  イタリアのボルサリーノ製品が有名で、1900年頃には、
 75万個が製造され、半数以上が外国に輸出された。
・ネル製品の襟巻が多くなる。
  ネルは、フランネルの略で、
  フランネルは、紡毛糸で平織りまたは綾織りにし、布
 面をやや毛羽立たせた柔らかな毛織物。
  紡毛糸(ぼうもうし)は、羊などの比較的短い毛や再
 生毛などでつくった糸で、毛羽(けば)が多く、縮絨(しゅ
 くじゅう)しやすい。
  縮絨は、毛織物の仕上げの工程で、組織を緻密 (ちみ
 つ) にし、また毛端を絡ませてフェルト状にすること。
 石鹸 (せっけん) 溶液やアルカリ性溶液で湿らせ、圧力
 や摩擦を加えて収縮させる。
  フェルトは、羊毛などの獣毛に蒸気・熱・圧力を加え
 て縮絨(しゅくじゅう)させ、布状にしたもの。
・衣類の防虫に関する関心が多くなった。
  漢の武帝(紀元前2世紀)の時代に曝衣楼が造られ、7
 月7日に宮廷人たちが衣類を出してこの楼台で干したとい
 う。
  この日は衣服ばかりでなく書物の虫干しも行われた。
  後漢の「四民月令」は民間の年中行事を伝える最古の
 書と言われるが、その7月7日の条には「経書及び衣裳を
 暴すれば虫なし」とある。
  古代は、衣服や書物の虫退治は大問題だった。
  日本における防虫は、奈良・正倉院の曝涼(ばくりょ
 う)がある。
  (参考)曝涼:ばくりょう、夏、または秋の天気のよ
     い乾燥した日を選んで衣類・書籍などを日にさ
     らし風を通して、かびや虫のわくのを防ぐこと。
     虫干し。
  その曝涼帳として787年(延暦6年)がある(曝涼使解)。
  また、811年(弘仁2年)の「官物使解」には、収蔵し
 ている香薬や諸宝物を点検しながら風日に曝したことが
 克明に記されている。
  その中には毛皮や衣類・毛氈(もうせん、フェルト的
 なもの)が含まれていた。
  日本は、その他、仏具や衣類、書画などを風日に曝し
 ていた。
  夏ばかりでなく春や秋にも行われていた。
  言葉としても、虫干し、虫払い、土用干し、風入、御
 衣(おんぞ)干し、夏干しなどがある。
  寺社では「什宝虫払い」の行事が恒例として行われて、
 庶民の方々は、それを拝観していた。
・東京綿商社が設立された。
  鐘紡はこの年に設立された。
  1886年明治19年)東京・日本橋に9軒の繰綿問屋があ
 ったが、その中の5軒が、シナ綿の定期売買を主業とする
 東京綿商社という資本金10万円の会社を創立した。
  1887年(明治20年)ところか需給の関係から、綿花の
 在庫に悩まされ、その打開策として90万円の増資を断行
 し、紡績経営に乗り出すことになった。
  5月6日設立登記。
  8月、「東京綿商社」を解散し「鐘ヶ淵紡績株式会社」
 と改称し、初代社長に三井得右衛門が就任した。
  1888年(明治21)三井の出資を得て、土地を東京府
 葛飾郡隅田村隅田川畔「鐘ヶ淵」に求め、イギリスより
 最新式の機械を輸入して模範的工場の建設に着手した。
  1889年(明治22年)工場の設計は挙げて学者に託し、
 費用を惜しまず建材や設備に舶来品を用い、30,240錘の
 当時我が国最大の工場を造った。
  世間てはこの工場を見て「三井の道楽工場」といった
 という。
  そして、残念なことだが、2007年、カネボウは消滅し
 た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:「ノホホン」とした「あなたまかせの論理」は・・、
    空論なのを・・知らなければならない。
    結局、アメリカは、自分の口が大事・・、
.
1998年2月、韓国に金大中政権が発足した(〜2003年)
  1997年12月18日の大統領選挙で、金大中が選ばれてい
 た。
  この政権は、対米外交に苦慮した。
  そして、韓国には、この頃から反米感情が高まって行
 った。
  韓国内にあるアメリカ企業の利益団体である「駐韓米
 国商工会議所」は・・、
  1997年3月15日、韓国政府に「1997年度の年次報告書案」
 を提示した。
  そこには、「外国人の営業環境を改善するために韓国
 政府が履行すべき事項」が、何と『23の分野』にわた
 って列挙されていた。
  この報告書案は、その次の年の1998年の3月末、本国の
 アメリカ政府が議会へ提出する「国家別貿易障壁報告書」
 の基礎資料となった。
  アメリカ政府の・・韓国へ対する「市場開放圧力」の
 一端があった。
  その主な要求事項は・・、
  (1)韓国は、輸入自動車に対する宣伝を積極的に行な
    う。
  (2)自動車の輸入に影響を与える措置に関しては、前
    もってアメリカ政府に通達する。
  (3)輸入自動車に対する関税を、アメリカ国内の水準
    にまで引き下げよ。
  (4)農協に農産物の輸入許可を取り扱えること、
  (5)私的所有権の保護に関し、検察は捜査の強度を高
    め、裁判所は「より厳格な判決を下すこと」、
  (6)法定退職金制度を廃止し、労組を不当労働行為の
    摘発対象に含めよ、など・・、
  アメリカ政府は、アメリカの自国民と企業の権益を擁
 護するために、内政干渉的な強圧をかけた。
  (第二次世界大戦後も、利益を得ようと、利益を得た
 いと、アメリカは、アジアで、こんなことをやっている)
  韓米間の力関係から考えると、これは、韓国政府に対
 する『横柄、かつ、不当な外交圧力』としか言えない。
  特に、(2)は・・、
  韓国政府が、アメリカ製自動車の輸入を規制する何ら
 かの措置を取ろうとすると、事前に、『アメリカ政府の
 裁可を得よ』との言い方であり、
  これ程までの『露骨な内政干渉』は、今・現在の時代、
 他に類例を見ないほど『従属国的に愚弄(ぐろう)』し
 ている。
  (今、アメリカは、日本の皇室関係についても、非常
 に内政干渉的な事を言っている・・自国の悪さの足元も
 見ないで・・)
  こうした『駐韓米国商工会議所』の要求に対して、韓
 国政府は、「私的所有権の保障に関しては、韓国の検察、
 および、裁判所が誠意をもって対処している」との回答
 を伝達した(3月6日付「東亜日報」)
  これに先立つ1998年3月9日、アメリカ通商代表部(U
 STR)は・・、
  「韓国政府が設けている輸入規制を除去するために圧
 力を強化する」との『宣戦布告』をした。
  ガイドナー財務副次官も、同日に・・、
  「韓国政府が、経済構造の調整査過程で企業に支援金
 を提供するなら、国際通貨基金IMF)の借款は中断
 されるだろう」と・・威嚇を加えた。
  IMFの救済金に依存せざるを得ない金大中政権は、
  (IMFは210億ドルを支援したが、この時、日本も
 100億ドルを支援した・・韓国は、今、感謝しているのだ
 ろうか?)
  この時、韓国は、アメリカ政府からのこうした理不尽
 な『通商圧力』を受けていた・・、
  これに対して、韓国は、殆ど、無抵抗の状態に置かれ
 ていた。
  1997年11月に、表面化した韓国の経済危機に関して、
  2月26日付『ニューヨーク・タイムズ』の記事は、その
 背景に、アメリカ政府の『巧妙な手口』が隠されていた
 ことを暴(あば)いた。
  1996年6月、クリントン政権の国家経済会議(NEC)
 が、韓国政府に対し、「金融市場の自由化に踏みきれば、
 経済協力開発機構OECD)への加入を許可する」と
 の韓国が欲しがっているエサを・・韓国へ投げた。
  韓国は、「先進国への仲間入りを宣伝する格好の機会」
 だと判断し・・
  金泳三政権は、このアメリカの言葉に飛びついた。
  国内の金融機関が、十分な対応力を備えていないノー
 ガードの状態で、金融自由化が施行されたために、
  案の定・・韓国の金融市場は、アメリカの投機資本の
 餌食(えじき)にされた・・、
  韓国は、深刻な為替危機に陥(おちい)ってしまった。
  年金と基金などを含めると、アメリカの金融資本は、
 1995年の段階で『20兆ドルの規模』であり、これは、世
 界の年間交易額の4倍という巨額に相当した。
  彼ら・アメリカにとって、リスクの高い第3世界よりも
 韓国のような「新興市場」が、より魅力だった。
  また、IMFは、1996年の夏、「インドネシアに続き
 韓国政府が、金融資本の自由化を施行したことを歓迎す
 る」とのコメントを発表した。
  韓国のことわざには、「病にかからせ薬も与える」と
 いうことわざがあるが、
  まさに、これは、韓国の経済危機に一役買ったIMF
 に救いを求め・・その指示を受けながら・・市場の更な
 る開放へ突き進む・・開放を断行している・・金大中政権
 の現状は、希望と「ま反対」の極めて皮肉なものとなっ
 た。
  1998年4月1日に、金大中政権が、為替の自由化に踏み
 切り、韓国経済は、全面的な市場開放に向けて乗り出し
 た。
  外国資本は、すでに、韓国の証券市場を左右するだけ
 の絶対的な影響力を発揮していた。
  上場企業の株価のうち19%を占有するに至った外国資
 本は、株主総会でその存在を誇示した。
  そして、大量の外貨が・・韓国から流れ出る、外へ向
 かって流出し始める。
  浦項製鉄は、世界第一の粗鋼生産企業で、1兆1229億ウ
 ォンの純益をあげているが、外国資本の株式保有率は、
 既に、38.1%に達していた。
  半導体部門で世界第一の実績を誇る三星電子(3132億
 ウォンの年間純益)も、外国資本の持ち株が51%と半分
 以上・・、
  そして、韓国電力が、3月に、7億5千万ドルの株式を
 海外で売却し、
  5月には、韓国通信が、12億ドルの株式を外国資本に売
 却する。
  国家の基幹産業が売られて行った。
  アメリカの要求した金融自由化の旗の下に、韓国を支
 えてきた生命線とも言える基幹産業を、
  次から次へと外国資本の手に、安売りする金大中政権
 の経済政策を、『韓国の国民は、容認しなかった』。
  ムーディス社のような、アメリカの信用調査機関が、、
 『韓国経済は危機を脱した』として評価ランクを格上げ
 したり(まゆつば格上げ、お手盛り格上げ、嘘つき格上
 げ、実際、韓国は苦しみ続ける)、
  IMFが、韓国を『IMFの模範生』として称賛した。
  (IMFなんて、何ら国際性はない・・私企業と言っ
 てもいい)
  このIMFの意味は、金大中政権が、アメリカ金融資
 本にとって最大の利益を保証するシステムを受け入れた
 ことへのリップサービス(口先だけの御世辞、おべんち
 ゃら)に過ぎない。
  恐ろしい甘言であった。
  (本当に韓国の事を思っていたのか?)
  この様なことで、韓国では、この頃から反米感情が高
 まって行った。
  韓国に駐在するアメリカ兵が、ソウルの町であからさ
 まな嫌がらせを受けたり、
  在韓米軍基地に、大々的なデモがかけられたり、
  在韓米軍の関係者の住宅に火炎瓶が投げ込まれたり、
  ・・と言った事件が相次いだ。
  その頃の韓国在任のアメリカ人高級将校は・・、
  「我々は韓国という『敵地・戦争している地』に進駐
 している部隊だと思っている」と言った。
  そして、「日本へ来て、ようやく味方の戦戦に戻って
 来たようで・・『ほっ』とする」と言う。
  アメリカのクリントン政権時代(1983年〜1992年)の
  アメリカの軍人の間では・・
  「世界で一番嫌な任地は、クェートでも、サウジアラ
 ビアでも、ボリビアでもない・・韓国だ」・・と、
  将来を約束されているエリート将校でも、韓国勤務を
 命じられたら、その人事に対して異議を申し立てる。
  将来を棒に振ってでも、異議申し立てをするほど「嫌
 な任地」だという。
  それほど、韓国の方々の反米感情は強く、そして、そ
 の影響が、米兵に対しても出ていた。
  今後、長期に渡って深刻化して行くと言われる「米韓
 危機」である。
  (表面的にはくっついても、心は離れている・・その
 様なものだ)
  この米韓関係に完全な亀裂が入った場合、日本の長期
 的な安全保障は不安定の中に入って行く(安心してはい
 られない)。
  今、現に、「日本の安全保障から下りることを明言す
 るアメリカ大統領候補も居る」。
  日本の安全保障は、結局、日本人が真剣に考え、努力
 をして行かなければ「手に入れられるものではない」。
  「ノホホン」とした「あなたまかせの論理」は、空論
 なのを知らなければならない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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