(増補版)328E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年10月〜1874年12月)

題:(増補版)328E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年10月〜1874年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1874年10月18日(明治7年9月9日)二階建馬車禁止令(法令
 類纂・巻之63)。
  何故か?この日に、二階建馬車禁止令が出た。
  (乘合馬車の二階建づくりが危險だとされて使用を禁
 止されたらしい。
  由良守応(ゆらもりまさ)が、岩倉使節団として欧米
 から帰って、憧れの皇宮御馬車係のとき、馬車を転倒さ
 せたことがあり、それで辞職したが、それが関係してい
 るのか?)
  明治期に入るまで、日本には馬車が存在しなかった。
  移動は、徒歩か駕篭だった、また、牛車は大都市だけ
 の使用に限られていた。
  そして、開国の翌年1869年(明治2年)に、東京〜横浜
 間を乗合馬車が走るようになると、日本中に馬車が広ま
 った。
  そして、1874年(明治7年)に、東京に馬車専用道路が
 誕生した。
  1874年1月5日、京橋〜新橋間に、馬車と人力車のみが
 走行できる専用道路が完成した。
  そして、この年・1874年に誕生したのが、二階建ての
 乗合馬車を走らせる馬車会社の「千里軒」だった。
  創業者は、和歌山出身の由良守応。
  岩倉具視使節団として、ともに訪れた由良は、1871年
 に、イギリスで二輪馬車や四輪馬車、オムンバスという
 二階建ての乗合馬車を見て、馬車に魅せられた日々を送
 り、日本でも走らせたいという夢を持った。
  特に、荘厳と走る女王の馬車を見て、同じものを天皇
 陛下の御召馬車として購入するように使節団会計係の田
 中光顕に熱弁を振るって嘆願し、実現に至った。
  そして、1873年明治6年)、帰国後、由良は、御召馬
 車の手綱をとる皇宮御馬車係となり、英国以来の夢が叶
 った。
  そして、オムンボスの夢のある由良は、東京でもこの
 馬車を走らせたいと考えたのだった。
  そして、1874年に、オムンボスを走らせ、その勇姿に、
 東京の人々は歓声を上げて喜んだ。
  乗合馬車の普及に努めた由良であったが、競合の馬車
 会社が増えたことから、1880年明治13年)に、東京で
 の営業を終了した。
  そして、後に、1882年(明治15年)には、「東京馬車
 鉄道」が誕生した。
  そして、明治後期になると、鉄道の動力は馬から電気
 へと移行した。
  馬車が東京の人々の主たる移動手段だった期間は、明
 治初期〜中期にかけてと、極めて短い期間だった。
  専用道路が、東京全土で整備されておらず、車道と歩
 道の区別がない場所での事故も多く、
  そして、清潔好きな日本人から見ると、道には馬糞が
 散らかり、不衛生だった。
  由良が新聞に出した創業時の広告文・・、
  乘合馬車開業
  弊社 今般 歐米各國にて行るゝ、「オムンボス」と
 稱する二階造の馬車運轉を始め
  客三十人を乘せ
  淺草雷藭門前より、新橋汽車「ステーション」迄
  一時?達す
  毎朝六時より午後八時迄
  一日往返六回すべし
  路上の賓客便利の爲め
 途中の乘り下り望?任す
 冀????
 四方の君子
 伏て來駕したまわん事を
   壹人前 賃金 十錢
   途中半ヲ限  三錢   千里軒
1874年10月23日(9月14日)大久保利通全権が、恭親王と台
 湾問題の交渉を開始する。
1874年10月29日(9月20日兵学寮内に水雷製造局が設置さ
 れた。
1874年10月29日(9月20日)横浜遊郭
  外国人相手の私娼が、この年に、横浜に現れた。
  江戸の頃の遊郭設置・五箇条の掟書
一、傾城町の外傾城屋商売致すべからず、竝に傾城囲の外
  何方より雇ひ来候とも先口へ遣はし候事向後一切停止
  さるべく候。
 (設置場所以外では遊女屋はいっさい認めない)
二、傾城買ひ遊候者は一日一夜の外長留り致間敷候事。
 (客は一昼夜以上店にいてはならない)
三、傾城の衣裳総縫金銀の摺箔等一切著させ申間敷候何地
  にても紺屋染を用ひ申すべく候事。
 (遊女は贅沢な着衣は用いない)
四、傾城屋家作普請美風に致すべからず、町役等は町々の
  格式通り屹度相勤め申すべき事。
 (遊郭は質素なたたずまいとし、町役は他の町と同様に
  する)
五、武士町人体の者に限らず出所吟味致し不審に相見え候
  者は奉行所へ訴出づべき事。
 (身元不審の者は奉行所へ通報する)
  前借金(貧農の娘の身売り等)で縛られた遊女たちが、
 本牧方面の私娼に流れたという。
  横浜遊郭は、外国人を東京に近い神奈川宿(遊女)か
 ら遠ざける為に、何もなかった横浜に港をつくり関内に
 封じ込めようとして遊郭(公娼)を開設した。
  因みに、外国人の多かった長崎には、1639年(寛永16
 年)西洋との唯一の窓口として栄えた長崎の丸山遊廓が
 誕生した。(1642年説あり)
 ・・貧乏のために・・家族のために身を売った女性方・
 慰安婦が居た。
  可哀想な日本女性の方たちが居た。
  その日本の娘たちを買うアメリカ人たちや、イギリス
 人たちが居た。
  まったくこれと同じ事が、先の戦争の時、貧しい朝鮮
 の女性の方たちを買う日本人たちや、中国人たちや、そ
 して、朝鮮人たちが居た。
  朝鮮の慰安婦の女性の方たちが、日本人たち・中国人
 たち・朝鮮人たちに貧乏な家族を助けたいと身を売った。
  その様な時代だった。
1874年9月24日、『朝野新聞(ちょうやしんぶん)』が、東
 京で創刊した(主幹成島柳北、論説欄を常設)(9月23日
 説あり)
  民権派の政論新聞で、1893年11月19日までの約19年間。
1874年10月31日(明治7年9月22日)日本帝國電信條例
  日本における最初の電気通信法規。
  第3条で、政府の専掌主義を定め、
  第13条で、通信の秘密が明記されている。
  まだ、憲法もなく、また、議会もない時の条令で、
 法的な枠組みが、明治の世に出来上がっていく。
  太政官布告第九十八號:日本帝國電信條例
  第三條 日本政府電信寮ハ日本帝國外ノ各地ヘ又ハ各
     地ヨリ傳送スル電報ヲ除キ日本帝國中ニ電報ヲ
     傳送シ及ヒ受取リ取集メ屆渡等一切關係ノ事務
     ヲ取扱フ專任ノ權ヲ有ス
 第十三條 電信寮ニ仕官スル者故意怠慢ヲ以テ音信ノ傳
     送又ハ屆渡スコトヲ忘却遲延スル者又ハ同樣ノ
     コトニ依テ音信ノ傳送屆渡シヲ妨碍遷延セシム
     ル者又ハ猥リニ音信ノ旨趣ヲ傳洩スル者又ハ他
     ノ人民又ハ電信寮ノ官員ト雖モ其場ニ立入ヘキ
     職務ニ非サル者ヲ電信寮ノ器械室ニ立入ラセ又
     ハ滯居セシムル者等以上ノ各犯ハ壹百圓ヨリ多
     カサル罰金ニ處ス
1874年11月、東京に、官立女子師範学校が設立・開校した。
  文部省学監のお雇い外国人・ダビッド・モルレーは、
 申報(しんぽう、新聞)のなかで、日本も欧米諸国に倣
 って女性を「児童ヲ教育スル最良ノ教師」として育成す
 ることを、
  1873年明治6年)11月に、建言し、
  文部少輔である田中不二麿も、これに同調して、翌年・
 1874年(明治7年)1月、三条実美太政大臣に対し
  「東京府下ニ一箇ノ女子師範学校ヲ設ケ」る「伺」を
 提出した。
  これが承認され、同年・1874年3月13日には、木戸孝允
 文部卿によりお茶ノ水橋たもとに、女子師範学校を設置
 する旨布達が発令、
  日本最初の(官立)女子師範学校である東京女子師範
 学校の設立となった(11月に開校した)。
  後身校:お茶の水女子大学
1874年11月2日、読売新聞が創刊された(東京)。
  紙面の大きさは半紙の大きさで、表裏の2ページだった。
  書かれた記事は、「病気の夫のため針仕事などをして
 薬を買う妻(石川県)」や、
  「約40人が狂犬にかまれたが、薬で大勢が助かった(
 東京)」「横浜から汽車に乗った客は1週間で3万4881人
 に(神奈川県)」「4歳の男の子が馬車に行かれ死亡(
 東京)」「両親に美味しいものを食べさせる孝行息子(
 秋田県)」など。
  当初は、合名会社日就社といい、
  初代社長・子安峻で、部数は約200部の隔日刊だった。
  題号は「読みながら売る」瓦版に由来している。
  1917年(大正6年)12月1日に、商号を読売新聞社に改
 称し、
  1942年(昭和17年)8月5日、戦時下に行なわれた新聞
 統合によって、報知新聞社の「報知新聞」を合併し、
  「報知」の名前は讀賣に引き継がれ、「讀賣新聞」は
 「讀賣報知」に改題された。
  また、1945年(昭和20年)5月27日、読売報知、朝日新
 聞、毎日新聞日本産業経済、東京新聞の5社共同によ
 る「共同新聞」が発行された。
  1946年(昭和21年)5月1日、題号が「讀賣新聞」に復
 帰した。
1874年11月15日(10月7日)この日の日付けで、谷参軍の大
 隈参議・山県陸軍卿宛て書簡:
  「当地近来にいたりマラリア大流行、
  各舎ことごとく病院同様、
  去月最初よりは死者数多これあり、
  兵卒従者にいたるまで力役に勝る者ほとんど一人もこ
 れなく、
  薪水の労みなこれを土人にあおぐ
  まことに意外の天災何とも申しようこれなく、医者も
 ことごとく病み候ゆえ、
  諸事薬用も行き届かず、不養生より死者甚だ多く、
  実に愍然(びんぜん、あわれむべきさま)のいたり、
  目も当てられぬ有様、戦わずして全軍の気沮喪・・」
  と病魔による窮状を訴え、
  「此のごとき難儀に遇うこと未曾有未曾聞(モン)なり」
 と慨嘆。
  (参考)沮喪:そそう、気力がくじけて元気がなくな
 ること。
1874年11月17日(10月9日)万国郵便連合が発足した。
1874年11月28日(10月20日青森県・尻屋崎燈台が竣工し、
 点火された。
1874年12月1日(10月23日)台湾問題の日清談判不調に終わ
 る(全権大使・大久保利通最後通牒を起草する)
  1874年11月13日(10月5日)大久保全権と清国との第4
 回会談が行われた。
  会談の後に、大久保は、これ以上の交渉は無駄なので
 近く帰国すると言うが、清国側は帰国するなら引き止め
 ないと対応。
  11月22日(10月14日)大久保全権が、駐清のイギリス
 公使をウェードを訪問し、償金と引換えに撤兵可能と伝
 えた。ウェードは根回しを始めた。
  11月23日(10月15日)岩倉具視が、中国の大久保に手
 紙を出す。
  国内の情勢を伝えて、駐日イギリス公使パークスが調
 停にあたってもよいとの意向を伝えた。
  11月24日(10月16日)大久保が、明治政府の外交顧問・
 リゼンドル(アメリカ人)に償金の代りに琉球の日本へ
 の帰属を条件にしてはどうかと相談。
  リゼンドルは、難しいだろうと返事。
  但し、台湾で遭難した琉球人の償金を、清が日本に支
 払えば、実質的に清が琉球に対して日本の権利を認めた
 ことになると回答した。
  11月26日(10月18日)、第5回会談。
  11月28日(10月20日)、第6回会談。
  12月1日(10月23日)、第7回会談・・と経過して来た。
  12月3日(10月25日)、日本側は、井上毅立案交渉決裂
 宣言書を送り12月4日(10月26日)出発とした。
  夕方、駐清イギリス公使ウェードが、仲裁。
  日清双方を往復。
  12月5日(10月27日)、日清双方が調停案受諾した。
  12月9日(10月31日)、日清両国全権が、「互換条款」
 3ヶ条と「互換慿単」に調印した。
  償金50万両で台湾占領地を放棄する。
  50万両は日本貨77万円。
  遠征費用362万円に輸送費などで支出合計は771万円。
  修好条規を結んだばかりの日本の行為に対し、総署大
 臣・恭親王らは皇帝に軍備増強を上奏した。
  反対を押し切って修好条規締結を進めた直隷(河北省)
 総督・李鴻章も、対日戦備強化を通感、
  のち、北洋陸海軍となる。
  日清戦争の種が蒔かれた。
  また、この協定により、清国は、琉球を日本領と認め、
 国際的に日本の統治権を認めた事例の一つとなった。
  「互換条款」:
  前文、「台湾生蕃」が「日本国属民等」を加害したの
 で日本国が「詰責」した。
  一、このたび日本国が出兵したのは「保民義挙」のた
   めだったと主張しても、清国は「不是」と言わない。
  二、清国は「蕃地」での遭難者と遺族に「撫恤銀」を
   支給する。
    日本軍が「蕃地」に設営した道路や建物は、清国
   が有償で譲り受ける。
    金額や支払方法等は「互換憑単」で定める。
  三、両国がやりとりした一切の公文は破棄し、以後は
   論じない。
    「生蕃」にたいしては清国が自ら法を設けて航海
   民の安全を保証し、再び「兇害」を起こさないこと
   を約束させる。
  「互換慿単」:
  清国は「撫恤銀」10万両を即時支払う。
  「蕃地」道路・建物への報償40万両を、日本側の撤兵
 完了と同時に支払う。
  撤兵期限は12月20日とする。
  (50万両は日本貨幣換算で約77万円。日本軍の台湾遠
 征費用は約362万円、軍隊輸送用船舶購入費などを合算す
 ると771万円余)  
  「互換条款」は、日本側に有利だった。
  (1)遭難者(琉球人)は「日本国属民等」であると明
    記された。
  (2)日本国の出兵目的は「保民義挙」のため、つまり
    自国民保護のためだと主張しても清国は反対しな
    いとされた。
  (3)清国が支給する「撫恤銀」は、遭難者と遺族に直
    接手渡されるのでなく、日本政府に支払われると
    された。
    清国政府が、琉球人は日本国籍であり、日本政府
   は琉球人にたいする統治の権利と保護の義務を有し、
   したがって琉球は日本領であると承認した。
  駐清のイギリス公使・ウェードは9月中旬以来、両国仲
 裁に動いていた。
  両国は、日清修好条規を結んでいたが、
  これには、清国に、日本と友好関係を結び、共に西洋
 の帝国主義に対抗して行こうという気持ちがあった。
  しかし、降ってわいた日本の漂流民殺害事件を切っ掛
 けに、台湾出兵に至った。
1874年12月9日(明治7年10月31日)大久保利通の談判に依
 り、日清間台湾問題和議成り立ち、清国側弁償と決す。
  日清両国間互換条款(償金50万両)および互換憑単を
 北京で調印。
  1875年1月10日(明治7年12月3日)撤兵を開始する。
1874年12月21日(11月13日)台湾派遣軍隊撤退の勅命が出
 る。
1874年3月、ベトナムは、第2次サイゴン条約で、フランス
 に紅河通商権を割譲したり、コーチシナ6省を割譲したり、
 主権を奪われた。。
  1873年に、フランスはハノイ城へ侵攻し、これに対し
 てベトナムは、清出身の劉永福の黒旗軍に援兵を要請し、
  激戦の末、フラン スは退却した。
  しかし、ベトナムはフランスの報復を恐れ、
  1874年、両国の間に「仏越講和 同盟条約」(第2次サ
 イゴン条約)を結んだ。
  この条約によって、紅河の運航権と主要都市への駐兵
 権、領事裁判権がフランスに奪われた。
  1882年に、フランスは、再びハノイ城を制圧し、紅河
 デルタの要地を占拠した。
  これに対してベトナムは清に出兵を要請し、清国政府
 はベトナムを支援し、劉永福の黒旗軍ハノイに進撃、
 フランス軍司令官アン. リ・リヴィエールを倒し、大き
 な勝利を勝ち取った。
  しかし、1883年7月16日に、対外強硬路線のトゥドゥッ
 ク帝(嗣徳帝)が死去したため、皇位争奪内紛により新
 即位のヒェップホア(協和帝)は、フランス軍に庇護を
 求めた。
  (参考)紅河デルタ:こうがでるた、ベトナム北部に
    位置しているトンキン・デルタまたはソンコイ・
    デルタのこと、
  1883年8月25日、フランスは、ベトナムと第1次フエ条
 約(アルマン条約)を結び、ベトナム保護国にした。
  翌年6月6日に、ベトナムは、フランス公使パトノウト
 ルと、パトノウトル条約(第二次フエ条約)に調印した。
  これ以後、フランスは、外交関係においてベトナム
 代表し、フランス代表の総督は、ベトナムの外交を統括
 し、保護権を行使することになり、
  ベトナ ムは、中国との藩属関係が終わり、実質的に
 フランスの植民地になった。(1
1874年8月1日、アメリカのシカゴで大火。
  1871年10月8日の大火に続いて、再び、大火に見舞われ
 た。
  この1874年の再度のシカゴ大火は、多数の保険会社を
 倒産させることになった。
1874年2月3日、ハワイの王家、在位僅か2年のルナリオ王
 が結核にかかり、死去した。
  王位は、再び議会に委ねられることとなった。
  アメリカ合衆国という国は、初め、イギリスから清教
 徒が渡って来て、領土を獲得し、拡大して行って、
  そして、最初の核の東部14州ができて、
  そして、西へ西へと飽くなき領土拡大行動をして行って、
  太平洋に至ったら・・おしまいとなるかと思いきや、
  太平洋上の島々まで・・アメリカ領として行って、
  そして、今、このハワイに、立派に存在している王家。
  王家はハワイを統治し、政治も立派にしているが、
  結果的には、現時点の今、アメリカの州となっている。
  そこに至るまでには色々な手が、アメリカによってな
 された。
  平穏だったハワイに・・色々な波風が起きた。
  白人が来て、ハワイの社会も荒れて行った。
  1874年2月13日に、再び、王国議会で国王選出選挙が行
 われ、
  王族に連なり、カメハメハの有力な助言者カメエイア
 モク、ケイアウェアヘウルの子孫にあたるデビット・カ
 ラカウア(1836年〜1891年)が第7代国王として王位に
 就いた。
  この選挙でエンマ女王の支持者が暴動を起こし死者を
 出した。
  アメリカ・イギリス軍はこの騒ぎに関わった。
  厳しい言い方をすれば、この日・2月13日に、アメリ
 は、ハワイの国王継承問題を口実に、海兵隊をホノルル
 に上陸させた。
  選挙をしたとしたって、アメリカから帰化した白人(
 アメリカ人だとも言える白人)の高額納税者に独占され
 ていた投票権で牛耳られ、その投票権をハワイ島民にも
 認めるべきだの声もかき消され・・、
  王になったからと言ったって、カラカウア王は、即位
 当初よりアメリカ帝国主義的行動と、
  その白人=在ハワイ米国人による政経両面に亙る圧力
 に悩まされた。
  やむなく、1874年11月、カラカウア王は、自らワシン
 トンに出向きグラント大統領と会談した。
  会談する内容は、アメリカの行動にあった。
  アメリカ人たちは、軍事力を使って君主制を廃止させ
 ようとし、2月16日には、すでに150名の武装した米海兵
 隊がハワイに上陸してホノルル市内を制圧した。
  そして、イオラニ宮殿を包囲させ、
  また、アメリカの軍艦ボストン号の主砲は、イオラニ
 宮殿に照準を合わせていた・・と。
  ハワイが、アメリカの州になるまで、書けばまだ、色
 々な事が起きていた。
  ハワイの王権を持つリリウオカラニは、反乱の首謀者
 の容疑で逮捕されて、イオラニ宮殿に幽閉されたり・・、
  1895年1月22日、反乱で捕らえられた約200人の命と引
 き換えに、リリウオカラニは女王廃位の署名を強制され、
 ハワイ王国は滅亡させられたり・・、
  1895年1月には、王党派は、ホノルルで王政の回復を企
 てるも、強烈な武力によって、数日の銃撃戦の後に鎮圧
 されてしまうとか・・アメリカが勝つに決まってる、
  選挙をしたって、不正選挙で・・そして、その疑惑で
 大規模な暴動が起きたり・・と、そして、アメリカ・イ
 ギリスは軍事力で制圧する。多数の死傷者を出す・・な
 どなど・・、
  条約の中に、ハワイのいかなる領土もアメリカ以外の
 他国に譲渡・貸与せず、特権も与えない項目が付け加え
 られ・・、などなどと
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive