(増補版)61C1/3:気になった事柄を集めた年表(1521年〜1530年)

 題:(増補版)61C1/3:気になった事柄を集めた年表(1521年〜1530年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1522年、柴田勝家(しばたかついえ、武将、大名)が生ま
 れた(1522年〜1583年)
  主君:織田信秀→信勝→信長→秀信
  本能寺の変後の清州会議で、勝家と秀吉の立場は逆転
 した。そして、秀吉と勝家などの他の重臣との権力争い
 が始まる。
  後に、秀吉は勝家の不満の抑えもあって、「主筋の者
 との結婚」という事で、信長の妹の「お市の方」と勝家
 は結婚している。
  しかし、その後、勝家は、滝川一益織田信孝と手を
 結んで秀吉に対抗する。
  秀吉は、勝家の養子の柴田勝豊を圧迫し懐柔、そし
 て、織田信孝を攻めて屈服させ、1583年正月に、滝川一
 益を7万の大軍で攻め、1583年3月に、勝家も北近江に
 出兵し、秀吉と対峙。
  4月に賤ヶ岳の戦いとなり、4月24日に、勝家は、北の
 庄城において、お市とともに自害した。
  辞世の句:
  「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ
  山ほととぎす」
1524年、江戸城主の上杉朝興が、北条氏綱に敗れた。
  江戸城後北条氏のものとなった。
1524年、ヴァスコ・ダ・ガマが没した(1469年頃〜
 1524年)
1525年、ルターが結婚した。
  キリスト教の聖職者の司祭であり、キリスト教の戒律
 を守らなくてはならない立場だったが無視した。
  子供も6人つくった。
1526年、今川氏親が、「今川仮名目録」(家法33条)を
 制定し、喧嘩両成敗とした。
1526年、インドにムガール帝国が出来た(1526年〜
 1858年)。
  建国者・バーバムは、トルコ人の血を引く。
  最初、アフガニスタンに侵入し、征服し、次に、イン
 ドに入って来た。
  そして、北インドを統一して、ムガール帝国を創った。
  インド史上最大のイスラム政権で、マウリヤ王朝以来
 の大帝国。
  創始者は、中央アジア出身で、モンゴル帝室の血を引
 くと称するバーバムで、ムガル(モンゴル)の名はこれ
 に由来する。
  帝国は、第3代アクバル帝から第6代アウラングゼーブ
 帝にかけて栄え、アグラ、デリーを中心として中央集権
 体制を維持したが、以後は解体の道をたどった。
  外来少数勢力であったムガル政権は、ペルシア系の官
 僚・知識人・技術者を盛んに登用して、ヒンドゥー世界
 における自らの優位を示し、また、言語・宗教・習慣・
 芸術各方面にペルシア文化の刻印を残した。
1526年4月、パーニーパットの戦い(インド)。
  三次にわたって行われたインドの運命を決めた重要な
 戦い。
  第一次パーニーパットの戦い、1,526年4月21日、ム
 ガル帝国の創始者バーブルとローディー朝との間に行
 われた戦い。ムガル帝国の建国の戦い。
  第二次パーニーパットの戦い、1556年11月5日、ム
 ガル帝国の皇帝アクバル、及び、スール朝の残党との間
 に行われた戦い。
  苦戦だったが、また、軍勢も圧倒的に劣勢であったが
 ムガル帝国が勝利し、黄金期を迎える端緒となった。
  第三次パーニーパットの戦い、1761年1月14日、ム
 ガル帝国に代わって強大となったマラーター同盟と、ア
 フガニスタンとの戦い。
  ムガル帝国の衰退期に台頭したマラーター同盟と、北
 インドに度々進行していたアフガン勢力との戦い。
  結果は、アフガン勢力側の勝利となった。
  追撃戦も徹底して行われた。
  しかし、本国・アフガニスタンで反乱が起きたため、
 引き返さなくてはならなくなった。講和を成立させた。
  しかし、敗戦はマラーター同盟の結束を崩し、5つの
 勢力に分裂された。
  この戦いで、一番利益を得たのは、本当の侵略者のイ
 ギリスだった。
  イギリスのインドの植民化の最大の敵のマラーター同
 盟が無くなったのである。
  この後、イギリスのインドの植民地化は、加速度的に
 進んだ。陰でイギリスが仕組んだ可能性も否定できない。
1528年、明智光秀(あけちみつひで、武将)が生まれた
 (1528年〜1582年)
  主君:斎藤道三朝倉義景足利義昭織田信長
  氏族:源姓土岐氏明智氏
  履歴に不明が多い、美濃国の守護土岐氏の一族だが、
 土岐氏に代わって美濃の国主になった斎藤道三に、青年
 期に仕えた。
  しかし、この道三も父子の争いなどあり、明智一族は
 離散、朝倉義景を頼り、10年間を仕えた。
  戦乱に巻き込まれた室町幕府の将軍の弟・義昭が、逃
 げまどい、信長など各地武将に、上洛と将軍擁立を促し、
 義昭は、織田・斎藤家の間に和睦を結ばせたが、後に、
 信長が破る。
  義昭は、朝倉義景を頼る、光秀は、ここで義昭と接触
 を持つ。
  義昭は、義景に上洛を頼むが動かず、そこで、斎藤氏
 から美濃を奪取した織田信長に、上洛して征夷大将軍
 つける様に、光秀を通じて要請した。
  光秀の叔母が道三の夫人で、信長の正室も道三の娘で、
 光秀の従兄妹という関係があるので、義昭は、光秀のこ
 の縁を頼ったのだろう。
  ここで信長との縁が出来る。
  最初、義昭と信長の両属の家臣であった。
  そのうち、信長と義昭の意見の食い違いがあって、信
 長が怒ったりしているうち、光秀は、信長の武将として
 戦いに参加するようになる。
1529年、スペインとポルトガルが「サラゴサ条約」を結ん
 だ。
  世界をこの二国で分けようという勝手な条約。
  そして、この2国の勝手な欲がぶつかり合う条約でも
 あった。
  東南アジアのボルネオ近くのモルッカ諸島が、どちら
 の国に所属するかの条約だが、
  スペインの半分ペテンの様な条約で、時が経つととも
 に、スペインのものになるという条約だった。
  その結果、引かれたサラゴサ条約の境界線によれば、
 日本は『スペインのもの』となっている。
  そして、因みに、このモルッカ諸島は胡椒の産地だっ
 た。
  胡椒は、恐るべき疫病のペストの唯一の薬とされてい
 た。
  また、肉食のヨーロッパ人にとって、食肉保存剤(防
 腐剤)であり、また、脱臭剤だった。
  いくら高くても売れる、高価な貴重品だった。
  話は、やはり、欲得の話に行きついたが、高瀬弘一郎
 氏の『キリシタン時代の研究』という学問的名著がある。
  この本は、従来のキリスト教会版のキリシタン史を排
 した学問的名著である。
  この名著の研究結果にも、明らかにスペインやポルト
 ガルの宣教師は、日本の武力征服の企てに加担していた。
  そして、キリスト教宣教師たちは、中国征服が日本よ
 り容易だと、しきりに本国政府に中国征服を先にやった
 方が容易と説いた。
1530年、白人優越。有色人種蔑視論理。
  この頃までのローマ教皇の勅書に流れる思想を支える
 論拠。
  キリスト教の白人優越、有色人種蔑視の論理、ローマ
 教皇の勅書などには、
  「キリスト教の神の名において、別の地域の人類を支
 配することは許されている事である」
  「キリスト教の神の名において、別の地域の人(異教
 徒)を奴隷にすることは許されている」
  「そこには、キリスト教の神の審判があり、正当であ
 る」
  「異教の彼らは自然法に反する。そして、重大な罪を
 犯している。また、野蛮な悪習を守り、止めようともし
 ない、この様な者の土地を占拠しても、神は許したもう、
 また、武力で彼らを服従させる戦争も正当である」
  「正しい宗教を宣教する者は、布教地で、当然、優遇
 されるべきであり、優遇を受ける権利がある。それ故、
 キリスト教宣教師の言に耳を傾けない彼らを服従させる
 戦争は正当である」
  この考え方は、このキリスト教教皇のみならず、米欧
 キリスト教徒に根付いており、歴史の経過の中で、色々
 な面で、陰惨な陰を、落として行く。卑劣な宗教。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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