木銃で下から敵を撃滅せよ・・弾も出ない木の銃で子供に何をさせようとしたのだろうか・・・

 題 : 木銃で下から敵を撃滅せよ・・弾もでない木の銃で
      子供に何をさせようとしたのだろうか・・・》:

 私の履歴書
        商船三井最高顧問・生田正治氏(抜き書き)
・・1944年7月にはサイパン島守備隊が玉砕し、
 本土への空襲激化は時間の問題となったため、
 主要13都市で学童疎開が開始された。
 毎朝10時以降に警戒・空襲警報が出れば、
 昼の給食用の芋や代用食のドングリでこしらえたコッペパンなど
を受け取り、
 地域ごとに走って帰宅することになった。
 10時以前だともらえないので、
 毎日10時になってすぐに警報が鳴らないかと、
 不届きなことを願う日々だった。
 家に帰っても遊び道具はボール一つなく、
 もっぱら道路で仲間と軍艦ゴッコなどの戦争遊びや、
 高射砲弾の破片集めに興じた。

 父に2度目の召集令状が来たのは1944年の夏頃だったろう。
 近くの東横線都立高校駅まで見送り、
 せみ時雨の中で敬礼をして乗車していく父の後ろ姿に手を振った
のが別れになった。

 1945年2月になると縁故疎開先もなく、
 まだ東京にいる全学童に強制集団疎開命令が出た。

 5年生以上約100人は、
 数人の先生に引率されて4月早々、
 山梨県・小渕沢に向かった。
 当時の小渕沢は文字通りの寒村だった。
 私たち男子約50人は駅前の「寿旅館」に、
 女子は近くのお寺にお世話になることになった。
 朝早く起きて近くのお宮の庭掃除と、
 荒削りの木銃での厳しい軍事教練。
 何でも米軍は九十九里浜上陸に合わせて甲府盆地に落下傘部
隊を降下させるので、
 その時はこの木銃で下から敵を撃滅せよとの命令だった。

 弾も出ない木の銃で子供に何をさせようとしたのだろうか。
 毎日午前中は自習だった。
 本を読んだり手紙を書いたりしてなんとなく過ごし、
 午後は勤労奉仕で山に枝払いや薪取りに行かされた。
 いつも腹をすかせていた。

 主食は大豆が8割で、
 残りの2割が米、麦と雑穀。
 炊くと大豆は膨らむので、
 見た目には大豆だけのようだった。
 下痢をする者が多かったが、
 申告しても薬はない。
 決まって絶食療法を言い渡されるのがわかっているから、
 食べ盛りの私たちは誰もがギリギリまで我慢した。
                    (日経2011・1・4)