(増補版)69C2/3:気になった事柄を集めた年表(1555年〜1560年)

 題:(増補版)69C2/3:気になった事柄を集めた年表(1555年〜1560年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1555年、アウグスブルグ宗教会議。
  この会議に至るまでに、1546年のシュマルカルデン戦
 争とかの悲惨な戦争を経ている。
  キリスト教カトリックのハプスブルグ家の関与するヨ
 ーロッパ支配の卑劣な妄想が挫折する。
  武力で事を決着するという「地獄界」「畜生界」の人
 間たちであった。
  そして、これは、卑劣にも30年間も続くキリスト教
 カトリックプロテスタントの争い・三十年戦争の契機
 となっている。
  この戦争は、ヨーロッパの方々の3人に1人は死んだと
 いう卑劣・悲惨な戦争だった。
1556年4月、斎藤道三が没した(1494年〜1556年)
  身を起こした一人の武将、そして、大名となった男が
 散った、62歳だった。父・不明、母・不明の男だった。
1556年8月、信長の弟・信行が反抗(稲生の戦い)。
  父・信秀の急死で信長が相続したからか、家督争いが
 起きた。
  信長は、家中から相続人となった事が相応(ふさわ)
 しいと思われていなかった節がある。
  また、信長は、平手政秀を自殺させているし・・、
  また、義父・道三も嫡子(ちゃくし、家を継ぐ者)の
 義龍との戦いで敗死しているし・・、
  信長周辺は穏やかではない状況であった。
  信長では家内はまとめられないという家臣の思いも漂
 っていた。
  信行もまた林道勝・柴田勝家らに担がれて立ち上がっ
 た・・が、
  失敗。一旦、降伏した。
  信長は何か期するところがあったのであろう、母の願
 いを入れて信行を許した。
1556年、アクバル大帝(インド)が即位した、14歳
 (1542年〜1605年)
  中央アジアから流入し、祖父・バーブルの立てたムガ
 ル朝を、帝国と呼ばれるにふさわしい国家にした。
  アショーカ王と共に、インドの最も偉大な王と言われ、
 インドで最も人気が高い。
1557年4月、毛利元就が、大内氏を滅ぼす。
  元就が、この時、大内義長(おおうちよしなが、周防
 大内氏の第32代当主、最後の当主)を自刃させ周防・長
 門を制圧した。
  厳島の戦いで晴賢(陶隆房)が敗死すると、継いだ義
 長が血縁とはいえ養子だったこの義長への求心力は低く、
  晴賢の謀叛で弱体化していた家臣団は完全に崩壊し、
  大内氏は急速に衰退していた。
1557年11月、信長の弟の信行が、再度、反抗した。
  信行は前に許されたのに、また、岩倉城主・織田信安
 と通じて謀反をたくらんだ。
  信行から次第に疎(うと)んじられるようになった柴
 田勝家が、それを信長に告げた。
  信長は、信行を誘殺(ゆうさつ、おびき寄せて殺す)
 した。
  信長には、親族として殺すことをためらっていたとこ
 ろもあるが、(色々、信行が謀叛的な事をしても許して
 いた、家臣の信望もあったからか)、しかし・・、
  信長は、病気になったと偽ると、織田信行は母の土田
 御前と共に様子を見るべく「見舞い」として清州城に来
 た。清州城北櫓天守次の間で、信長の命を受けた河尻秀
 隆らが・・、
1557年、マカオキリスト教カトリックの布教拠点)略奪。
  ポルトガルが、中国の香港の少し西にある『マカオ
 を奪い、居住権(永久居留権)を得た(ポルトガル領マ
 カオ植民地の成立)。
  ここから北京などへ、ポルトガルの支援を受けたキリ
 スト教宣教師を送り込んでいた。
 この様に、少しづつ中国を侵食して行く、領土略奪癖の
 あるキリスト教国だった。
1558年、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ、書家、陶芸家、
 芸術家)が生まれた(1558年〜1637年)
  楽焼白片身変茶碗(国宝)、舟橋蒔絵硯箱(国宝)
1558年、イギリス女王のエリザベス1世の即位(1533年
 〜1603年)
  父の政策を踏襲して「国王至上法」を発令した。
  これは、キリスト教カトリックへの離縁状である。
  何しろイギリスは、キリスト教カトリックに悩まされ
 て来たのだった。
1559年、近江半国(北部)守護・京極高吉(きょうごく
 たかよし、高佳、武将)が、実権を握る被官(下級官吏)
 浅井久政・長政討伐に失敗した。没落し支配権をすべて
 失う。
  後に、キリスト教の洗礼を受けたが、その数日後に死
 去した。罰だと噂(うわさ)されたという。
1559年、上杉謙信が、再度、上洛した。
  再度、上洛し、天皇に謁して盃・剣を与えられ、また、
  将軍・義輝に絶対の忠節を誓って、必要あれば本国越
 後がどうであろうと在京して命に従うと誓った。
1559年、秀吉が、日輪受胎伝説を口にする。
  この年の時点で、日輪受胎伝説を口にしていたことが
 伺える。
1559年春、信長が、ほぼ同族を制す。
  信安の長子・信賢(のぶかた)も斎藤義竜と計って信
 長を討とうとした。
  信長は、1558年に、丹波郡浮野に破り、さらに岩倉城
 を囲み、1559年春、ついにこれを陥れた。
  この1559年の信長の岩倉城をとることで、ほぼ同族を
 制した。
1559年2月、信長が、100名ほどの軍勢とともに上洛し、
 将軍・義輝に謁した。
1560年5月19日、桶狭間(おけはざま)の戦い。
  今川義元が、2万5000の大軍とともに上洛を計ったの
 も、三好・松永らと同じく幕府内部の権力を狙ったのに
 過ぎない。
  この年の5月、織田信長は、駿河遠江守護・今川義元
 を尾張桶狭間に捨て身の切込み奇襲戦で倒した。
  信長の軍は3000〜5000で、奇襲をしたのは、その内
 の2000。今川義元、41歳だった(1519年〜1560年)
  この戦いは、信長の起死回生の戦いだった。
  国境地域の今川との戦いでも負けが込んでいた、また、
 今川方に寝返る者もあり、また、同族の争いなどもあっ
 て、この頃の信長は、最悪状態だった。
  5月12日、今川義元は大軍を率いて駿府を発った。東
 海道を西へ進んだ。
  この戦いに今川軍として松平元康(徳川家康)も参戦
 し先行していた。
  織田陣では清州城に籠城するか、出撃するかで軍議は
 紛糾していた。
  19日、朝3時、先行していた松平元康は織田軍の砦を
 攻撃開始する。
  信長は、前日、今川軍が接近している事を聞いていた。
 しかし、動かなかった。
   しかし、この早朝の攻撃の報を聞いた信長は飛び起
 き、出陣の身支度を整え、朝4時頃、居城の清州城を出た。
  信長に続いたのは、小姓衆の5騎のみだった。
  8時、熱田神宮に軍勢を終結させた信長は、神宮に戦勝
 を祈願し、10時、鳴海城を囲む砦の一つ善照寺砦に入っ
 た。
  ここで、2000から3000の軍勢を整えた。
  その頃、今川軍の先鋒の松平軍の猛攻を受けていた丸
 根砦の織田軍500は、城外に討って出て、白兵戦を展開
 していた。
  織田側の大将の佐久間守重は討死した。
  織田軍の鷲津砦でも討死多数。
  今川軍は、織田側の大高城周辺の制圧は完了していた。
  義元率いる本隊は、沓掛城を出発し、制圧した大高城
 へ向かって進んだ。
  11時から12時頃、織田軍は、善照寺砦に500の兵を置
 き、2000の兵で出撃した。
  正午頃、信長出陣の報に中嶋砦の織田軍は意気が上が
 った。意気が上がったこの織田軍は、単独で今川軍と交
 戦した。
  これは、勇み足となり重臣が討取られてしまった。
  義元は、この報に気を良くした。
  13時頃、視界が妨げられるほどの豪雨となった。
  しかし、織田軍は兵は進め続けた。
  そして、雨た止んだ直後の14時頃、織田軍は、義元の
 本隊に向かって奇襲をかけた。
  今川軍2万の兵は、その時、義元を守る兵力は5000か
 ら6000だった。
  義元周辺の状態は、戦力が拮抗した状態に近く、乱戦
 となった。
  義元は輿を捨てて、300騎の親衛隊に守らせながら騎馬
 で退却しようとした。
  波状的な織田軍の攻撃で、義元を守る兵の数も減って
 行く。
  逃げる義元は、信長側近の馬廻(うままわり、騎馬の
 武士)に追い着かれる。
  義元は、織田の服部一忠は討つが、毛利新介良勝に組
 み伏せられた。
  そして、ついに討取られた。
  毛利は、左指を義元に食い千切られていた。
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