(増補版)58C1/3:気になった事柄を集めた年表(1494年〜1499年)

 題:(増補版)58C1/3:気になった事柄を集めた年表(1494年〜1499年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1494年、イタリア戦争が起きた。
  ハプスブルグ家(神聖ローマ帝国・スペイン)とヴァロ
 ワ家(フランス)がイタリアを巡って行った戦争。
  戦争の期間は、1494年から1559年としているが諸説が
 ある。
  イタリアの領土の取り合いが、愚かにも、65年も続いた。
1494年、斎藤道三(さいとうどうさん、美濃の戦国大名
 が生まれた(1494年〜1556年)、
  北条早雲と並ぶ下剋上大名の典型。
  正室は、明智光秀の叔母・小見の方。
  「美濃の蝮」の異名を持つ。
  新資料の発見により、従来の道三の一代の「国盗り物語
 ではなくて、新左衛門尉と道三の二代に渡る可能性が高い
 とされている。
1495年2月、北条早雲(ほうじょうそううん)が小田原城
 を落とした。
  前領主(茶々丸)の悪政に苦しんでいた小領主や領民が、
 早雲に従ったのも味方した。
  重かった税を四公六民にしたら、民は歓喜して喜んだと
 いう。
  優れた民政で領民たちの英雄となって行くと解説する記
 事もある。
  この小田原城攻めの時に、早雲は、千頭の牛の角に松明
 を灯して大軍に見せたという。
1496年、日野富子(ひのとみこ)が没した(1440年〜
 1496年)
1497年、毛利元就(もうりもとなり、安芸・現在の広島県
 の戦国大名)が生まれた(1497年〜1571年)
  中国地方の覇者、子孫は長州藩の藩主となる。
  安倍晋三首相が言われる三本の矢の話は、この元就の話
 ・・死ぬ間際の元就が、3人の息子を枕元に呼び寄せて教
 訓を教えたという逸話・・
  元就は最初に、1本の矢を息子たちに渡して折らせ、次
 は、さらに3本の矢束を折るよう命じた。息子たちは誰も
 3本の矢束を折ることが出来なかったことから、1本では
 脆い矢も束になれば頑丈になることから、3兄弟の結束を
 強く訴えかけたという。
1497年7月8日、ポルトガルとスペインが、トルデシリャス
 条約で決めた事で、地球の東回りと西回りで奪い合いを始
 めた。
  その一つの行動であるのがこれで、この年に、ヴァス
 コ・ダ・ガマが、ポルトガルリスボンから出港した。
1497年11月22日、ヴァスコ・ダ・ガマが、この日に、喜望
 峰を通過した。
  そして、新しい航路を発見した、そして、インド洋を
 渡り、インドへ向かった。
1498年5月21日、ヴァスコ・ダ・ガマがインドに達し、イ
 ンドの地のカレクト王国へ使者を派遣した。
  ヴァスコ・ダ・ガマは、5月28日に、13人の部下を連れ
 て上陸した。
  出迎えと共に、一行は宮殿に向かった。
  そして、途中ヒンズー寺院に立ち寄っている。
  そして、宮殿で謁見したヴァスコ・ダ・ガマは、カレク
 ト国王に親書を渡し、目的の一つを達成した。
  この様にして、インド西南のカリカット(現コージコー
 ド)に到達した。
  カリカットの豊かさに驚嘆し、豊かな商業活動をしてい
 るのがイスラム教徒という事に強い印象を受けた。
  キリスト教徒である彼らは、ローマ法王の認可だと称し
 て、異国に住む人々の文化も富も領土も海域も、全部が
 自分のものだと勝手に決めていた。(ローマ教皇がその
 様に言っているから悪いのだが)、キリスト教の教義・
 教えからくる迷妄を信じていた。
  これがトラブルの元となった。
  そして、この拠点から東海域の諸国を我がものだと、
 手に入れて行った。
  この様な中、キリスト教の宣教師・ザビエルが、先兵
 の役も帯びて、1549年に日本に来た。
1499年、イタリアのアメリゴ・ヴェスプッチが、南米海岸
 ベネズエラを探検した、ブラジル北岸までの探検を行なっ
 た(第二回航海)。
1499年7月10日、ヴァスコ・ダ・ガマが、インドへの航路
 を発見して、この日、ポルトガルリスボンへ帰着した。
  このインドへの航路発見以来、莫大に利益ある東方貿
 易は、100年の間、ポルトガルの独占であった。
  また、ポルトガルは、キリスト教カトリックの精神的
 君主のローマ法王から、東洋に対する政治的・経済的・
 宗教的な絶対優位権を与えられていた。
  また、ポルトガルは、他国がこの独占権を脅かす場合は、
 武力を以ってこれを排除し、倒すだけの海軍力を持ってい
 た。
  ここに立ちふさがったのが・・イギリスだった。
  イギリスは、エリザベス女王の時代にカトリック教を
 捨てた。
  新教(プロテスタントイギリス国教会)となっていた。
  ローマ法王の頸木(くびき、自由を束縛するもの)から
 自由になっていた。
  ローマ法王に遠慮する必要がなくなった上に、海軍力も
 強大になっていた。
  ポルトガルに対抗する力がついていたのである。
16世紀、イギリスの海賊行為が盛んに行われた。
  イギリスのエリザベス女王が誇らしげに、「イギリスは
 ヴァイキング(海賊)の国だ」と言った。
  イギリスのヴァイキング(海賊)は、15世紀頃から、
 その悪行為の話は音に聞こえ、16世紀には、ますます盛
 んになった。
  その略奪の相手は、ポルトガルやスペインの船であった。
  その為、「海賊行為は愛国行為だ」と言われた。
  イギリスの海賊船は、数門の大砲を持ち、東洋貿易の
 貨物を満載したポルトガル船や、アメリカ大陸からインデ
 ィオを騙(だま)し、殺戮して手に入れた金銀を満載した
 スペイン船を略奪する事を公然と商売とした。
  イギリスはほくほくだった。
  実際、ジョン・ホーキンスと言うイギリスのプリマス
 生まれの航海士は、アメリカへの第一回の航海だけで、
 一躍、プリマス一の第一の大富豪となった。
  二回目の航海で、イギリス第一の大富豪と言われるくら
 いだった。
  フランシス・ドレークも、1577年に、イギリスを出港
 したが、世界を一周して、1580年に、イギリスに帰った
 時に、約2億フランの価の貨物を手に入れていたという。
  エリザベス女王も、ドレークから分け前をもらって、
 大いに喜んでいたという。
  この話が、スペインに伝わると、スペイン王は非常に
 憤慨して、ロンドンの駐在スペイン公使に厳重なる抗議
 をさせた。
  すると、エリザベス女王は、スペイン公使をドレークの
 船の甲板に連れて行って、厳然としてドレークに向かい、
 「スペイン人は汝を海賊だと申すぞ」と叱りつけ、それ
 から甲板の上に彼をひざまずかせ、悠然とナイトの爵位
 を賜るときの接吻を彼に与えて、「いざ立て、サー・フ
 ランシスコよ」と言った。
  エリザベス女王は、海賊である平民フランシスをサー・
 フランシスコに取り立てた。
16世紀、奴隷貿易大航海時代以降、アフリカの黒人の方々
 を、アメリカ新大陸の植民地経営用に奴隷として売却した
 貿易。
  16世紀から19世紀まで続いた。
  16世紀より本格化し、ヨーロッパから銃器や織物など
 をアフリカ西岸に運び、交換して黒人奴隷を奴隷船で新
 大陸へ送り込み、砂糖や綿花を持ち帰るという三角貿易
 の一辺をなした。
  これにより、蓄積された富は、ヨーロッパの産業革命
 を推し進める原動力となった。
  また、街を潤した。
  他方、アフリカは、航海途上の死者も含め、青年層や
 壮年層の約6000万人の損失により、正常な社会経済発展
 が阻害された。
  この略奪的な奴隷貿易は、国際世論の反発があったが、
 経済的要因などもからみ、非人道的な遅れた意識の本行
 為を、19世紀まで延々と行った。
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