(増補版)435E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年10月〜1886年11月)

題:(増補版)435E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年10月〜1886年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1886年10月、高等師範学校で、学年を4月1日から3月31日ま
  でとする『学年制』を開始した。
  日本の大学や高等学校など高等教育機関においては、
 明治時代から長くに亘って、9月学年始期制が採用されて
 いた。
  日本で、4月学年始期制が採用されるようになったのは
 相当後年で・・、
  例えば、東京帝国大学では、1921年(大正10年)に、
 4月学年始期制が採用された。
  1886年明治19年)に、高等師範学校において、4月学
 年始期制が採用され、
  1892年(明治25年)に、小学校でも、4月学年始期制が
 採用された。
  これは、日本の国の会計年度が、4月から始まることな
 どの影響が強い。
  小学校においては、明治時代初めは、6ヶ月単位の等級
 制であったが、さまざまな理由から学年制に変更されて
 いった。
1886年11月1日、チャリネ曲馬団、吹上御苑馬場で天覧。
  その模様を伝える各紙・・、
 ☆明治19年10月30日 読売新聞・・
  曲馬天覧 聖上には来月一日吹上の御苑に於て伊国の
 曲馬師チャリネの技術を天覧在らせらるゝに付、皇族及
 び大臣各国公使其他文武官有爵者の内を召させらるゝ由。
 ☆明治19年10月31日 郵便報知新聞
  曲馬天覧 聖上は明一日午後四時御出門 皇后宮御同
 列にて吹上御苑へ 行幸ありて、伊国曲馬師チャリニの
 技術を天覧あらせらるゝに付、皇族、大臣、各国公使、
 其他文武官、有爵者の内を召され、御陪覧を仰付けらるゝ
 趣。
 ☆明治19年11月1日 時事新報[広告]
  チャリネ十六伊タリヤ王国世界第一チヤリネ大曲馬大
 獣苑広告
  当所ノ興業ハ今土曜日二回ノ興業ヲ以テ千秋楽仕候
  重大特殊之広告
  今般畏クモ大日本 天皇陛下ノ叡慮ヲ蒙リ、追々準備
 相調ヒ候ニ付、来ル十一月一日ヲ以テ吹上禁苑馬場内宮
 中歴々ノ御前ニ於テ、非常絶妙ノ巧芸ヲ 天覧ニ奉供候
  就テハ築地興業ノ義ハ来ル十一月三日天長節ヲ卜シ東
 京公衆諸君ノ御覧ニ入レ候間、一層賑々
 敷御遊覧伏テ奉希候
  十月三十日  神田秋葉原 書記マアヤー謹白
 ☆明治19年11月1日 時事新報
  チャリネ新衣を作る 本日はいよ〳〵吹上禁苑に於て
 チャリネ曲馬の天覧に付ては、過日来芸人等は其準備に
 忙はしく、所持の衣裳もふるびたるにや、新に之を製す
 るとて尾張町一丁目四番地の洋服店高橋忠太郎方へ注文、
 大急ぎにて出来上りたりとの事なれば、本日は定めて一
 層の美観を添ることならん。
1886年11月4日、児島惟謙らが、関西法律学校を開校した。
  後の関西大学
  関西法律学校は、井上操、小倉久、鶴見守義、手塚太
 郎ら関西の司法官が、当時、公務員の私立学校への出講
 は司法大臣の許可が必要であったため、
  児島惟謙、吉田一士らが後援し、当時の司法大臣・山
 田顕義を動かし、校舎も資金もない状態で創立されたフ
 ランス法系の私立法律学校。
1886年11月5日、海軍省が、海軍陸戦隊概則を公布した。
  海軍陸戦隊は、日本海軍が編成した陸上戦闘部隊で、
 単に陸戦隊と呼ぶこともある。
  元々は常設の部隊ではなく、艦船の乗員などの海軍将
 兵を臨時に武装させて編成することを原則としたが、
  1930年代には、常設的な部隊も誕生した。
  これに対して、鎮守府などの陸上部隊の人員で、地上
 戦闘部隊を作ることもあり、特に、特別陸戦隊と呼んだ。
  海軍陸戦隊は、1877年(明治10年)の西南戦争などで
 機動力を生かし、鎮圧に功績を挙げた。
  日露戦争では、仁川上陸作戦などの上陸作戦で、陸軍
 を支援したほか、陸揚げした艦載砲と乗組員で臨時に編
 成された海軍陸戦重砲隊が、旅順攻囲戦に参加した。
1886年11月5日、東京・神田旅籠町に、伊勢屋丹治呉服店
 (現=伊勢丹)が開店した。
  1886年明治19年)、初代小菅丹治(こすげたんじ)が、
 東京の神田旅籠町(かんだはたごちょう)(現千代田区
 神田)に伊勢屋丹治呉服店として創業した。
  「帯と模様の伊勢丹」の名声を得て、東京の有力呉服
 店の一つになった。
  1923年(大正12年)の関東大震災で、神田の店舗は壊
 滅的被害を受けたが、
  1924年の翌年に、百貨店形式の2階建て店舗で営業を再
 開した。
  1930年(昭和5年)に、株式会社伊勢丹を設立、将来の
 発展性を見込んで、
  1933年に、神田から新宿に移転し、7階建て店舗を開店
 した。
  1935年に、隣接する百貨店のほてい屋を買収、
  1936年の翌年には、接続工事を完了して売場面積を2倍
 とした。
1886年11月8日、ノルマントン号事件海難審判で、神戸英国
 領事は、船長の措置に過失無しと判決した。
  日本国民の間に猛反発が起こった。
1886年11月11日、帝国大学の制服着用が実施に移った。
  この年に、風紀向上策の一環として取り入れられた。
  尚、制帽は、1885年の前年に、在学生が考案したもの
 を採用した。
1886年11月14日、政府が、兵庫県知事の名で、ノルマント
 ン号船長を殺人罪で告訴した。
  毅然とした明治政府は偉かった。
1886年11月15日、万国赤十字条約を公布(11月16日説あり)
  11月16日に赤十字条約へ加入の件を公布。
1886年11月17日、東京の博愛社病院(後の日本赤十字病院、
 麹町区飯田町)開院式あり(皇后宮行啓)
  有栖川宮熾仁親王から博愛社設立の許可を受ける(佐
 野常民)。
1886年11月20日、山口中学校が、官立山口高等中学校に改
 組した。
   1886年明治19年)公布の中学校令に基づいて設立さ
 れた山口高等中学校・・、
  山口中学校は、第一(東京)、第三(大阪、後に京都
 へ移転)に次ぐ全国3番目の高等中学校(後に高等学校)
 として山口市亀山地区に設立された。
  沿革・・、
  1815年(文化12年)上田鳳陽、私塾山口講堂開設。
  1845年(弘化2年)山口講習堂と改称。
  1863年文久2年)藩校 山口明倫館と改称。
  1870年(明治3年)山口明倫館を県立山口中学校と改称。
   高等・尋常の両中等科設置。
1886年11月29日、東京銀行集会所開業式で白熱灯40個が点
 灯された(1885年説あり)。
  1879年、アメリカにおいて最初の伝統企業が設立され
     た(ブラッシュによるアーク灯電灯会社)
      エジソンが白熱電灯を実用化。
  1882年、エジソンが白熱灯供給による伝統企業をニュ
     ーヨークに設立した(1881年説あり)。
  1882年、日本国内で最初の電灯会社が発起され、東京
     府に会社設立の申請が出された。
      電燈照明の企業化をに瀕人が初めて試みた。
  1883年、東京府から会社設立の許可を得た。
  1886年、初めての電気事業者として東京電灯会社(現:
     東京電力の前身)が開業した。
  1887年、本格的な白熱灯点灯による開業。
      東京電灯が第二電灯局を建設、日本初の火力
     発電所が誕生(出力25kw)
  1888年、初めての自家用水力発電所が宮城紡績所に誕
     生した。
  1889年、アメリカから交流発電機を輸入し、大阪電灯  
     が交流式配電を開始した。
  1890年、品川電灯・深川電灯が開業した。
      東京電灯が浅草紫雲閣でエレベーターを運転
     した。初の動力用電力を供給した。
  1891年、帝国電灯が開業した。
      電気営業取締規則が制定される。
  1892年、東京電灯が電灯1万灯祝典を挙行した。
     (因みに、開設当初は130灯が5年で1万灯に)
      京都市の日本初の営業用水力発電所が完成
     (京都市営蹴上発電所完成、出力160kw、現存す
      る最古の水力発電所で、現在も4500kwで稼働
      している)
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  (今日の言葉)
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  題:1941年のこと・・
    我々の子孫は、その精神を受け継いで再起・三起するであろう・・
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1941年12月1日、御前会議が開かれた。開戦についての討議
 である。
  クラスに一人めちゃめちゃに強い腕白(わんぱく)ボ
 ウズが居た。
  この腕白ボウズは、ある一人の小さい子をターゲット
 に、なんだかんだと虐(いじ)めていた。
  また、この腕白ボウズは、強いのに、子分を一杯引き
 連れていた。
  そして、一緒になって、なんだかんだと小さい子を虐
 めていた。
  ある時、このメチャ強い腕白ボウズは、引き連れた子
 分たちと一緒になって、この小さい子をめちゃめちゃに
 やっつけた。
  卑劣な卑怯な手を使ってまでして、この小さい子をや
 っつけた。
  小さい子は、完全に打ちのめされた。
  でも、よく、小さいながらも戦った。
  しかし、最後は、完全に打ちのめされて、降参した。
  しかし、この大きくメチャ強い腕白ボウズは、「何も
 文句は言うなよ」と、クタクタにやられた小さい子に口
 止めした。
  条件は、何も付けるなという意味だ。
  コテンコテンにやられた小さい子は、それで何も言え
 なくなった。
  大きく強い腕白ボウズは、子分を引き連れて裁判を開
 いた。
  そして、今までにない法律を作って、それは裁く法律
 がないからで・・、
  小さい子が、法律にふれることがないからで・・、
  だから、わざわざ法律を作ったという事だった。
  つまり、法律に触れないという無罪状態だったから、
 わざわざ法律を作って有罪に蹴落とそうとした。
  「無罪になってはまずい」のである。
  そして、当然に、『有罪判決を出した』。
  そりゃそうだろう、有罪になる法律を作ってまでして
 裁判をしているのだから・・卑怯この上ないことをしで
 かした。
  示し合わせてやっていた。
  そして、独立に際して、何も言えない小さい子は、こ
 の様に、道理を外れた・・不法な裁判の結果を受け入れ
 なければ、「さも、独立させないぞ」という文面を見せ
 られた。
  独立したいのなら・・この不法な「裁判結果を受け入
 れろ」とさも言うように・・書面には書かれていて、
  「サインしろ」と言われた。
  独立すべき時が来ていて、独立したい小さな子は、独
 立したいのでサインをした。
  それから、その小さな子は、一切、口答えせず、嫌な
 事でも、無理な事でも、頭を下げっぱなしでやって来た。
  健気(けなげ)な小さな子=日本だった。
  そして、今、この大きくメチャ強い腕白ボウズ=アメ
 リカには、「シリアからの難民は、シリアへ帰れ」と言
 う大統領になりそうな人が居る。
  そして、この腕白ボウズの国は、この小さな子の国の
 伝統・文化を断ち切りたいという。
  この腕白ボウズの考えが、微に入り細に入り、姑・小
 姑宜しく介入して来る。
  その様な歴史が回転している。
  他人の国に、内政干渉以上の介入をしてくる腕白ボウ
 ズの国の従属国となっている。
  国の連続性を、この様に強引に、断ち切られると、当
 然に、国民の心には大きな不安感が生じる。
  大きな腕白ボウズの国のアメリカは、この小さな国に、
 この様な事を強いている。
  国際協調でも何でも無いことを、国際協調だと押し付
 け、
  自分の考えと違う考えは、『国際的コンセンサスが出
 来てない意見だ』と否定する、
  まったく身勝手な国なのだ。
  その様な国に、不平も言わずに黙々と日本の官僚・高
 級官僚たちは付き従っている。
  日本のマスコミも、長い物には巻かれろとNHKはじ
 め放送大学、そして、新聞社も巻かれ放題となっている。
  キリスト教系列の大学教授も曲者(くせもの)だ。
  皆、一緒になって国を売っている。
  日本が、日本人が目指すべきは・・、
  「経済も大事であるが、もっと上位概念である国の在
 り方としての教育や政治、
  そして、国際社会への責務や人道的正義も大事なのだ」
 ・・という文明国としてのバランスある考え方や行動な
 ど・・。
  過去において、言論統制するアメリカは最悪だった。
  日本は、過激な言論統制を・・アメリカ主導のGHQ
 から受けていた。
  まったく卑劣だった。
  何が民主国家だというのか?
  さらに、マスコミを使ってマインド・コントロール
 し続けた。
  イギリスの歴史家トインビーは・・、
  「『過去と切り離された国家』は、時間とともに必ず
 その生命力が枯渇していく」・・と言っている。
  そして、ある文明が、地上から姿を消す時、その大き
 な要因には、「過去との連続性」を失った時だ・・と言
 っている。
  やむを得ず開戦に向かわざるを得ない御前会議の時、
  1941年(昭和16年)12月1日・・
  (日本が御前会議を開いているこの時、既に、アメリ
 カ大統領のルーズベルトは、日本との開戦を命令してい
 た、しかし、卑劣な事に、アメリカの国民の方々へは、
 この事実を秘密にした)、
  この御前会議で、海軍軍令部総長の永野大将は発言し
 た。
  「この戦争をやって勝てるのか」と問われ、
  「勝てないでしょう」と答えた。
  そして、「しかし」と言ってから、
  「戦うも亡国かもしれぬ。しかし、戦わずしての亡国
 は、魂までも喪失する永久の亡国である。
  たとえ、いったん亡国となさるも最後の一兵まで戦い
 抜けば、
  我々の子孫は、その精神を受け継いで再起・三起する
 であろう」・・と。
.
  そして、次の話・・、
.
1941年12月7日、(アメリカ時間)日本が、アメリカ大統領
 ルーズベルトの仕掛けに乗せられて、アメリカ・ハワイ
 の真珠湾攻撃を始めた。
  アメリカ大統領のルーズベルトが、アメリカの景気回
 復のために戦争を始めたという見方は・・、
  『今は、確実』となっているが・・、
  どの本を見てもその見方が記されているが・・、
  1941年12月7日(アメリカ時間)、日本海軍航空隊が、
 パールハーバーを攻撃し・・、
  待ってましたとばかりに、ルーズベルト大統領は、日
 本に対して宣戦布告をした・・、
  そして、そして、アメリカの景気回復への輪転機は、
 最高潮にまわり始めた。
  この時に、アメリカの軍需工場になったのは、デトロ
 イトの自動車工場だった。
  大恐慌で、車がまったく売れずに・・、
  倒産寸前だったアメリカの自動車企業は・・、
  政府からの発注を受けて、戦車や大砲・・そして・・
 戦場で使う車両を作りに作ったった。
  そのおかげで、自動車産業が急回復し、よみがえった。
  戦争景気は、アメリカのあらゆる産業を潤(うるお)
 した。
  こうした戦争景気で、アメリカ経済がよみがえったが、
  その後も、アメリカは、戦争のための新しい兵器を作
 り続けた、
  航空機産業や軍需産業、通信産業などが、次々に拡大
 して行った。
  20世紀に入ってから、戦争は、アメリカへ、『常に、
 国家の繁栄を』・・もたらした。
  これは、攻められる心配のないアメリカだけの話。
  だから、戦争は、常に、攻められる心配のないアメリ
 カだけに繁栄をもたらした。
  その他の国々は、めちゃめちゃに破壊された。
  そして、アメリカ以外の国々の、一般の人々、戦争に
 まったく関係のない人々が・・殺された。
  その代わりに、アメリカだけは、国民の方々が死ぬこ
 と無く・・潤った。
  アメリカにとって・・戦争は、まったく都合がよかっ
 た。
  好戦国=アメリカの生まれる由縁(ゆえん、事の起こ
 り、由来、わけ)だ。
.
  そして、次の話・・、
.
1941年12月8日、真珠湾攻撃
  日本が、ハワイのオアフ島真珠湾アメリカの太平洋
 艦隊基地に攻撃した。
  日本は、これを奇襲攻撃だと、アメリカが作り出した
 プロパガンダ(嘘宣伝)によって言われている。
  今現在、種々の新しい資料が、公になって来ているが、
 まったく、ぜんぜん奇襲攻撃でもない。
  また、アメリカは、「日本が侵略攻撃した」と言う。
  だから、正義は、アメリカにあると言う、
  プロパガンダ(嘘宣伝)をしている。
  ハワイを占領し、侵略したのはアメリカなのにである。
  アメリカは、もともとハワイの侵略国なのである。
  自分のしたことは棚の上にあげている。
  「ハワイ侵略国=アメリカ」なのだ。
  また、アメリカは、ドイツは攻撃できなかった。
  同じ白人国として、ドイツは攻撃しにくい心情の中に
 居た。
  このためにも、日本と先に戦端を開きたかった。
  明らかにキリスト教に洗脳され、マインドコントロー
 ルされている有色人種蔑視の観念の中に居た。
  日本に先に手を出させて、アメリカの西部劇によくあ
 る・・悪漢が、善意あるものに先に銃を抜かせて、善な
 る者を撃ち殺すというパターンである。
  これも、キリスト教の聖書にあるパターンで、マイン
 ド・コントロールされた心が生み出すものである。
  (キリスト教聖書には、「攻める町の周囲を7回巡れば、
 攻撃してよい」とかとかと、何しろこの類の戦争の仕方
 の話が多い)
  アメリカ大統領ルーズベルトは、日本から先に手を付
 けさせ、そして、戦争を始め、そしてのち、ヨーロッパ
 領域の戦争をしたかった。
  アメリカは、ドイツにある多くの資産を守るためにド
 イツと戦争したくなかったという史料もある。
  また、日本のハワイ攻撃は、軍事施設のみであったが、
 この後、まったく卑怯なことであるのだが、アメリカは、
 日本の一般の方たちの命を軽く見て、
  日本の東京・大阪・横浜・名古屋をはじめ多くの一般
 市民の方たちをターゲットにする無差別爆撃(国際法
 反行為)をする。
  アメリカ大統領トルーマンも、この事を知っていたの
 であろう・・、トルーマンは、広島で人類初めての原爆
 を投下を許可するときに、「軍事施設にだぞ」と言った。
  しかし、この『大統領命令』は、完全に無視された。
  一般市民の方々が暮らす頭上を中心として(国際法
 反行為)の原爆は投下された。
  長崎の原爆の投下も、一般市民のことは全く配慮され
 なかった。
  非人道的なアメリカだった・・アンフェアなアメリ
 だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive