(増補版)290E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年2月〜1869年5月)

題:(増補版)290E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年2月〜1869年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1869年2月4日(12月23日)府藩県三治制(ふはんけんさん
 ちせい)
  各府藩県に、仮に権知県事、権判県事を置き、その適
 任者を選んでこれを奏上せしむ。
  府藩県三治制は、明治初年の地方統治制度のことで、
  1868年5月(明治1年閏4月)の政体書により、地方統治
 は府藩県の三治制とし、
  旧幕府直轄地を府と県に分けて知事、判事を置き、藩
 は従来どおり諸侯に統治させた。
  政府は、府藩県の不統一の是正を図り、藩に対しては、
 1868年10月の「藩治職制」、
 1869年6月の「諸務変革令」、
 1869年7月の「職員令(しきいんりょう)」の藩の規定、
 1870年9月の「藩制」などでその画一化を進めた。
  また府県には、1869年2月の「府県施政順序」、
 1869年7月の「府県奉職規制」や「職員令」の府県の規定
 などにより整備に努め、府藩県三治一致を促進した。
  1871年7月の廃藩置県によって、府県二治制となり、
 三府302県、1871年年11月には、三府72県となった。
1869年2月5日(12月24日)府藩県に、地方地図作製を命ず 。
1869年2月9日(12月28日)皇后宣下(氷川清話)
  一条美子を皇后に冊立(さくりつ、勅命により皇太子
 殿下・皇后陛下などを正式に定めること)。
1869年2月9日(明治元年12月28日)諸外国、局外中立を解除。
  明治政府が、日本の唯一の正統政府とみなされた。
1869年2月11日(明治2年1月1日)日本最初の洋式燈明台を
 三浦半島観音崎に開設。
1869年2月15日(明治2年1月5日)横井小楠、京都にて暗殺。
  横井小南、暗殺去る(氷川清話)
  (しょうなん)熊本藩士、思想家、明治新政府の参与、
1869年2月18日、この日、再幸の京都出発が、3月7日と布告
 され、
  さらに、東京行幸の間は、太政官を東京に移転すると
 発表された。
1869年2月20日(1月10日)安房国の野島岬灯台、竣工する。
1869年2月20日(1月10日)日独修交通商航海条約が成り、
 調印する。
1869年2月24日(1月14日)横浜港に初めて燈台が竣工する。
1869年2月、東京で、市中の風俗矯正の目的で男女混浴が、
 禁止された。
1869年3月2日(1月20日薩長土肥藩主、版籍奉還を上奏
  封建を廃し、府藩県とする(氷川清話)
1869年3月2日(1月20日)諸道の関門、関所廃止を布告する。
  諸道の関門、関所廃止の布告令で、全国の関所は、す
 べて廃止された。
  諸街道の関所を廃止し、全国一律に1里36町と正式に決
 定した。
距離の統一
  全国でまちまちだった距離の計測を統一し、全国一律
 に1里=36町=約4キロメートルと正式に定めた。
  そして、民部省からこの基準で諸街道の距離を測るよ
 うに命令が出た。
  そして、明治6年1873年)になって、太政官より改め
 て全国の道路距離調査を命じた。
  この時、東京の日本橋と、京都の三条橋の中央が、国
 内全体の起点とされた。
  また、同時に東京・京都を除く各府県で、県庁所在地
 に中心(元標)を置いた。
  そして、その元標から距離を測るようよう決められた。
  また、同時に里程標を、各地の重要な場所に建てるよ
 う定めらた。
  そして、これに東京と京都からの距離と、近隣への距
 離が記入された。
1869年3月5日(1月23日)薩長土肥の四藩、率先して版籍奉
 還(これより各藩これに倣って奉還する)
1869年3月15日(2月3日)米国が、中立解除につき新政府に装
 甲艦甲鉄を引渡し。
  新政府軍の海軍力が蝦夷共和国軍を上回る
1869年3月15日(2月3日)毛利元就に豊栄神社を賜号
1869年3月17日(2月5日)造幣局を設置(金銀座廃止)
  貨幣司を廃止し、2月5日に、太政官造幣局が置かれ
 た。
  大坂に造幣局が設置された。
  明治2年(1869年)貨幣司・金銀座を廃止して造幣局
 正式には造幣寮と改称)を設置し、民部省札を発行した。
1869年3月20日明治2年2月8日)新聞紙印行条例の公布
  新聞紙刊行が、初めて許された。
  明治新政府は,佐幕派の新聞を取り締まった。
  しかし、政治批判を禁ずるなどの介入をしながらも、
 新聞紙印行条例を、1869年3月20日に公布して、新聞の刊
 行を促そうとした。
  しかし、1873年10月に、征韓論をめぐって西郷隆盛
 が下野すると、世論鎮圧のため、新聞紙発行条目を公布
 した。
  また、1875年には、高まってきた自由民権運動の規制
 のため、1875年6月28日に、讒謗律 (ざんぼうりつ、名誉
 棄損罪の原型を為す法律) の制定と一緒に、新聞記者へ
 の処罰を定めた新聞紙条例を公布した。
1869年3月、明治政府が、陸海軍に函館攻略を命じた。
  長崎から、振援隊樂手と長崎海軍伝習所に学んだ士官
 などの他、
  奉行組下の船手係と水夫、火夫らが出征した。
  35人が朝陽丸に、15人が陽春丸に乗組んだ。
  6月11日に、朝陽丸沈没した。
  長崎参戦者のうち20人が艦と運命を共にした。
1869年3月28日、天皇陛下、東京着
  この日、再幸した天皇陛下が東京に着いた。
  そして、政府は、先に皇居とした東京城を、これから
 皇城とすると発表した。
  皇居と皇城では、内容に大きな違いがある。
  皇居は天皇陛下が居住するという意味。
  故に、これまでは京都の御所も皇居であり、東京城
 皇居であった。
  皇城は、皇居と太政官政府が有る場所という意味。
1869年4月3日(2月22日)諸開港場に通商司を設置
1869年4月5日(2月24日)太政官を京都より東京に移す。
  東京に政府が京都から移された。
  明治維新のとき江戸が東京とされ、都として定められ、
  京都との東西両京としたうえで、
  慶応4年7月17日(1868年9月3日)に、江戸が東京と改
 称され、
  1868年9月に、元号が明治に改められ、
  1868年10月13日に、天皇が東京に入り、
  1869年(明治2年)に、政府が京都から東京に移された。
1869年4月14日、勝海舟駿河国見回りの御暇を願い14日
 出立(氷川清話)
1869年4月18日(3月7日)最初の議事院たる公議所が、東京
 で開催した。
  諸藩より約220名が参加し、切腹の禁止、帯刀廃止など
 を討議した。
1869年4月19日(3月8日)造幣局を大阪の川崎に創設
1869年4月20日(3月9日)函館討伐の官軍が、品川を発す。
  黒田清隆山田顕義ら軍艦及び運送船8隻に分乗。
1869年4月21日(3月10日)名主の制廃止
1869年4月22日(3月11日)、明治政府が、グラバー管理の
 小菅修船場(通称ソロバンドック)を、洋銀12万弗で買
 収し、長崎製鉄所の付属にした。
  1876年(明治9年)には、西南戦争のため、修理船が、
 11隻を数えた。新船も建造。
1869年4月23日(3月12日)天皇陛下が、伊勢神宮を参拝さ
 れた。
  伊勢大神宮へ天皇御親拝の始(明治天皇が伊勢へ行幸
 内宮外宮御親拝)
  この時から、145年を経た2014年3月下旬にも、天皇
 下が20年ぶりに「三種の神器」を御持参されて、伊勢神
 を参拝された。
1869年5月1日(3月20日)府県に小学校を設け、また東京府
 に中小学校取調掛を設けた。
1869年5月1日(3月20日)朝廷修史のため史料編纂国史
 正局を九段上旧和学講談所に設置(東京帝大史料編纂掛
 の始)
1869年5月6日(3月25日)宮古湾海戦(幕府残党軍による
 ストーンウォール号奪還事件)
  蝦夷共和国軍、甲鉄の奪取を試みるも失敗
1869年5月9日(3月28日)明治天皇陛下、再び東京へ
  東京城に到着、「皇城」と称する。
  これより実質的に東京が首都となる
1869年5月11日(3月30日)久我通久を函館鎮撫総督に任じ、
 軍艦「朝陽丸」にて差遣を命ぜられる
1869年5月20日(4月9日)新政府軍、蝦夷地に上陸。
1869年5月26日(4月15日)両替町を改称し銀座に
1869年5月27日、勝海舟、郡県制の御下問あり、難事でない
 旨述べる(氷川清話)
1869年5月、横浜馬車道乗合馬車
  東京〜横浜間に、乗合馬車が営業を始めた。
  開港後の横浜で、欧米人が持ち込んだ馬車が乗り回さ
 れていた。
  そして、1867年(慶応3年)秋には、茶や絹などの貿易
 を行っていたコブ商会によって、 江戸〜横浜間の乗合馬
 車が企業化された。
  このコブ商会は、横浜と江戸の築地間に、午前と午後
 の2回、定期便を走らせた。
  料金は、1人2ドルで、所要時間は、2時間だった。
  1869年5月には、横浜と東海道を結ぶ「馬車道」(現在
 の馬車道とは異なる) が新設され、
  わが国の写真業の祖といわれる下岡蓮杖らによって、
 日本人の馬車会社 「成駒屋」が営業を始めた。
  成駒屋は、吉田橋(日本初の鉄製トラス橋;現在の伊
 勢佐木町入口付近)から 都橋を渡り、野毛山を通り戸部、
 平沼を経由して、東京日本橋四日市河岸まで 営業した。
  2頭立ての馬車を使って、定員6人、料金は3分(後に75
 銭)、所要時間 :4時間だった。
  ロンドンでは、1829年(文政12年)頃から馬車の定期
 運行をしていた。
..
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臨時ブログ:笹子トンネル天井版落下事故について・・、

臨時ブログ:笹子トンネル天井版落下事故について・・、
  何でも、ほっておいたら、劣化し、壊れる。
  国の、この面の対策が、非常に遅れている。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  笹子トンネルの天井版落下事故の原因は、「工法の採
 用を優先した」という原因の要因が、消すことが出来な
 い。
  工事の工法は、工期・コスト・実現可能性・安全性・
 メンテナンス性などなどから選択される。
  今回、起きてしまった不幸、天井版落下事故の原因に
 おいて、標記の要因が消せない。
  笹子トンネル工事は、「本体工事の工法選択が優先さ
 れた」と言え、そして、考えられる一面がある。
  それが、結果的に「事故につながった」と考えられ点
 がある。
  トンネルを構築するという主目的である「工法の選択」
 を優先したからと考えられる。
  この採用されたトンネル工法は、この後に続く後続工
 事に、ある条件を課さねば成立しない工法だったと考え
 られる。
  ある意味、後続工事をないがしろにしなければ、成立
 しないトンネル工法だったと言える。
  それ故に、天井版の支持に、「ホール・イン・アンカ
 ー工法」を採用せざるを得なかったと言える。
  だからまた、この工法を採用を「可」とした「規準が
 不適切だった」とも言える。
  それ故に、この様な「リスクの高い後続の工法」が、
 採用されてしまったと言える。
  この「ホール・イン・アンカー工法」は、出来た時か
 ら「上向き使用には用いない方がよい」とされていた。
  そのホール・イン・アンカー工法を、採用を可能とし
 た規準が、トンネルの構築工法の採用への道を、「良く
 言えば広げた」(悪く言えばリスクをないがしろにしな
 がら使用可とした)。
  「ホール・イン・アンカーの工法」が出来た当初は、
 抜け落ちる恐れのある使用はお勧めできない・・という
 技術的な説明がなされていた(つまり、上向き使用は避
 ける方向にして下さい・・だった)。
  この様な、国が造るトンネルに、この様な部位に、上
 向き使用として使われている違和感は大きく感じて、驚
 かされた。
  笹子トンネル工事は、この様な状況と規準の中で、「
 ホール・イン・アンカー工法」を使用しなければ採用で
 きない工法だったと考えられ、ある意味、国民の命・ト
 ンネル使用者のリスクを大きくした工法を採用したもの
 と判断できた。
  故に、だからこそ、メンテナンスや点検は、更に十分
 に、行われなければならない必然性と運命の元にあった。
  しかし、点検やメンテナンスの実態も分かって来ると、
 その簡略さが非常に残念で、亡くなられた方々が、非常
 に惜しい感じにつまされる(ほとんどメンテナンスもな
 されていなかったと感じる、悪く言えば、ほっておいた
 状態だったようだ)。
  NHKのニュースで、その事故に遭遇した方が、「津
 波の様に天井版が落ちて来た」と言われていた。
  つまり、隣のボルトが、落下した部位の天井版を支え
 られずに、次々と隣の板に荷重を掛けながら、続けて、
 落ちて行ったという、劣悪な支持状態だったことが分か
 る。
  支持している支柱も少なく、その支柱を支持するボル
 ト本数も少ない(支柱は中央だけの1本で、そのボルト数
 も2本)・・この件も問題なのだ(この事故に関わる部分
 には、その他、まだまだ、今後、改善すべき点が多々あ
 るのだ、設計段階も問題である・・問題点は多々ある)。
  この件を・・、原因について、東京大学の教授が「樹
 脂の劣化だ」と言ったことも、問題の視点をずらす、「
 反社会的発言」と申し訳ないが言える面もある。
  樹脂の劣化もあるが、この1点の視点に固着し、固定し
 たところが問題である(他の問題点に免罪符を与えてし
 まった)。
  長い期間の湿気の吸放湿の繰り返しで樹脂は劣化する、
 この一点で、他は無罪とした。
  この笹子トンネル事故は、この問題だけではない。
  後述する裁判の判決も、この一点だけに捉われて判決
 が下されている。
  この判決によって、「一件落着」として戴きたくない。
  問題点は、すべては解決していない。
  教授の発言は、その原因となっている。
  樹脂の劣化と言えば、「世の中、丸く収(おさ)まる」
 的な発言であった。
  しかし、社会は何ら良くはならない。
  事故は再発する(悪く言えば、他の原因者が、前記の
 発言で隠れてしまったからである)。
  樹脂が、劣化をするならば、「その樹脂を選択したも
 のにも責任がある」。
  それを許した「国の規準にも原因がある」「国にも責
 任がある」。
  樹脂の劣化要因は色々とあるが、よく知られているの
 が紫外線劣化である。
  太陽光の下において劣化する樹脂が多い(もちろん、
 劣化しにくい樹脂もある)。
  紫外線のないトンネル内で樹脂が紫外線劣化する訳は
 ない。
  ましてや、トンネルに掘られた穴の中に詰まっている
 樹脂が・・。
  しかし、他の劣化要因についてマークできなかった、
 長期における繰り返し劣化に対して・・。
  この様な事を言うのならば、樹脂を使って木材を貼り
 合わせて構造体にして、例えば、体育館などを作ってい
 るが、樹脂がこの様に劣化をするならば、この体育館も
 崩落するだろう。
  点検をしているのだろうか?
  点検結果から適切なメンテナンスをしているのだろう
 か?
  だから、この体育館の件に限らず、社会資本の点検は、
 国の第一の重大課題なのである。
  点検だけではない、その充実した、誠実な点検で知り
 得た問題点は、一つ一つ丁寧に解決して行かねばならな
 いのだ。
  そうすれば、社会資本は、極端な言い方をすれば、永
 久に使用可能なのだ。
  上野の前川国男の文化会館を見て戴きたい、良い点検
 により、そしてまた、良いメンテナンスにより、新築同
 然です。
  また、ル・コルビジュエの近代美術館は、世界遺産
 して、永久に日本の社会資本としようとしている、良い
 点検とメンテナンスがそれを可能にしている。
  壊して作り替えればいいのだ・・という考えは、間違
 っている。
  何でも、作り替えることが・・今の世の風潮になって
 いるが、間違いだ。税金がいくらあっても間に合わない。
  そして、何でも、ほっておいたら、劣化し、壊れるの
 です。
  この面の対応、そして、対策が、非常に遅れている。
  日本には、その技術は、十分ある。
  笹子で亡くなられた尊い方々は、この事を教えて戴い
 た方々だった。
  (追伸)天井版の「版」は、新聞や社会は「板」を使
 っている。
  しかし、笹子トンネルは、「板」という軽量なもので
 はなく、「版」と言うべき非常に重いものであり、
  だからこそ、なお、「ホール・イン・アンカー工法」
 などという工法は、不適切だったと言いたい。
  まだまだ、言いたいところがある・・が・・、
  そして、(読売新聞、2016・1・6)で、「笹子事故、
 判決確定へ」「賠償命令、中日本高速、控訴せず」と伝
 えていた。
  その内容は・・、
  山梨県の中央道で、2012年に起きた笹子トンネル天井
 板崩落事故で死亡した9人の内男女5人の遺族が、中日本
 高速道路と小会社に損害賠償を求めた訴訟で、両社は控
 訴期限の5日、計約4億4000万円の支払いを両社に命じた
 横浜地裁判決について「控訴しない」と発表した。
  遺族側も控訴しないため、判決が確定する。
  昨年12月22日の判決は、供用開始から約35年が経過し
 ていた笹子トンネルの劣化を容易に想像できたのに、適
 切な点検を怠ったなどとして、中日本高速と子会社の中
 日本ハイウェイ・エンジニアリング東京の過失を認めた。
  両社は、「点検方法に問題はなかった」と争ったが、
 中日本高速は「判決を真摯に受け止めた。
  事故から3年が経過し、遺族の気持ちに改めて向き合っ
 ていかなければならと判断した」と控訴しない理由を説
 明した(後略)・・とある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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