(増補版)289E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年12月〜1869年2月)

題:(増補版)289E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年12月〜1869年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年12月14日(明治元年11月1日)観音埼灯台(かんのん
 ざきとうだい、初の洋式灯台)が着工した。
  日本最古の洋式灯台として神奈川県横須賀市、三浦半
 島東端の観音崎に立っている。
  1869年2月11日に、完成し点灯した。
  1866年(慶応2年)、米英仏蘭と結んだ「改税条約」
 (江戸条約)によって建設を約束した8ヶ所の灯台(条約
 灯台)の1つ。
1868年12月16日(11月3日)、徳川民武大輔が、仏国より帰
 朝(氷川清話)
  徳川昭武(とくがわあきたけ)が、1868年10月18日(
 9月4日)に、マルセイユを出航し、
  12月16日(11月3日)神奈川に到着した。
  1869年には、水戸徳川家を相続し、藩主に就任した。
1868年12月17日(11月4日)東京遷都祝賀大会
1868年(11月9日)勝海舟、至急ご用あり、昼夜兼行出府
 仰せつけられる。
  行政官御達を受く。
  即日、駿府出発、11日東京着、これは、脱走軍艦処置
 の為(氷川清話)
1868年12月22日(11月9日)東京互市場を鉄砲洲に開き、外
 国事務局と称す(後の東京運上所)
  東京税関のホームページには、税関の前身として「運
 上所」が設けられ、運上事務及び外交事務を取り扱った
 と説明され、
  東京港における税関の歴史として慶応3年10月に、幕府
 によって、江戸築地鉄砲洲(現在の中央区明石町)に設
 けられたと書かれている。
  慶応3年10月は、1867年11月になる。
  また、中央区のホームページには、明治元年12月に、
 東京運上所として造られた建物・・云々と説明してあり、
 明治元年12月は、1869年1月となる。
1868年12月28日(11月15日) 開陽丸が、座礁し沈没す。
1868年12月31日(11月18日)新嘗祭奉拝の儀、東京城(江
 戸城)にて挙行された。
  新嘗祭(にいなめさい、しんじょうさい)は、、「新」
 は新穀を「嘗」はご馳走を意味し、新穀を得たことを神
 さまに感謝する。
  天皇陛下が、宮中で感謝を込めて新穀を神々に奉ると
 上もに、御自らも召し上がる。
  新嘗祭の起源は古く、『古事記』にも、天照大御神
 新嘗祭を行ったことが記されている。
  命の糧を神さまからいただくための勤労を尊び、感謝
 をしあうことに由来している。
1868年、旧物打破の風潮が盛んになり、古美術が顧みられ
 ず。
  すべてが「ご一新」の風潮の中で、荒波が吹きまくっ
 た。
  旧物否定の風潮、仏教関係の建造物等の破壊となった。
  新物輸入が素晴らしいと、盲目の風潮の中にあった。
1868年、ヘボンが、日本最初の和英辞典を完成した(ヘボ
 ン式ローマ字の綴り)
1868年、アメリカのナバホ・インディアンは、
  西部開拓時代に、連邦政府と一族の命運をかけた戦い
 を繰り返すという悲惨な時代を過ごした。
  和平条約が結ばれたのは、1868年だった。
  以来、このアメリカの本当の所有者である先住民の方
 々は、アリゾナ州の北東部に与えられた自治区で細々と
 暮らす事を余儀なくされた。
1868年、カルロス・グリッテンが、タイプライターを発明
 した。
1868年、ロシアが、ブハラ・ハン国保護国とした。
  ブハラ・ハン国は、中央アジアにあったウズベク人の
 国。
  ブハラを首都にイスラム教学と商業の中心地だった。
  18世紀末から、ロシアとの商業関係が深まるとともに
 国内統一が進展したが、ロシアの中央アジアの植民地化
 を目指す行動に敗れ、保護国になった。
  1920年に至り、ロシア革命と合流し、ブハラ人民ソビ
 エト共和国(1920年1924年)の樹立となった。
1869年1月1日(明治元年11月19日)旧幕府軍追討令が出
 された。
1869年1月1日(11月19日)函館地方、占拠される。
1869年1月1日(11月19日)東京が開市する。
  築地に外国人居留地が設けられた。
  外国人を対象とした新島原遊郭ができる。
1869年1月1日(11月19日)新潟港開港
1869年1月1日(11月19日)燈明船、初めて横浜に設置。
1869年1月5日(11月23日)徳川昭武が、東京城天皇陛下
 に御拝謁をした。
  徳川昭武が、パリからの帰国して「東京城」と名を改
 めた江戸城で、天皇陛下に御拝謁をした。
1869年1月6日(11月24日)徳川昭武に函館討伐を命ず。
1869年1月7日(11月25日)勝海舟、往復10日の御暇で帰藩
 (氷川清話)
1869年1月9日(11月27日)来月上旬には京都へ還幸すると
 の発表があったが、同時に、来春には東京へ再幸するこ
 とが発表された。
  この事は、明らかに、天皇陛下=政府が、京都よりも
 東京を重視しているという事を一般に印象づけるもので
 あった。
1869年1月16日、東京府知事・第2代の大木喬任(たことう)
 が就任した。
  この東京府知事大木喬任(たことう)が、山の手の
 武家地・300万坪に桑やお茶を植えろと奨励した。
  武家屋敷地の荒廃であった。
  それは、江戸全体の7割を占める武家屋敷が、もういら
 なくなり、どんどん荒廃し、盗賊の住処になったりした
 からで、
  開城間もない頃の江戸城の写真を見ると、瓦は崩れ、
 壁がはげ、文字道り崩壊という感じがする。
  慶喜だって、在職中の2年数ヶ月の間、江戸城に入った
 ことはなく、
  天皇陛下の東幸時も、本丸の二の丸も、幕末に焼失し
 たままで、
  残った西ノ丸を皇居にしたぐらいであった。
  東京(江戸)の地は、願書を届け出さえすれば、土地
 は、桑や茶を開墾する人たちに貸し出された。
  また、あるいは、ただ同然に払い下げられた。
  南青山の土地が、千坪単位で売りに出されて15円、1坪
 1銭5厘だった。
1869年1月17日(12月5日)勝海舟、出府(氷川清話)
1869年1月18日、国是を決める大会議を開催
  この日、国是を決める大会議を開催するから、藩主・
 府県知事は、4月中旬まで東京に参集する様にと命ぜら
 れた。
  明治初年は、王政復古という事で、太政官の高官は平
 安時代の格好をしていた。また、平田派の廃仏稀釈運動
 があった。
1869年1月19日(12月7日)陸奥国を分って磐城、岩代、陸
 前、陸中、陸奥の五国とし、
  出羽国を分って羽前、羽後の二国に定む。
1869年1月20日(12月8日)明治天皇陛下、東京を発輦、京
 都へ還幸。
  旧暦12月22日に、京都に帰られた。
1869年1月23日(12月11日)徳川昭武が、新藩主として水戸
 へ下った。
1869年1月24日(12月12日)勝海舟、御用あり、滞京を仰せ
 つけられる。
  官命により幕臣の総員を調査し、併せて旗本8万騎の
 理由を述べる(氷川清話)
1869年1月27日(12月15日)蝦夷共和国の成立
  榎本武揚旧幕府軍が、蝦夷地を平定し、占領した。
  箱館政権を樹立し、蝦夷共和国が成立した。
  総裁が、入れ札(選挙)によって決められ、榎本武揚
 が総裁となった。
  榎本は、1869年1月13日(12月1日)に、蝦夷地の開拓
 を求める嘆願書を、イギリスおよびフランスの軍艦に託
 したが、両国公使から嘆願書を受領した右大臣・岩倉具
 視は、1869年1月26日(12月14日)、これを却下した。
1869年1月、徳川慶喜、罪を許される。
  徳川慶喜、謹慎を免ぜられ、1月、静寛院宮、京都に移
 られる(氷川清話)
1869年1月、公撰の法を設け、輔相、議定、参与登庸(氷川
清話)
  公選というよりも互選で、官吏を選んだ。
  また、別史料には、
  「1869年(明治2)5月13日、天皇の詔(みことのり)に
 よって行われた官吏の選挙。
  三等官以上の上層官吏の公選によって、
  輔相(ほしょう)1名、議定(ぎじょう)4名、参与6名のほ
 か、神祇(じんぎ)、民部、会計、軍務、外国、刑法の六
 官知事・副知事と内廷職知事を決めた」とある。
1869年1月、太政官制定(氷川清話)
  太政官(だじょうかん)は、明治維新が開始された慶
 応4年/明治元年(1868年)、政体書によって設置された
 最高行政機関である。
  立法・行政・司法の機能を備えていた・・とある。
1869年2月1日(12月20日)沼津兵学校の開設
  沼津兵学校は、1868年(明治元年)、フランスに倣っ
 た軍隊を目指すという目標を掲げ、駿河国沼津の沼津城
 内の建物を使って徳川家によって開校された兵学校のこ
 と。
  受講資格は、徳川家の家臣である14歳から18歳という
 ことが原則ではあった。
  しかし、他藩からの留学生もいたといわれる。
  初代学長は西周であり、教師は優秀な幕臣の中から選
 ばれた。
  1870年(明治3年)に兵部省の管轄となった・・とある。
1869年2月3日(12月22日)明治天皇輦駕、京都に還幸
1869年2月3日(12月22日)歳末年始の官庁休暇制定
1869年2月4日(12月23日)渋沢栄一が、静岡で徳川慶喜
 拝謁した。
  渋沢栄一は、パリから帰国し、この日、静岡で徳川慶
 喜に拝謁した。
  翌日、静岡藩勘定組頭に任じられた。
  新しい時代が始まった。
.
  付録:今日の言葉:
  「目視検査だけで点検するのは、『落ちるまで安全』
          と言っているようなもの」。
  解説:目視検査だけで「落ちる」「落ちない」の判断
   が、できる訳がない。
    国をはじめ公的機関は、目視検査だけで危険のチ
   ェックが、「できる」という考え方をして、検査基
   準を決めている。
    笹子トンネルの落下事故のゆるんだボルトが、目
   視検査で発見できなかった事を学んでいない。
    国民の命のリスクは減少していない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)288E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年12月〜1868年12月)

題:(増補版)288E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年12月〜1868年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1868年12月8日(10月25日)榎本武揚大鳥圭介、荒井郁之
 助らが、函館の五稜郭に、陣を整えた。
  新政府側の箱館府知事の清水谷が、箱館を脱出した翌
 日・1868年12月9日(10月26日)に、
  榎本軍は、川汲峠側から進撃して来た一連隊を先頭に、
 五稜郭に無血入城した。
  峠下側の主力部隊が、峠下、七飯、大野で、箱館府
 と戦っていて、遅くなったためだった。
  箱館無血入城を聞いた榎本らは、直ちに、艦隊を箱館
 に回航した。
  箱館は、外国人が住んでいるため、それを考慮して発
 砲をせずそのまま入港した。
  その後、直ちに運上所(倉庫)を押さえた。
  1868年12月10日(10月27日)に、秋田藩の船である高
 雄丸(船将:田島圭蔵)が、箱館が、榎本軍に占領され
 ている事を知らずに入港して来た。
  榎本軍は、直ちに、この船を拿捕した。
  船は、榎本軍が接収したが、乗組員は、後日、無事に、
 本州へ帰した。
  榎本軍は、蝦夷地上陸後、わずか5日で、大きな損害
 も出さず、箱館を占拠した。
  榎本武揚の主旨は・・、
  義憤:ぎふん、辞書に、「道義に外れたこと、不公正
 な事に対するいきどおり」・・とある。
  新政府が、1868年7月13日(5月24日)に、決定した徳
 川家への処置は、駿河遠江70万石への減封というもの
 であった。
  これにより、約8万人の幕臣を養うことは困難となり、
 多くの幕臣が、路頭に迷うことになった。
  これを憂いた海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に、旧
 幕臣を移住させ、北方の防備とともに、その地の開拓に
 あたらせようとした。
  榎本は、平潟口総督四条隆謌宛てに、『旧幕臣の救済
 のため蝦夷地を開拓する』という内容の嘆願書を提出し
 ていた。
1868年12月10日(10月27日)備前藩、津藩、久留米藩が、
 函館に出征した。(10月30日説あり)
1868年12月13日(10月30日)箱館占拠さるの報
  [新政府軍が集結する、そして、出征]: 旧幕府軍によ
 る箱館占拠の通報が東京に届き、
  新政府は、直ちに、津藩兵・岡山藩兵・久留米藩兵の
 計約1,000名を海路で青森に送った。
  その他、1868年12月19日(11月6日)、奥羽征討軍参謀
 であった山田顕義が、長州藩兵・徳山藩兵を率いて秋田
 から青森に入り、
  1868年12月22日(11月9日)に、青森口陸軍参謀に就任
 した。
 そして、1869年1月1日(11月19日)には、旧幕府軍追討
 令が出された。
  1869年1月9日(11月27日)、青森に避難していた箱館
 府知事・清水谷公考が、青森口総督を兼務することとな
 った。
  しかし、冬季作戦などの準備は全くないので、箱館
 討は、翌年の雪解けを待って開始することとし、青森周
 辺に冬営した。
  [陸軍]: 陸軍は、1869年3月(明治2年2月)には、松
 前藩、弘前藩兵を中心に、約8,000名が青森に集結した。
  [海軍]: 海軍は、アメリカの局外中立撤廃を受けて、
 品川に係留されていた最新鋭の装甲軍艦甲鉄を、
  1869年3月(明治2年2月)に購入するとともに、
  増田虎之助を海軍参謀とし、諸藩から軍艦を集めて艦
 隊を編成した。
  1869年4月20日(3月9日)、新政府軍艦隊(甲鉄・春日・
 陽春・丁卯)の軍艦4隻と、豊安丸・戊辰丸・晨風丸・飛
 龍丸の運送船4隻は、甲鉄を旗艦として品川沖を青森に向
 け出帆した。
  [宮古湾海戦が起きた]: 旧幕府軍は、新政府軍艦隊が、
 宮古湾に入るとの情報を受け、甲鉄を奪取する作戦を立
 案した。
  1869年5月1日(3月20日)に、海軍奉行・荒井郁之助を
 指揮官として、
  陸軍奉行並・土方歳三以下100名の陸兵を乗せた回天と、
 蟠竜、箱館で拿捕した高雄の3艦は、宮古湾に向け出航し
 た。
  1869年5月4日(3月23日)に、暴風雨に遭遇した3艦は、
 統率が困難となり、集結地点である山田湾には、回天と
 高雄が到着したが、蟠竜は現れなかった。
  その上、高雄は、蒸気機関のトラブルで速力が半分に
 落ちており、このままだと勝機を逸してしまうため、回
 天だけで決行することとした。
  1869年5月6日(3月25日)早暁、回天は、宮古湾へ突入
 する。
  日章旗を揚げて、全速力で甲鉄へ向かった。
  奇襲は成功した。
  しかし、外輪船の回天は横付けできず、甲鉄の側面に
 艦首を突っ込ませて『丁字』の形という不利な体勢にな
 った事や、
  甲鉄より船高が3m高いこともあり、兵が、甲鉄へ乗り
 移りにくく、思うように戦えなかった。
  その上、回天の艦首から飛び降りる旧幕府兵は、甲鉄
 に装備されていたガトリング砲や小銃の絶好の的となり、
 次々と撃ち倒された。
  そして、戦闘準備を整えた宮古湾内の他の艦船の反撃
 が始まった。
  作戦は失敗に終わった。そして、宮古湾を離脱した。
  回天艦長・甲賀源吾や、旧新選組の野村利三郎など19
 名が戦死した。
  機関故障のため速力が出ない高雄も、新政府軍の春日
 に追撃された。
  そこで、田野畑村羅賀浜へ座礁させて、火を放ち、乗
 組員は、盛岡藩に投降した。
  [新政府軍が上陸した]: 宮古湾海戦に勝利した新政府
 艦隊は、1869年5月7日(3月26日)に、青森に到着した。
  兵員輸送用にイギリス船オーサカと、アメリカ船ヤン
 シーをチャーターし、1869年5月(4月初)には、渡海準
 備が完了した。
  海陸軍参謀の山田顕義が率いる新政府軍1,500名が、
 1869年5月17日(4月6日)に、青森を出発した、
 そして、1869年5月20日(4月9日)早朝、乙部に上陸した。
  旧幕府軍は、上陸を阻止すべく江差から一聯隊150名
 を派遣したが、上陸を終えていた新政府軍先鋒の松前
 によって撃退された。
  陸兵が、小競り合いを続けている間に、春日を中心と
 する新政府軍の軍艦5隻は、江差砲撃を開始した。
  江差の砲台は、反撃を試みるも、敵艦に砲弾は届かず、
  江差奉行・松岡四郎次郎ら旧幕府軍は、松前方面に後
 退した。
  新政府軍が江差を奪還すると、1869年5月23日(4月12
 日)には、陸軍参謀・黒田清隆が率いる2,800名が上陸し
 た。
  また、1869年5月27日(4月16日)にも、増援が江差
 上陸した。
  そして、松前口(海岸沿いに松前に向かう)、木古内
 口(山越えで木古内に向かう)、二股口(乙部から鶉・
 中山峠を抜け大野に向かう)、安野呂口(乙部から内浦
 湾に面する落部に向かう)の四つのルートから、箱館
 向けて進軍を開始した。
  一方、旧幕府軍では、1869年5月25日(4月14日)、仙
 台藩を脱藩した二関源治が率いる見国隊400名が、イギリ
 ス船で鷲ノ木近くの砂原に到着し、室蘭、及び、箱館
 備に投入された。
  [松前の戦い]: 1869年5月22日(4月11日)、松前を守
 備していた伊庭八郎が率いる遊撃隊と、春日左衛門が率
 いる陸軍隊を中心とする部隊500名が、江差奪還のために
 出撃した。
  根武田(現・松前町)付近で、新政府軍の斥候を蹴散
 らし、翌日には、一気に茂草(現・松前町)まで進出し
 た。
  新政府軍は、江差まで退却した。
  このまま、江差奪還を目論んだが、新政府軍が後方の
 木古内に進出中との情報を受け、松前へ撤退した。
  1869年5月28日(4月17日)に、新政府軍は、松前を攻
 撃した。
  新政府軍の艦砲射撃に加えて、戦力差は歴然としてお
 り、40名以上の戦死者を出した旧幕府軍は、松前城を放
 棄し、知内まで敗走した。
  [木古内の戦い]: 木古内では、1869年5月23日(4月12
 日)に、陸軍奉行・大鳥圭介の指揮する伝習隊、額兵隊
 などが駆けつけ、同地を守っていた彰義隊などと合流し、
 500名が布陣した。
  新政府軍の斥候と小競り合いを繰り返していたが、松
 前から敗走してきた部隊を取り込み、木古内周辺の要所
 に部隊を配置した。
  1869年5月31日(4月20日)未明に、木古内口の新政府
 軍が総攻撃を開始すると、昼ごろまで、激戦が続いた。
  旧幕府軍は、額兵隊と遊撃隊などが、最後まで踏み止
 まっていたが、70名以上の死傷者を出して、泉沢(現・
 木古内町)まで後退した。
  その後、本多幸七郎率いる伝習隊などの援軍を加え、
 知内に孤立した彰義隊など300名を救うために、再び、木
 古内へ向かった。
  孤立していた部隊も、木古内突入を決め、挟撃を恐れ
 た新政府軍が撤退し、木古内の奪還に成功した。
  しかし、旧幕府軍は、木古内を放棄し、地形的に有利
 な矢不来(現・北斗市)まで後退し、砲台と胸壁を構築
 して布陣した。
  [矢不来の戦い]: 新政府軍は、木古内木古内口と松
 前口の軍が合流した。
  その後、補給を整えた新政府軍は、1869年6月9日(4月
 29日)に、陸軍参謀・太田黒惟信が、1,600名を率いて
 本道、海岸、山上の三方から矢不来を攻撃した。
  旧幕府軍は、甲鉄・春日等による艦砲射撃で、衝鋒隊
 の大隊長・天野新太郎や、永井蠖伸斎など多数の死傷者
 を出し、総崩れとなった。
  大鳥圭介は、富川(現・北斗市)で、部隊の立て直し
 を図ったが果たせず、有川(現・北斗市)まで撤退した。
  有川では、榎本武揚自ら指揮を執るが、旧幕府軍は、
 完全に崩壊していた、箱館方面へ敗走を始めた。
  旧幕府軍は、この戦闘で、160名の戦死者を出した。
  [二股口の戦い]: 土方歳三の指揮で、衝鋒隊・伝習隊
 からなる300名は、1869年5月21日(4月10日)に、台場山
 (現・北斗市)に到着し、二日がかりで、16箇所に胸壁
 を構築し、新政府軍を待ち構えた。
  1869年5月24日(4月13日)正午過ぎ、700名の新政府軍
 が攻撃を開始し、対する土方軍は、胸壁を楯に小銃で防
 戦した。
  数で勝る新政府軍は、次々と兵を入替えて攻撃を繰り
 返すが、土方軍は雨の中、2小隊ずつが交代で小銃を撃ち
 続けた。
  翌5月25日(4月14日)早朝、新政府軍は、疲労困憊し、
 稲倉石まで撤退した。
  旧幕府軍が、撃った弾丸は、3万5千発に及び、16時間
 にわたる激闘であった。
  1869年6月2日(4月22日)に、新政府軍は、再度、攻撃
 を試みるが、土方軍は、これも撃退した。
  1869年6月3日(4月23日)午後、新政府軍は、正攻法を
 あきらめ、急峻な山をよじ登り、側面から小銃を打ち下
 ろした。
  そのまま、夜を徹しての大激戦となった。
  1869年6月4日(4月24日)未明には、瀧川充太郎が率い
 る伝習士官隊が、抜刀し、敵中に突進した。
  そして、混乱する新政府軍を敗走させた。
  それでも、新政府軍は、次々と新しい兵を投入し、旧
 幕府軍は、熱くなった銃身を水桶で冷やしながら、小銃
 で応戦し続けた。
  1869年6月5日(4月25日)未明、ついに新政府軍は、撤
 退した。
  これ以降、新政府軍は、二股口を迂回する道を山中に
 切り開き始めた。
  1869年6月9日(4月29日)に、矢不来が、新政府軍に突
 破されると、退路を断たれる危険があった土方軍は、五
 稜郭への撤退を余儀なくされた。
  [箱館総攻撃]: 1869年6月8日(4月28日)に、青森口
 総督・清水谷公考が、江差から上陸した。
  1869年6月10日(5月1日)以降、松前木古内から進軍
 した東下軍と、二股から進軍した南下軍が、有川付近に
 集結し、箱館攻撃の態勢を整えた。
  敗色濃厚となったため、1869年6月11日(5月2日)、ブ
 リュネらフランス軍人は、フランス船で箱館を脱出した。
  旧幕府軍は、大鳥圭介らが、七重浜の新政府軍を数度
 に渡って夜襲したが、
  1869年6月17日(5月8日)に、榎本自ら出陣した大川
 (現・七飯町)への夜襲は、失敗に終わった。
  1869年6月20日(5月11日)に、新政府軍は、箱館総攻
 撃を開始し、海陸両方から箱館に迫った。
  [箱館湾海戦]: 旧幕府海軍は、自らのミスから新政府
 軍に千代田形を奪われていた。
  1869年6月12日(5月3日)夜、遊軍隊のスパイ・斎藤順
 三郎により弁天台場の大砲が使用不能にされ、急遽、箱
 館湾に綱を敷設したものの、
  1869年6月15日(5月6日)に、新政府軍により切断され、
 軍艦を箱館湾に進出された。
  1869年6月16日(5月7日)の海戦で、回天が蒸気機関
 破壊され、意図的に浅瀬に乗り上げ、浮き砲台となった。
  1869年6月20日(5月11日)の海戦では、一隻残った蟠
 竜が、新政府軍の朝陽を撃沈し、旧幕府軍の士気は、大
 いに高まった・・が、
  砲弾を射ちつくした蟠竜も、座礁の上、乗組員は上陸
 して弁天台場に合流した。
  [四稜郭方面の戦闘]: 旧幕府軍では、大鳥圭介が、五
 稜郭北方の進入路にあたる亀田新道や、桔梗野などに伝
 習歩兵隊、遊撃隊、陸軍隊などを配置して、指揮を執っ
 ていた。
  1869年6月20日(5月11日)早暁、新政府軍4,000名が、
 大挙して押し寄せてきた。
  大鳥は、東西を奔走し、自らも大砲を撃って、力戦し
 たが、夜には五稜郭に撤退した。
  また、旧幕府軍が、五稜郭の北に急造した四稜郭では、
 松岡四郎次郎が率いる一聯隊が、防戦していた・・が、
  五稜郭との中間に位置する権現台場を、新政府軍に占
 領されると、退路を断たれることを恐れ、五稜郭へ敗走
 した。
  [背後への奇襲上陸・箱館市街の戦闘]: 一方、1869年
 6月20日(5月11日)未明、豊安丸と飛龍丸に分乗した陸
 軍参謀・黒田清隆率いる新政府軍700名が、夜陰に紛れて
 箱館山の裏側に上陸した。
  豊安丸の部隊は、西北側の山背泊から上陸し、弁天台
 場の背後を脅かした。
  黒田直率の飛龍丸の部隊は、西側の寒川付近に上陸し、
 絶壁をよじ登って、箱館山の山頂に到達した。
  山頂にいた旧幕府軍監視兵は、驚いて遁走し、夜明け
 までには箱館山が占領された。
  このとき、遊軍隊が、箱館山薬師堂で、奇襲部隊を迎
 え、山道の案内にあたった。
  新政府軍の奇襲上陸に対し、箱館奉行・永井尚志は、
 弁天台場に入り、守備を固め、瀧川充太郎が、新選組
 伝習士官隊を率いて、箱館山へ向かった。
  しかし、山頂からの攻撃は、圧倒的で、大森浜沖の陽
 春からの艦砲射撃もあって、一本木関門付近まで退き、
 さらに、五稜郭まで後退した。
  午前11時ごろには、箱館市街は、制圧されたが、弁天
 台場の旧幕府兵が、材木屋に放火、瞬く間に火が広がり、
 872戸を焼失した。
  箱館市街を制圧した新政府軍は、一本木関門方面に進
 出する。
  これに対して、土方歳三は、孤立した弁天台場の救出
 に向かうが、一本木関門付近で、指揮中に狙撃され戦死
 した。
  さらに、副総裁・松平太郎が、箱館奪還を試みるが失
 敗し、五稜郭、弁天台場、千代ヶ岱陣屋のみが残るだけ
 となった。
  1869年6月21日(5月12日)には、五稜郭に対して箱館
 湾の甲鉄による艦砲射撃が始まり、古屋作久左衛門が重
 傷を負ったほか、死傷者が続出した。
  また、旧幕府軍では脱走兵が相次いだ。
  [戊辰戦争終結]: 1869年6月21日(5月12日)夜、新政
 府軍参謀・黒田清隆の命を受けた軍監・村橋久成、監軍・
 池田次郎兵衛が、箱館病院を往訪し、
  諏訪に降伏交渉の仲介を頼もうとするが瀕死のため、
 高松凌雲らと協議し、高松と病院事務長との連名で榎本
 に降伏を勧告した。
  榎本は、士官以上を集めた会議の結果、1869年6月23日
 (5月14日)、これを拒絶したが、
  灰塵に帰するには惜しいとして榎本がオランダ留学時
 に入手した、海事に関する国際法と外交に関する書物
 『海律全書』を黒田に届けさせた。
  1869年6月23日(5月14日)同日、榎本は、永井の口利
 きにより千代ヶ岱陣屋付近の家屋で、軍監・田島圭蔵ら
 と会見した。
  榎本は、降伏勧告を改めて拒絶するが、五稜郭にいる
 傷病者の後送を申し入れた。
  250人の傷病者は、その日のうちに湯の川へ送られた。
  弁天台場は、艦砲射撃と背後の上陸部隊の攻撃に持ち
 堪えていたが、
  艦を失った海軍兵を収容していたこともあり、兵糧が
 底をつき、1869年6月24日(5月15日)に、永井尚志以下
 240名が降伏した。
  1869年6月24日(5月15日)同日、榎本は、五稜郭に捕
 らわれていた新政府軍の捕虜11名を送り返した。
  [千代ヶ岱陣屋の陥落]: 五稜郭の前哨、千代ヶ岱陣屋
 にも、降伏勧告の使者が訪れていたが、箱館奉行並・中
 島三郎助は、これを拒否した。
  一方、小彰義隊長・渋沢成一郎が、隊士とともに湯の
 川に逃走した。
  1869年6月25日(5月16日)に、五稜郭からの撤退命令
 も拒否して、中島は、浦賀与力時代の部下らとともに最
 後の抵抗をした。
  1時間の戦闘で、守備隊は壊滅し、中島三郎助は、2人
 の息子とともに戦死した。
  これが、箱館戦争最後の戦闘となった。
  榎本は、同日の夕刻、榎本側から軍使を遣わし、翌朝
 7時までの休戦を願い出た。
  政府側は、それを了承し、五稜郭に対する総攻撃開始
 の日時を通告した。
  休戦の間、幕府軍首脳側は、合議の上、降伏し五稜郭
 開城を決定した。
  同夜、榎本は、敗戦の責任と、降伏する兵士の助命嘆
 願の為に、自刃しようとしたが、たまたま近くを通りか
 かった(介錯を頼む為、榎本が呼び止めたとも言われる)
 大塚霍之丞に制止された。
  翌1869年6月26日(5月17日)朝、総裁・榎本武揚、副
 総裁・松平太郎ら旧幕府軍幹部は、亀田の会見場に出頭
 した。
  陸軍参謀・黒田清隆、海軍参謀・増田虎之助らと会見
 し、幹部の服罪と引き換えに、兵士たちの寛典を嘆願し
 た。
  しかし、黒田は、幹部のみに責任を負わせると、榎本
 を始めとする有能な人材の助命が困難になると考え、こ
 れを認めなかった。
  これ以上の戦闘継続は困難であった榎本が折れ、無条
 件降伏に同意した。
  新政府軍が、降伏の手順を明らかにする実行箇条の提
 出を要求して、この会談は終了した。
  その後、榎本は、降伏の誓書を亀田八幡宮に奉納して、
 一旦、五稜郭へ戻り、夜には実行箇条を提出させた。
  1868年6月27日(5月18日)早朝、実行箇条に従い、榎
 本ら幹部は、亀田の屯所へ改めて出頭し、昼には、五稜
 郭が開城した。
  郭内にいた約1,000名が投降し、その日のうちに、武装
 解除も完了した。
  ここに、箱館戦争、及び、戊辰戦争終結した。
  なお、室蘭の開拓と守備に当たっていた開拓奉行・澤
 太郎左衛門以下250名は、22日に投降した。
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