(増補版)327E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年6月〜1874年10月)

題:(増補版)327E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年6月〜1874年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1874年(明治7年)6月、西郷隆盛が、鹿児島に私学校を設
 立した。
  隆盛が、征韓論に敗れて下野したのに従い、鹿児島出
 身の軍人・文官で、隆盛と同じく辞職し、帰京する者が
 数百名に及んだ。
  その青年たちに、一定の方向を与え、指導し、統御す
 るために設けられた。
  本校は、旧近衛兵の銃隊学校と、砲兵出身者による砲
 隊学校から成った。
  前者は篠原国幹が、後者村田新八がそれぞれ主宰した。
  銃隊学校の生徒数は500〜600名、砲隊学校の生徒数は、
 約200名だった。
  学課は、軍事のほか、漢学も講じられた。
  城下のほか、鹿児島県下の各地に 136の分校をもち、
  経費は、旧藩から県庁に引継がれた積立金をあてて、
 県令の大山綱良の支持のもとに、士族を基盤として成立
 した。
  また、士官養成所と言うべき賞典(しょうてん)学校
 や、旧陸軍教導団生徒を収容した吉野開墾社もあった。
  西郷派の政治結社的な性格もあった。
  西南戦争では、西郷軍の中心となった。
  また、鹿児島県庁が、西郷軍の戦闘部隊の後方にあっ
 て、人員・兵器・食糧などの前送・補給にあたったり、
 後方連絡線の確保にあたったりする兵站(へいたん)状
 態となった。
1874年7月、東京、銀座に煉瓦街が・・、
  1872年(明治5年)2月に、和田倉門付近から出火し、
 銀座、築地一帯の約95ヘクタールを焼く大火が起こった。
  この大火の経験から、政府は、西洋流の不燃の建設を
 目指した。
  同年・1872年3月に、東京府より、焼失地域は道路を広
 くして煉瓦家屋で再建するので、新築を差し控えるよう
 にとの布告が出された。
  東京府は、1872年3月22日に、地券を発行して全焼失地
 域を買収し、区画整理を行った後、旧地主に旧値段で払
 い下げるという布告を出して、地券を発行したが、土地
 評価の問題のため、買収は順調には進行しなかった。
  事業は、大蔵省監督の下で東京府が進める予定であっ
 たが、府知事・由利公正が途中から岩倉使節団に加わる
 ことになったため、大蔵省建設局を中心に進めることに
 なった。
  建設は官営で行った。
  大蔵省建設局が直営施工で建築し、希望者に払い下げ
 るか・・、
  または、建築主が費用を負担し、建設局に設計施工を
 依頼するケースだった(自営=民間が自費で建てるも認
 められた)
  設計は、お雇い外国人のウォートルスが担当した。
  同年・1872年8月から着工し、1873年明治6年)のう
 ちには拡幅された大通り沿いに、洋風2階建の街並みが出
 来上がった。
  東京府は、完成した第1次工事に関して建物の払い下げ
 を開始したが、市民には金額が大きく、申込みは少なか
 った。
  このため、納入に猶予を認めることとしたが、この結
 果、建設資金の回収が不可能となり、第1次工事から除外
 された地域では煉瓦街は建築されず、道路と堀割等の工
 事に限定されることとなった。
  しかし、それも住民の反対にあい、木挽町より東の工
 事は放棄された。
  最終的に、1877年(明治10年)までかかって煉瓦街の
 計画は完了した。
1874年8月7日(6月25日)谷干城が、台湾平定凱旋復命した。
1874年8月14日(7月3日)三宅島が噴火。
  神着村南方の山中で噴火。
  溶岩は、北方に流れ、海に5000平方メートルの新しい
 陸地をつくった。
  神着村の民家108軒のうち40軒(45戸)が、溶岩および
 灰砂で埋没した。死者は1名。
1874年8月16日(7月5日)台湾問題に関する閣議を開いた。
  閣議にあたってリゼンドルが発言し・・、
  (1)「蕃地」領有か、
  (2)清からの償金と引換えに台湾を返還かの、
  二つの選択肢を示した。
  日本の国内世論は、「蕃地」平定が済んだ以上は速や
 かに撤兵すべきとの意見と、この機会に清国本土に進出
 せよとの意見などがあった。
  政府意見も種々あり、
  大久保日記によると、大久保は終始「断然の御確定」
 (7月3日)と基本方針の確定を主張する。
  また、「議論分立につき、(三条が)別して御心配」
 (4日)、
  「蕃地事件御評議これあり、すこぶる紛論なり」(5日)
 と紛糾した。
1874年8月20日(7月9日)武市熊吉の岩倉具視暗殺未遂の罪
 で刑が執行された。
1874年8月23日(7月12日)外務省が管轄している琉球藩
 内務省に移管。内国と同等にした。
1874年9月10日(7月30日)大久保が渡清への側面支援を伊
 藤博文に要請した。
  大久保渡清には大隈が反対したが、派遣決定に至る。
1874年9月2日(7月22日)巡査の棍棒を廃し帯剣とする
1874年9月4日(7月24日)台湾問題のため、特命全権公使
 柳原前光が、天津において李鴻章と会見した。
1874年9月5日(7月25日)教員検定試験、
  教員免許状を定める。
  小学校教員検定試験・教員免許状制度、初めて制定。
1874年9月8日(7月28日)台湾蕃地事務局長官・大隈重信が、
 閣議に「海外出師の議」を提出した。
  「今日戦議一決し、
  現兵急進海陸並び迫る、
  彼(清国)兵備未だ実せず、周章狼狽なす所を知らず、
 ついに彼より和を請い罪を謝するに至らん」
  「今日不戦に決す、
  彼に在りては兵備ますます修め、
  他日大挙もって我に迫らば、勢い戦わざるを得ず・・」、
1874年9月8日(7月28日)政府が、台湾征討で三菱に輸送業
 務を委託。
1874年9月10日(7月30日)東京湯島の図書館を、浅草米倉
 に移し、浅草文庫を設立した(和漢書約2600冊)
  浅草文庫開設:湯島聖堂の書籍を移した図書館が浅草
 御蔵跡に開設され、浅草文庫と称し、一般にも公開した。
  和漢洋蔵書約14万冊。上野図書館の前身。移管(1877
 年)
1874年9月、兆民の私塾開設
  高知県士族・中江篤助(兆民)が、東京府知事に対し、
 東京の第3大区3小区中6番町45番地に仏文学の家塾を開き
 たいとの願書(「家塾開業願」)を提出した。
  この年3月、文部省は、「帰朝留学生心得箇条」を出し、
 「海外留学生帰朝ノ上ハ進退可為勝手事」との方針を示
 す(これまで官費留学生が帰国後勝手に民間に就職する
 のを禁止していたが、今後は官費留学生の面倒をみない
 と、方針を変更)。
  そのため兆民は、フランス学の塾を開いて生活の資を
 得ようとする。
  「家塾開業願」によると、学科は仏文学、教則として
 はフランス語の単語・会話・文法の諸教科書のほか、ジ
 ュリー「希臘羅馬史」「仏近世史」、ジュクードレー「
 当代史」、ヴォルテール「査理十二世史」「路易十四世
 史」、モンテスキュー「羅馬興亡論」、フェネロン「的
 列瑪屈」、ルソー「民約論」「開化論」「教育論」、及
 び道学書となっている。
  間もなく開業許可となり、10月、仏蘭西学舎開塾の広
 告を出す。
  尚、「中江篤助稿 明治七年一〇月上旬」と記された
 「民約論巻之二」の原稿が現存しているところから、お
 そらく「巻之一」は既に完成していたと推測できる(「
 社会契約論」の翻訳は、遅くとも帰国早々か、或は帰国
 の船中もしくはフランス時代から始まっていたと考えら
 れる)。
1874年9月11日(8月1日)参議・大久保利通が、議官・高崎
 正風らの一行に、台湾征討折衝のため、清国派遣を任命。
1874年9月11日(8月1日)参議兼内務卿・大久保利通が、岩
 倉の変心により台湾問題交渉で清国派遣全権弁理大臣に
 任命された。
  9月16日(8月6日)、横浜出港。
  長崎(9月20日着、9月26日発)、上海経由。
  顧問ボアソナアド。
  随員司法省7等出仕・名村泰蔵、同井上毅、特例弁務
 使・リゼンドルら21名。
  1874年10月19日(9月10日)北京着。
  ボアソナアドが、司法卿・大木喬任への上申:
  「各事件被仰付侯通り、日本政府におゐてハ余ニ面目
 ヲ表セラレ候ニ付テハ、信ヲ以テ之レニ報ジ度奉存候。
  ・・此度ノ事件ニ付而ハ、余忠勤ヲ表スベキ事、閣下
 ニ御請合申上候」9月13日(8月3日)。    
  9月15日(8月5日)大久保に対し、委任状に併せて、
  (1)柳原公使への内勅および田辺四等出仕持参の訓
    令書が「不動の要旨」とはいえ「便宜取捨談判す
    るの権」
  (2)「和戦を決するの権」
  (3)「在清の諸官員」を「指揮進退するの権」
  (4)必要があれは「武官」をも「指揮進退するの権」
  (5)特例弁務使リゼンドルを「進退使令するの権」
 が付与された。
1874年9月12日(8月2日)伊地知正治黒田清隆山県有朋
 参議就任。
  大隈・大木・伊藤・勝・寺島・大久保入れて全9名とな
 る。
1874年9月13日(8月3日)全権公使・柳原前光が、清国の大
 臣と会見折衝して、台湾問題を議す。
1874年9月15日(8月5日)郵便貯金が開始された。
1874年9月15日(8月5日)一等巡査に限り帯剣を許可した。
1874年9月18日(8月8日)森有礼に依り、日本最初の洋式商
 科専門教育たる商法講習所を設立した。
1874年9月21日、菱田春草が生まれた(1874年〜1911年)
1874年9月24日(8月14日)海軍仮提督府を鹿児島県におく
 ことを決定。
1874年9月25日(8月15日)立志社総代・林有造が、台湾征
 討の義勇兵編成願を高知県権令に提出した(10月28日不
 認可)
1874年9月26日(8月16日)全権総理大臣・大久保利通が、
 軍艦「龍驤」にて長崎発、清国に向う。
1874年9月26日(8月16日)わっぱ騒動
  酒田県、1万人が参加した石代上納・雑税廃止を求める
 農民騒動が広がりをみせた。
1874年10月4日(8月24日)浅草文庫が開館した(1875年11
 月に、浅草文庫、公私の閲覧を許可)
1874年10月9日(8月29日)官立、公立、私立学校の別を明
 確化した。
1874年10月(明治7年9月)小島忠里(18歳)らが入舎した。
  1880年6月(明治13年5月)の解散まで、民権派代言人
 育成と、民衆権利擁護の戦いを続けた。
  翌・1875年にかけて、東京(日本橋北鞘町5番地)、広
 島、堺(車之町、寺島槙蔵方)、博多(土屋町)などに
 も北洲舎を設立(後、新潟・名古屋・大津にも支舎設立)。
   明治8年〜9年の頃、最も好況を呈す。
1874年10月(9月)朝鮮が、日本公館長・森山茂と釜山地方
 管轄東莱府使・朴斉寛間で交渉開始が合意された。
  台湾出兵の影響で軟化した。
  翌月・11月、森山は一旦帰国。
  翌年・1875年3月(明治8年2月)正式代表使節として副
 官・広津弘信を伴い釜山着。
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(増補版)326E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年7月〜1874年8月)

題:(増補版)326E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年7月〜1874年8月)
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1874年7月(明治7年6月)神奈川県令・中島信行、石阪昌孝
 を県の権少属に抜擢。
1874年7月(明治7年6月)島本仲道(北洲)、大阪船場(北
 浜2丁目)で全国的に早い民権派代言人結社「北洲社」を
 設立。
  多くの弁護士育成をはかり、先駆的な都市民権派とし
 て活躍。
1874年7月(明治7年6月)島本仲道:天保4(1833)年生れ。
 土佐藩士。
  若くして陽明学に傾注し、江戸に出て安井息軒に学ぴ
 久坂玄瑞らの尊攘運動に参加。古沢滋・河野敏鎌らと武
 市瑞山の土佐勤王党に血盟。
  文久3年(1863)武市瑞山と共に投獄され、維新後に放
 免される。
  十津川騒動の鎮撫に加わり、明治3(1870)年、大和五
 条県大参事、東京府権少参事(同4年)、司法大丞兼司法
 大検事・警保頭(同5年)を歴任、江藤新平の司法制度改
 革に協力する。
  明治5〜6年、海軍省所属運送船大阪丸と三菱会社汽船
 山城丸とが瀬戸内海で衝突し、大阪丸は沈没、死傷者が
 多数にのぼる事故発生。
  江藤司法卿は、大阪裁判所長児島惟謙にこれを審按さ
 せる。
  児島は、岩崎弥太郎を召喚するが、岩崎は病と称して
 応ぜず(花街に遊蕩)、児嶋は江藤に電報で指令を仰ぐ。
  江藤は警保頭島本による同郷人岩崎の拘引を躊躇する
 が、島本はこれを拘引する。
  明冶6(1873)年11月、島本は司法三等出仕・大検事・
 警保頭を辞任し、翌7年4月、土佐の立志社設立に参加、
 その法律研究所長となる。
1874年7月14日(6月1日)台湾遠征軍1300、3方面から牡丹
 社の本拠を攻撃、これを降伏させる。〜5日。
  戦死12・負傷17・病死561(全軍3,658人中)。
  政府、13隻の汽船買入れ、三菱会社に貸し下げ軍事輸送
 にあたらせる。
1874年7月18日(6月5日)牡丹社より撤兵、根拠地に帰還。
  台湾出兵による戦闘は、3週間程度(西郷到着後してか
 らは2週間)であるが、台湾滞在は半年に及ぶ。
  現地ではマラリアが流行し、戦闘可能状態ではない。
  「・・尚ほ出征の兵数は3658人にして、下士官以上781
 人、軍人2643人、軍属172人、従僕62人、戦死者12人、病
 死者561人、負傷者17人、・・」(徳富蘇峰「近世日本国
 民史」第90巻)。
  「東京日日新聞」の岸田吟香は、日本最初の従軍記者
 として現地からの報道に活躍し、評判となるが、病気に
 より、7月に帰国した。
  1874年8月7日(6月25日)25日の同紙上に体験談を載せ
 た。
  「予、頃日蕃地より帰りしに諸友人陸続として来たり
 訪う。
  皆云う、台清のことは如何ありしぞ、東京にては評判
 はなはだ悪しかりし故に、君がために大いに心配せしな
 り、よく無難にて帰りたまいしよなど云う者多し。
  ・・そのはなはだしきに至りてほ西郷都督も既に蕃人
 の手に死せり等、種々の浮説現下東京市中に紛々たりし
 ことと知られたり」と、現地との熱気の落差にぼやく。
1874年7月14日(6月1日)イギリス、東インド会社正式解散。
  インドの方々を、好き勝手に殺戮し尽くし、利益の収
 奪をほしいままにし尽くした悪名高いイギリスの東イン
 ド会社(会社名に隠れてのイギリスの国の収奪行為)も
 やっと終わるかに見えた・・、
1874年7月20日(6月7日)外国郵便の始まり(アメリカ合衆
 国と郵便交換条約締結される)
1874年7月20日(6月7日)西郷従道が、参軍・谷干城と陸軍
 少佐・樺山資紀を東京派遣し、終了を報告した。
  併せてアメリカ人の建言通り植民地化を建言。
  「これより専ら地方のことに心を寄せ、永遠の基礎を
 開かんとす・・すなわち優に将士を養い、漸く山野を墾
 (ひら)き以てその良報を得べし」と、
  「蕃地」での移民拓殖の事業に着手すべきことを建言。
1874年7月21日(6月8日)島根県雑賀町の大火(約2000戸焼
 失)
1874年7月22日(6月9日)中江兆民が、2年4ヶ月間のフラン
 ス留学より帰国。この日、横浜に到着。
  1874年8月(明治7年8月)仏学塾「開業願」を提出。
1874年7月27日(6月14日)朝鮮に滞在の森山茂、3回目の
 交渉。好転の兆し。
  1874年9月1日(7月21日)寺島外務卿宛に報告。
  日本の征韓論台湾出兵は清国を通して知られていて、
 日本の出方が注目されている。
  森山は、5ヶ月以内に、外務卿・寺島宗則と外務大丞・
 宗重正(元対馬藩主)の書契を持参、朝鮮政府の礼曹判
 書に提出し、交渉の事前協議に入る旨通告し帰国した。
1874年7月28日(6月15日)植木枝盛(18)の投書を掲載(
 「高知新聞」)。活字になった枝盛の文章の初見。
  「高知新聞」は、明治6年7月30日に民立共立社から発
 刊された。
1874年7月31日(6月18日)イギリス公使パークスが、寺島
 外務卿に各国公使に公告なしの台湾出兵を難詰。
  大兵を他国領土に送るにあたって、各国公使に公告す
 る以前に、軍隊が「私に」出動したのは文明国にあるま
 じきことだ(イギリスのインドの行為は棚に置いた)、
  日本が万国公法を犯しているのは明らかだ、清への場
 合は例外としても、他国へ3千もの大軍を送れば必ず戦争
 になる、日本が清に向かってそのようなことをしたから
 には他国が日本に向かって同様なことをしても文句はい
 えないだろう、もし他国が北海道に3千の軍隊を上陸させ
 たら日本はどうするつもりか・・(日本は清にアヘンの
 麻薬を売って、因縁を付けて戦争するようなイギリスの
 様な事はしていない)。
  さらに、パークスは、清国総署大臣から外務卿あての
 照会に回答したのかと日本側の落ち度を突いてくる(清
 国が何度も何度も麻薬禁止令を出しても、インドから麻
 薬を運んだイギリスの大罪の行為は棚に上げている)。
1874年7月31日(6月18日)大隈蕃地事務局長官、蕃地事務
 局准2等出仕リゼンドル(アメリカ人)と連署台湾出兵
 の法理的根拠をボアソナアドに諮問。
  旧暦6月24日、大久保利通、ボアソナアドを知る。
  旧暦6月25日、ボアソナアド、大隈へ意見書。
  出兵がもたらす戦争への危険性警告。
  大久保は、その後何度もボアソナアドに会い、その万
 国公法理論が重要・有効と認め、北京への随行を決める。
  ボワソナアドの回答。
  1、「蕃地」が無主地であることを論証するためにリ
   ゼンドルが挙げた歴史的・地理的根拠は正当であり、
   清国は領有の「権」を主張できない。
  2、しかし、清国が領有を断念したとの証拠もない(
   言質はある)。
  3、他国が「蕃地」を征服しようとすれば、清国には
   「自国安堵」のために他国の行為を.「妨制」する
   「利」がある。
  ポワソナアド(来日した近代法の学者、フランス人)
 は、「蕃地」無主地論が成立するとしても、清国が自国
 の安全保障を理由に武力干渉に訴えることは国際的に承
 認されると。  
  しかし、清国は「外地である」と日本に返事をして、
 われ関せずの態度を取った。
1874年7月31日(6月18日)陸軍参謀局条例を定めた。
1874年8月4日(6月22日)榎本武揚が、ロシア外務省アジア
 局長ストレモーホフ会談した。
1874年8月5日(6月23日)屯田兵制度設置
  北海道に屯田兵の制度を設けた。
1874年8月6日(6月24日)清国皇帝が、日本の出兵は修交条
 規違反、即時撤退を要求するよう、もし従わない場合は
 罪を明示して討伐するよう閩浙総督李鶴年らに勅命。
  しかし、皇帝が、沿海各地の総督・巡撫・将軍らに戦
 備と勝算を「諮問」したところ、台湾防備関係者以外は
 みな戦備不十分だから勝算なしとの悲観論を上奏。
  清軍の装備は貧弱で士気も低く、軍1万を台湾に派遣
 するがマラリアに苦しむ日本軍3千に対しても何も手出
 しせず。
1874年8月6日(6月24日)台湾から帰着の谷干城が、原住民
 平定近いと報告した。
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